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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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第二部 一話 風を運ぶ街道

雲海は海より静かで、海より残酷だった。朝日が白い波を金色に変えても、その下に落ちた船と人の影は見えない。空港の帆綱は寒さで強張り、風はいくつもの土地の匂いを運ぶ。今度の旅で、歌は誰かを立たせるだけでなく、落ちる決断まで支えてしまう。

ガレスは、別れの言葉を用意していなかった。

「街道の鐘が三度鳴ったら、馬車の下へ潜れ。二度なら崖側を空けろ。一度だけなら、立ち止まって空を見ろ」

リーネ北門の外で、彼はそれだけ言った。

「一度は何が来るの?」

ルナが尋ねる。

「見れば分かる」

「分からないから聞いてるんだけど」

「先に答えを知ると、つまらん」

ガレスは笑わなかった。だが、フィオが横を向いて鼻を鳴らし、セナは隠しきれずに笑っていた。

三人はここから西の集落へ向かう。ミオとルナが加わる商隊は、北東の山岳都市レイファを目指す。世界樹について残された記録を調べるなら、空路と古文書の集まるレイファへ行くべきだと、神殿の老人が教えてくれた。

同じ道を歩けるのは、門から街道が分かれる場所までだった。

門前の市場で、ガレスは二人の荷を最後にもう一度点検した。火打石、毛布、水袋、乾燥肉。ミオが灰色の旅嚢を腰へ結ぶと、彼は留め具を二度引いた。

「登録品が一つしか入らないからって、袋そのものまで軽いと思うな。崖で落とせば、ギターも崖の下だ」

「中に入ってたら壊れないんでしょ」

「袋が戻ってくればな」

ミオは腰紐を結び直した。便利な魔法道具でも、失う危険までは消してくれない。

ルナは帳面へ旅嚢代を書き、その横に宿代の目安を記した。

「返済期限は?」

「稼いでからでいい」

「曖昧なの、嫌なんですけど」

「俺も貸す予定がなかった」

ガレスが非常用に持っていた安物の旅嚢は、赤いギターを登録した瞬間から、彼には二度と使えない物になった。その不便さを、ミオは硬貨の額より重く感じた。

「これ」

ミオは硬貨を入れた小袋を差し出した。

「何だ」

「旅嚢の代金。全部じゃないけど」

ガレスは受け取らなかった。

「半端に返すなと言った」

「でも、持ってると使うかもしれない」

「使え。飯を抜いて道具の代金を返す馬鹿を、貸した側が喜ぶと思うか」

「安いんでしょ、これ」

ミオは腰の灰色の一品旅嚢へ触れた。手のひらほどの袋に、赤いギターだけが収まっている。一度登録した物は変更できない。だから袋そのものをガレスへ返すこともできない。

「安い品にも代金はある。だが、返す順番は俺が決める。生きる。稼ぐ。再会する。そのあとだ」

「勝手すぎない?」

「貸したのは俺だ」

言い返せなかった。

セナが二人へ、乾燥させた薬草の包みを一つずつ渡した。腹痛、発熱、傷口を洗うとき。用途ごとに紐の色が違う。

「文字が読めなくても、色なら分かるでしょう」

「ありがとう」

ルナが受け取り、頭を下げる。

フィオはミオへ細い革紐を投げた。

「旅嚢の口紐へ結べ。落としたときに気づく」

「親切にするなら普通に渡せばいいのに」

「返せ」

「もう結んだ」

濃紺の髪を揺らして笑ったミオを見て、フィオの尻尾が一度だけ動いた。

道が分かれる。

ガレスは最後まで「元気で」とも「また会おう」とも言わなかった。

「死ぬなよ」

「そっちも」

ミオが返すと、彼は大剣を背負い直して西へ歩き出した。

セナは何度も振り返った。フィオは一度だけ手を上げた。三人の姿が森へ消えてからも、ルナはしばらく分かれ道を見ていた。

「また会えるかな」

「会えるでしょ」

「どうして分かるの?」

「分からない。でも、会うって決めておけば、会おうとはする」

言いながら、ミオは腰の革紐を確かめた。



二人が加わったのは、七台の幌馬車からなる商隊だった。

香辛料、乾燥果実、布、薬、工具。それぞれの馬車に違う匂いが染みつき、風向きが変わるたび、甘さと苦さと獣の汗が入れ替わった。

隊商長ドルトは、白い口ひげを蓄えた小柄な男だった。歩く速度は遅いが、誰よりも早く異変へ気づく。

