第四部 二話 選ばれなかった娘
上層水門は、夜明けまで持たない。
作戦室の模型では、青い水が透明な管を流れていた。上層の家々は高い石台にあり、下層の屋根は水路とほぼ同じ高さにある。
同じ一尺の増水でも、失うものが違う。
上層の役人は貯水湖の壁を守れと言い、下層代表は今すぐ放水を止めろと叫ぶ。どちらも自分の家族を守ろうとしている。
ネリスの地図は、誰か一方を悪者にしてくれなかった。
ネリスは王宮の作戦室へ地図を広げた。
「第一水門を開けば下層街が沈みます。閉じたままなら貯水壁が破裂し、王都全体へ流れます」
王は雨律術師を見た。
「琴線は何と告げている」
「水位は安定していると」
「その音が偽られているんです!」
ネリスの声が響く。
王は娘ではなく、弟アルトを見た。
「お前はどう思う」
アルトは青ざめていた。
「姉上の計測が正しいと思います」
初めて、公の場でそう言った。
それでも王は決断しなかった。雨律に背く命令を出し、失敗した王として記録されるのを恐れている。
ネリスは地図を丸めた。
「許可を待ちません」
「王命に逆らうか」
「民が溺れるまで王女でいるくらいなら」
冠を机へ置き、作戦室を出た。
◇
ミオが追いついたのは、宮殿の長い雨廊だった。
「弟、味方したね」
「遅すぎます」
「うん」
「もっと早く言えたはずです」
「それも、うん」
ネリスは足を止める。
「あなたは、どうして分かるような顔をするのですか」
ミオは廊下の外を見る。雨琴線を渡る雫が、銀色の震えを作っている。
「私にも弟がいるから」
初めて、家のことを話した。
裕福だったこと。欲しい教材も部屋も与えられたこと。両親が弟の予定は覚えていて、自分には運転手を手配したこと。だから寂しいと言えば、恵まれているのにわがままだと思われそうだったこと。
「弟は悪くない。たぶん、気づいてないだけ。だから嫌いになりきれない」
ネリスは黙って聞いた。
少し離れた柱の陰には、ルナがいた。ミオは気づいていたが、止めなかった。
「私は音楽へ逃げた。逃げて、そこで初めて自分で選んだ」
「私は水路へ逃げました」
ネリスが言う。
「弟を憎めば、父に選ばれなかったことを考えずに済みました。でも弟も、私の成果を盗みたいわけではなかった」
「分かったからって、すぐ許さなくていいんじゃない」
「あなたは弟を許しているのですか」
「許すも何も、まだ何も話してない」
ミオはそこで気づいた。
自分は両親だけでなく、弟にも本音を一度も伝えていない。
傷つかなかったからではない。伝えて、たいしたことではないと言われるのが怖かったからだ。
◇
三人とネリスは、王の許可なしに地下水路へ向かった。
ルナが隣を歩く。
「聞いちゃった」
「うん」
「ごめん」
「聞こえるところで話した」
「いつか、もっと聞いていい?」
虹瀑で交わした問いだった。
今度はミオが頷いた。
「この件が終わったら」
背後で、シンは何も言わなかった。
彼だけが二人の過去を、本人たちの許可より先に知っていたかもしれない。
その疑いが、足音の間へ残っていた。
《余響譜 02》 知っていた人
地下水路の分岐には、人工雨律の装置が置かれていた。
銀筒が何十本も壁へ埋め込まれ、王都の琴線へ偽の水位を送り続けている。中央の記録板には、聖律院の印があった。
ネリスが停止手順を調べる間、シンは奥の通路を見張った。
「さっきの質問に答えて」
ルナが言う。
水音が狭い壁へ反射する。
「右手を二回上げる合図。どこで知ったの」
シンは逃げ道を探すように視線を動かし、やめた。
「配信で見ました」
「偶然?」
「いいえ」
「私を知ってた?」
「はい」
短い返事が、ひどく大きく聞こえた。
「アステリアのファンでした。三年前から。ライブにも二度行きました」
ルナの顔から表情が消える。
「ミオさんのバンドも、配信で見たことがあります。関連動画に出てきて」
「転移した時から、私たちが誰か分かってたの」
「レイファで見た時には」
「なのに初対面のふりをした」
「はい」
シンは言い訳をしなかった。
ルナには、その沈黙さえ計算に見えた。
謝り続ければ自分を被害者にする。黙れば誠実に見える。どちらを選ばれても、相手の意図を疑ってしまう。
それが、信頼を壊された状態なのだと初めて知った。
「私の動画を、どんな時に見てたんですか」
「仕事から帰った後です」
「私が笑ってたら、元気になりました?」
「はい」
「その私が、仕事で作った顔かもしれないって考えた?」
シンは答えられなかった。
ファンとして救われたこと自体は嘘ではない。だが救ってくれた像を、本人へ返済させようとすれば暴力になる。
その潔さで、したことが軽くなるわけではない。
「私が十七歳なのも知ってた?」
「知っています」
ルナは一歩下がった。
これまで同行条件を話し、同じ宿に泊まり、眠る部屋の場所も伝えた。相手はただの同郷の年長者ではなかった。自分の仕事上の顔を何年も見ていた人だった。
「怖い」
ルナははっきり言った。
シンの肩が落ちる。
「そう思われて当然です」
「当然って言えば、私がそれ以上責めにくくなると思ってる?」
「違います」
「じゃあ黙って」
シンは口を閉じた。
◇
ミオは怒っていた。
ルナを怖がらせたことにも、自分の小さなライブまで知られていたことにも。
同時に、彼がサラを助けたこと、聖律院の情報を渡したことまで嘘になるわけではないと分かっていた。
だから、簡単に嫌いになれないことへも腹が立った。
「どうして隠したの」
「ファンだと名乗って近づけば、もっと警戒されると思った。役に立ってから話せば、信用してもらえるかもしれないと」
「それ、自分に都合がいい順番だよ」
「はい」
「謝って済ませる?」
「済まないと思います」
シンは外套から記録板の写しを出し、床へ置いた。
「人工雨律の停止順と、聖律院の退路です。俺は別の通路から閉鎖弁へ行きます。同行契約は、ここで終わりにしてください」
「勝手に終わらせるのも、自分に都合よくない?」
ミオの言葉に、シンが止まる。
「でも今は、ルナの近くにいないで」
「分かりました」
彼は一人で暗い水路へ入った。
背中を呼び止める者はいなかった。
必要な情報を残したことは、誠実だった。
告白するまで隠していたことは、不誠実だった。
両方が本当だった。
《余響譜 03》 偶像の檻
水路から地上へ戻ると、白い衣の人々が待っていた。
「聖女様を保護します」
彼らは武器を持っていなかった。花を持ち、乾いた外套を用意し、ルナのために屋根つきの輿まで運んできた。
「必要ありません」
「暴徒が聖女様を狙っています」
「私は聖女じゃないです」
「謙遜なさらず」
善意は、拒絶する隙間を与えなかった。
疲労していたルナは、一晩だけという条件で下層礼拝堂へ移った。
◇
翌朝、着る服が決められていた。
世話役はルナの淡色の旅装を丁寧に畳み、手の届かない棚へ置いた。
「汚れていますから洗います」
「自分でできます」
「聖女様にそのようなことは」
親切な手が、衣服だけでなく選択を持っていく。
髪を結う位置も、食べる量も、眠る時刻も決められた。ルナが希望を言えば、疲れて判断できないのだと微笑まれる。
牢の扉なら、逃げようと思えた。感謝と心配で作られた檻は、自分が我慢すれば皆が喜ぶと知っている分だけ出にくかった。
白と青の長衣。髪には雨滴形の飾り。
食事は「聖女の身体を清めるため」と薄い粥だけ。窓の外には祈りを求める人々が並び、世話役はルナが話す言葉を紙へ書いた。
「本日の祈りは『皆に等しく恵みを』でお願いします」
「私が言うことですよね」
「民が安心する言葉です」
ルナは笑った。
「分かりました」
仕事用の笑顔だった。