「保護旅人二名。戦闘経験なし。文字は勉強中。片方は足の古傷に注意」

ガレスから渡された書類を読み上げ、ドルトはルナの右足を見た。

「古傷じゃありません。数日前の怪我です」

「旅の最中にできた傷は、治るまで古傷と同じように扱う。痛くなってから言うな。痛くなる前に言え」

「はい」

ルナが笑顔で答える。

ドルトは眉を寄せた。

「返事と笑顔は別々にしろ。俺は客じゃない」

ルナの口元が止まった。

「……はい」

「今のほうが分かりやすい」


ドルトは次にミオを見る。

「楽器は袋の中か」

「入ってる」

「道中は出すな。馬は聞き慣れない音を嫌う。弾きたいなら野営地で許可を取れ」

「分かった」

「二人に頼む仕事は、水桶の確認、子どもの見張り、食事の配布、荷札の数え直しだ。できない仕事を引き受けるな。できる仕事を軽く見るな」

ガレスと似たことを言う。

冒険者は、皆こうなのだろうか。

ミオが考えていると、ドルトが紙を一枚差し出した。仕事ごとの報酬が書かれているらしい。数字だけは、この世界へ来る前の形とよく似ていた。

「一日分を先に渡す。必要な物を揃えろ」

小さな銀貨が四枚、二人の掌へ落ちた。

ルナは礼を言うより先に地面へしゃがんだ。

銀貨を二枚ずつ分ける。さらに銅貨へ両替できる場所を尋ね、受け取った銅貨を小さな山へ分けた。

「宿は商隊持ちだよね。食事も朝と夜は出る。じゃあ昼の分と、薬と、靴紐の予備。それから使わない分」

「まだ買ってもないのに?」

「先に分けるの。残ったら使う、にすると全部使えないから」

「逆じゃない?」

「私には、これが普通」

ルナの指は迷わない。

「日本でも?」

「給料が入ったら、家賃と食費。妹の学校。お母さんの病院。残った分から交通費と、自分で使う分」

「十七歳が払うの?」

「全部じゃないよ」

ルナは笑った。

ドームの巨大な画面に映っていたものと同じ、相手を安心させる形だった。

「私がやりたくてやってるから」

ミオは、それ以上聞けなかった。

自分の家では、金の話をする必要がなかった。必要なものは用意された。欲しいと言わなくても、高価なものが部屋へ届いた。

それなのに、誰かと分け合った記憶はほとんどない。

ルナの四枚の銀貨より、自分の家のほうが豊かだった。それだけは間違いない。どちらが恵まれていたのかと考え、ミオは答えを出せなかった。



街道は午後から、ゆっくり高度を上げた。

森の木々が低くなり、代わりに銀色の草が斜面を覆う。細い葉は風を受けても倒れず、同じ方向へ波のようにうねった。

その上を、影が通った。

「雲?」

ルナが空を見上げる。

雲ではなかった。

白い巨体が、山と山の間を泳いでいる。

鯨に似た丸い頭。翼の代わりに、透き通ったひれが幾重にも広がっている。尾が空を打つたび、周囲の雲が長い帯になってほどけた。

一頭ではない。

大小十数頭の群れが、夕日の中を北へ進んでいた。

「あれが、一度の鐘?」

ルナが呟く。

街道脇の鐘楼から、低い音が一度だけ鳴った。

商隊の人々は足を止めた。誰も荷車の下へ潜らず、崖側を空けもしない。ガレスが教えた通り、空を見た。

雲の切れ目から、雲鯨の群れが現れた。

白い巨体が、泳ぐように風を掻く。透明なひれの縁へ夕日が溜まり、群れの下へ虹色の影を落とした。幼い一頭が隊列を外れると、大きな二頭が速度を緩めて挟む。

ルナは声を上げかけ、静かに息を吐いた。

「これが、一度の答えなんだ」

ミオは頷いた。先に説明されていたら、これほど長く空を見なかったかもしれない。

商人も護衛も足を止める。


誰も馬車の下へ隠れない。ただ荷を置き、帽子を取り、空を見上げた。

最も大きな雲鯨が商隊の真上を通った。

腹部は夜空のような深い青で、無数の淡い点が光っている。星を身体の中へ飼っているようだった。

ミオは手帳を取り出しかけ、やめた。

書くより先に見たかった。

風が降りてくる。

冷たい雲の匂いと、遠い雨の気配。ルナの長い蜂蜜色の髪が舞い上がり、ミオの頬へ触れた。

「ごめん」

「いい」

二人は笑った。

その瞬間、鐘楼が激しく揺れた。

一度。

続いて、二度。

間を置かず、三度目。

「馬車の下へ!」

ドルトの怒声が飛ぶ。

空の高い場所で、何かが燃えていた。

青い帆を広げた飛空船だった。

挿絵(By みてみん)