求められた衣装を着る。決められた時間に食べる。期待される言葉を話す。日本で慣れていた。
だからこそ、檻だと気づくのが遅れた。
◇
ミオは礼拝堂の外へ来たが、押し入らなかった。
光板へ短く書き、窓から見える場所へ掲げた。
――嫌なら、自分で嫌と言って。
助けて、ではない。
ミオが勝手に決めれば、聖女を守る人々と同じになる。
ルナは板を見た。
世話役が演説原稿を差し出す。
広場には千人近くが集まっている。水門危機を鎮めるため、聖女が王宮へ従順を求めるという筋書きだった。
ルナは壇上へ出た。
歓声が降る。
笑顔を作る。
その顔のまま、原稿を二つに破った。
「私は聖女ではありません」
広場が静まる。
「十七歳です。怖いことも、嫌なこともあります。歌えば間違えることもあります。皆さんの病気を治せません。水も増やせません」
世話役が袖を引く。ルナは自分で振りほどいた。
「助けられる時は助けたい。でも、私が言ったから正しいと思わないでください。私の笑顔を、答えにしないでください」
誰かが裏切り者と叫んだ。
別の誰かが、泣きながら頷いた。
信者は一つの反応へ揃わなかった。
それでよかった。
ルナは壇上から下り、自分の淡色の旅装へ着替えた。
ミオが待っていた。
「遅い」
「檻、居心地よかったから」
「正直だね」
「怖いくらい」
二人は笑わなかった。
怖さを、怖いまま持って歩き出した。
《余響譜 04》 同じ音の平和
オルディスは、剣を持っていなかった。
操作室の壁には、古い楽団の写真が掛かっていた。
若いオルディスが指揮台に立ち、その最前列で妻が弦楽器を弾いている。端には幼い息子が、父の真似をして棒を振っていた。
「家族を忘れたくないから、ここへ掛けている」
彼は言う。
「同時に、忘れない限り自分の方法を疑わずに済む。彼らの死を無駄にしないという言葉は、便利だ」
自分の危うさを理解していない男ではなかった。理解してなお、他の道より統一を選んでいる。その方が、単なる狂気より説得が難しい。
地下中央水門の操作室で、一本の指揮棒を手にしていた。五十代半ば。灰色の髪。聖律院の印を胸へつけている。
「君たちの音を聞きたかった」
男は穏やかに言った。
「雲海では敵味方を強め、虹瀑では沈黙を選び、この都では少女を聖女にした」
「したのは、あなたたちでしょ」
ミオが答える。
「芽のない場所に、信仰は育たない」
オルディスは操作盤へ手を置いた。
「私は戦場の指揮者だった。二つの国の兵が、違う歌を歌いながら殺し合うのを見た。妻と息子は、その報復で死んだ」
同情を求める声ではなかった。
「もし全員が同じ恐怖を知り、同じ目的へ歩けたなら、戦争は起きない。君たちの響応は、それを証明する」
ミオは否定の言葉を急がなかった。
妻子を失った痛みは本物だ。その願いまで嘘にすれば、こちらも相手を一つの悪い音へ押し込めることになる。
「争いをなくしたいのは分かる」
「ならば――」
「でも、悲しんだ人が間違えないわけじゃない」
オルディスの目が細くなる。
「選べない平和は、止まってるだけだよ。誰かが指揮棒を下ろしたら、また動き出す」
「選択があるから、人は互いを傷つける」
「選べない人は、自分が生きてるって言えるの?」
ルナが言った。
「私は皆が欲しい顔をしてきた。争いは少なかった。でも、あれを平和だったとは思えない」
◇
オルディスは指揮棒を上げた。
人工雨律装置が起動する。
王都中の水門へ、同じ開門命令が送られた。
「一斉に開けば、滞留した水は海へ抜ける。被害は最小になる」
「地図を見てない」
ネリスが入ってきた。
「水路の幅も、下層の地盤も違う。同じだけ開けば、弱い地区から沈む」
「違いを理由に動かなければ、全体が破裂する」
「違う動かし方をすればいい」
ネリスは水路図を広げた。
その背後に、弟アルトと水門技師たちがいた。
王の命令ではない。
彼ら自身が来た。
オルディスは初めて、指揮棒を握る手へ力を込めた。
「では示してみなさい。異なる判断が、一つの命令より早いと」
全水門が開き始めた。
《余響譜 05》 三つの違う答え
王都を救うために、全員が同じ動きをする必要はなかった。
逆に、違う動きをするためには、互いの仕事を知る必要があった。
北塔が三分の一を開く間、南塔は流れ込む水量を受ける。下層第三門が閉じる時、古い放水路の住民は先に避難する。
自由に動くことは、好き勝手に動くことではない。
ネリスは各部署へ「何をしろ」だけでなく、「その結果、隣で何が起きるか」を伝えた。
北の石造水路は、三分の一だけ開く。
南の木製門は、二度に分けて閉じる。
下層第三門は水を通さず、隣の古い放水路へ流す。
ネリスの地図には、それぞれ違う答えが書かれていた。
「命令を十か所へ届ける時間がない」
アルトが言う。
ルナは虹瀑から持ってきた光板を出した。
「音が駄目なら、光で」
王都の塔へ、赤、青、白の板を配る。雨で視界が悪い場所には、技師が手旗を渡す。
ミオは赤いギターを取り出した。
「演奏するのですか」
ネリスが訊く。
「全員を同じにしない。部署ごとの拍を支える」
目的は、各技師が自分の手順を実行できること。
範囲は中央操作室から各塔の中継者まで。
人工雨律に動きを奪われる者が出たら止める。
◇
ミオは一つの曲を弾かなかった。
北へは三拍。
南へは、長く一つ、短く二つ。
下層へは、間を空けた四拍。
異なるリズムが同時に走る。混ざれば崩れる。ミオは互いの隙間へ音を置いた。
ルナは命令ではなく、各塔の名を呼ぶ。
「北塔、あなたたちの三拍。南塔、二度に分けて。第三門、光を待って」
人々の目的を一つにしない。
自分の仕事を思い出させる。
ネリスが水位を読み、アルトが雨律の偽音を聞き分ける。姉の地図と弟の耳は、どちらか一つでは足りなかった。
◇
閉鎖弁には、シンが一人で向かっていた。
誰にも頼まれていない。
信頼を失った自分が戻れば、ルナを怖がらせる。だから地下から人工雨律の主管だけを切る。
弁の前には聖律院の兵が二人いた。
シンは一人目の肩を読み、刃を避ける。二人目の槍が脇腹を掠めた。
少し強いだけだ。
痛みは消えない。二人を圧倒もできない。
それでも、数秒を稼ぐことはできる。
シンは弁へ身体をぶつけた。
主管が閉じる。
王都から、人工の三拍が消えた。
◇
最後の水門が止まった時、雨はまだ降っていた。
上層も下層も、無傷ではない。浸水した家があり、壊れた橋がある。けれど街は沈まなかった。
オルディスは逃げなかった。
壊れた操作室で、異なる水門が異なる速さで閉じていくのを見ていた。
「美しい不揃いだ」
彼はそう言い、護送兵へ指揮棒を渡した。
ただし聖律院そのものは残っている。彼一人を捕らえて終わる組織ではない。
◇
父王は、ネリスの調査と指揮を彼女自身の功績として公表した。
下層街の代表を、水門評議会へ加えることも決まった。
「父上を許したわけではありません」
式典後、ネリスは言った。
「許されるためにやったのではない」
王は答えた。
十分な謝罪ではない。始まりにはなるかもしれない。
◇
世界樹へ続く海底巡礼路は、沖合の深海溝へ延びていた。
そこへ向かえる船は、古い長距離船〈雨燕号〉だけだという。
出航の日、甲板にシンがいた。脇腹へ包帯を巻き、二人から離れた船尾に立っている。
ルナは彼を許していない。
ミオも信用していない。
それでも、同じ情報を持ち、同じ船へ乗ることまでは拒まなかった。
「同行契約、戻す?」
ミオが訊く。
「まだ」
ルナは答えた。
「でも、追い出さなくていい」
三人は仲間ではなかった。
敵でもなかった。
違う答えを抱えたまま、同じ甲板にいる。
雨燕号の帆が開く。
雨琴線の都が、三つの異なる音で船を送った。
海の先には、帰らない船の航路が待っていた。