船体を包む光が一つずつ消え、傾いた船首が山肌へ向く。帆から剥がれた青い布が、空中で巨大な花びらのように散った。

ミオは一番近くにいた子どもの腕をつかみ、馬車の下へ押し込んだ。

ルナがもう一人を抱える。

飛空船は商隊の頭上を越えた。

風圧で幌が裂け、馬が悲鳴を上げる。

船は北の岩棚へ落ちた。

遅れて、腹の底へ響く音が山々を揺らした。

青い帆だけが、しばらく空を落ち続けていた。


《余響譜 02》 墜ちた青い帆


岩棚までの道は、道と呼べるものではなかった。

飛空船が折った木々をたどり、護衛たちは斜面を登った。ミオとルナは最後尾で、空の担架と水袋を運ぶ。走れば追いつけたが、ルナの右足を考え、ドルトが速度を落とさせた。

「私は大丈夫です」

「その言葉は報告にならん。痛みを十段階で言え」

「……三」

「帰りに五へ上がったら担架へ乗せる」

ルナは笑いかけ、途中でやめた。

岩棚には青い帆が引っかかっていた。船体は横倒しになり、片側が崖の外へはみ出している。木材が軋むたび、船全体が少しずつ雲海へ近づいた。

挿絵(By みてみん)

「乗客は十二人!」

船員が叫ぶ。

「歩ける者が五人。重傷が三人。船尾に子どもが二人いる。残り二人は確認できていない!」

護衛たちが船へ駆けた。

ミオも続こうとしたが、ドルトに肩をつかまれた。

「中へ入るな。名を聞け。出てきた順に書け。誰が残っているか分からなくなる」

ミオは焦りを飲み込み、墜落船の乗客名簿を膝へ置いた。文字の読めない幼児には服の色、意識のない者には特徴を書いた。

一人目。船員、左腕骨折。

二人目。老女、歩行可能。

三人目。少年、ノア、額に切創。

助けるとは、船内へ飛び込むことだけではない。誰かが数えなければ、救出の終わりを決められない。

「毛布は重傷者から!」

ルナは助け出された人々を岩陰へ分けた。歩ける者が寒いと訴えても、先に意識のない女へ毛布を掛ける。

「全員つらいのに、順番をつけるんだね」

ノアが呟く。

ルナはいつもの大丈夫という言葉を飲んだ。

「うん。全員を同時には助けられないから」

正しさより先に、その残酷さを認めた。

「文字、書けない」

「印でいい。大人、子ども、歩ける、運ぶ。四つに分けろ」

ルナが地面へ四つの枠を描いた。ミオは救助された者の名前を聞き、聞こえた音のまま手帳へ記す。

一人目。腕の折れた老女。

二人目。額から血を流す船員。

三人目は、泣いていない少年だった。

「名前は?」

返事がない。

ルナが膝をつく。少年と目の高さを合わせ、笑った。

「もう大丈夫。お姉ちゃんたちがいるから」

少年はルナの顔を見つめたまま、後ずさった。

「どうしたの?」

「船の中にも、笑ってる人がいた」


「え?」

「怖いのに、ずっと笑ってた。お姉ちゃんも同じ顔」

ルナの笑顔が止まった。

船体が大きく傾いた。

崖際で声が上がる。積み荷を固定した縄が切れ、薬箱が船外へ滑り始めていた。

「薬を先に下ろせ!」

「子どもが船尾に残っている!」

「薬が落ちたら、助けても治療できん!」

怒声が重なる。

ルナは少年の肩を抱き、笑わずに言った。

「怖いよね。私も怖い」

少年が初めてうなずいた。

「でも、名前を教えて。中にいる人を、一人も数え忘れたくないの」

「……ノア」

ルナはその名をミオへ伝えた。

ミオは地面の子どもの枠へ一本線を引く。十二人のうち、確認できたのは六人。

「子どもはあと一人!」

船内へ叫ぶ。

護衛のカイルが、少女を抱えて窓から出てきた。その背後で薬箱が崖へ落ちる。ドルトは追わなかった。

「人を先に数えろ! 荷は作り直せる!」

最後の二人は操舵室に挟まれていた。担架を二つ使い、全員を船から離した直後、青燕号は岩棚から滑り落ちた。

巨大な青い帆が雲へ沈む。

歓声は上がらなかった。

助かった者も、助けた者も、失った薬箱と沈む船を黙って見ていた。

ノアがルナの袖を引いた。

「今は笑わないの?」

「うん」

ルナは唇を震わせた。

「今は、笑えないから」

少年は少し考え、ルナの手を握った。

「その顔のほうが、怖くない」

ルナは返事をしなかった。ただ、握られた手を握り返した。

ミオはその横顔を見ていた。

ドームの光の中では一度も見なかった、何も整えていないルナの顔だった。



夜、救助者たちは十二人の名をもう一度読み上げた。

最後まで見つからなかった二人は、傾いた船尾の収納室にいた。全員が生きていた。

歓声は小さかった。助かった者の中にも、明日まで持つか分からない重傷者がいる。

ルナは自分の足の痛みを十段階で答えた。

「五」

ドルトは黙って担架の端を示した。

今度は大丈夫と言わず、ルナは横になった。助ける側から助けられる側へ移ることを、罰のように感じない練習だった。


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