第9話 宅配ボックス
フリーランスのイラストレーターとして働く小春(25)の生活圏は、驚くほど狭かった。
仕事はすべてパソコンとペンタブレットだけで完結し、打ち合わせもリモート通話で済む。
食事はフードデリバリーか、ネットスーパーの定期便。
日用品から趣味の画集、洋服に至るまで、生活に必要なありとあらゆるものを通信販売で賄っていた。
一週間のうち、一歩も外に出ないことなどザラにある。
小春にとって、ネット通販は単なる買い物ではなく、社会との唯一の「物理的な繋がり」だった。
マンションのオートロックのインターホンが鳴り、モニター越しに配達員に「宅配ボックスに入れておいてください」と告げる。
数時間後、誰とも顔を合わせることなく、自分のペースで一階のロビーへ降り、暗証番号を入力して冷たい金属の扉を開ける。
そこに自分宛ての荷物が入っているのを見る瞬間だけが、小春が「自分は世界から忘れられていない」と実感できるささやかな喜びだった。
段ボールに貼られた伝票に自分の名前が印字されているのを見ると、誰かが自分のために動いてくれたのだという奇妙な安心感があった。
だからこそ、小春は通販をやめられなかった。
毎日のように何かしらの荷物が届く生活が、彼女の精神安定剤になっていた。
最初の「それ」が届いたのは、よく晴れた火曜日の午後だった。
スマホの画面に、マンションの管理システムからの自動通知がポップアップした。
『宅配ボックス(中サイズ・4番)に荷物が投函されました』
小春は首を傾げた。
今日届く予定の荷物はなかったはずだ。
ネットスーパーの配達日は明日だし、予約していた画集の発売日もまだ先だ。
(……なんだろう、実家からの仕送りかな)
少しの期待と疑問を抱きながら、小春はスウェットの上にパーカーを羽織り、エレベーターで一階のロビーへ降りた。
静まり返ったロビー。
大理石調の冷たい床を歩き、壁一面に埋め込まれた宅配ボックスの操作パネルに向かう。
部屋番号と暗証番号を打ち込むと、ガチャン、という重い金属音が響き、4番のボックスの扉が少しだけ開いた。
中に入っていたのは、無地の茶色い段ボール箱だった。
サイズはいわゆる六十サイズ。
両手で軽々と持てる大きさだ。
小春は箱を取り出し、少し首を傾げた。
……軽い。
空箱ではないかと思うほど、中身の重量を感じない。
振ってみても、中で物が動く音は一切しなかった。
部屋に戻り、ダイニングテーブルの上に箱を置く。
カッターナイフを取り出し、天面を塞いでいる透明なガムテープに刃を入れようとして、ふと伝票に目をやった。
宛名は、間違いなく小春の部屋番号とフルネームだ。
しかし、差出人の欄には、何も書かれていなかった。
正確には、水で濡らしてわざと擦ったように、文字が黒く滲んで読み取れなくなっている。
住所も、名前も、電話番号も、すべてが墨を流したように潰れていた。
「……気持ち悪っ」
小春は眉をひそめた。
海外の安い通販サイトなどを使うと、稀に伝票が破損していることはあるが、ここまで意図的に差出人だけを消しているようなものは初めてだった。
用心深くカッターの刃を滑らせ、箱を開ける。
段ボールのフラップを左右に開いた小春は、拍子抜けしてため息をついた。
空っぽ。
商品はおろか、緩衝材の紙すらない。
納品書も入っていない。
ただの、四角く囲まれた「空気」が入っているだけだった。
「なんなの、これ。誰かのイタズラ?」
小春は気味が悪くなり、すぐに箱を解体してベランダのゴミ箱に押し込んだ。
通販を多用していれば、発送業者のミスで空箱が届くこともあるのかも。
そう自分を納得させ、すぐにそのことは忘れることにした。
だが、事態はそれで終わらなかった。
ぴったり一週間後。次の火曜日の午後。
再び、スマホに宅配ボックス着荷の通知が届いた。
『宅配ボックス(大サイズ・2番)に荷物が投函されました』
嫌な予感がした。
今日届く予定の荷物はない。
小春は震える足でロビーへ向かい、2番の扉を開けた。
入っていたのは、先週と同じ、無地の茶色い段ボールだった。
だが、サイズが大きくなっている。
百サイズと呼ばれる、冬物のコートなどが数着入るような大きさだ。
持ち上げてみると、やはり異様に軽い。
中には何も入っていないことが感触でわかった。
伝票の差出人欄は、先週と同じように黒く塗りつぶされていた。
部屋に持ち帰り、ガムテープをカッターで切り裂く。
やはり、中は空っぽだった。
ただ、箱を開けた瞬間、ツンとした古い紙の匂いと、生乾きの雑巾のような嫌な臭いがフワリと立ち上った。
小春の背筋に、ゾワリと冷たいものが走った。
誰かが、意図的に空箱を送ってきているのか。
自分の名前も、住所も、すべて知っている誰かが、毎週火曜日に、わざわざ中身のない箱を宅配ボックスに入れていくのか。
目的がわからない。
わからないことが、底知れぬ恐怖を呼び起こした。
(ストーカー……? 私が在宅しているか確認してる?)
小春は急いで玄関の鍵とチェーンを確認し、部屋のカーテンを固く閉め切った。
インターホンのカメラ履歴を確認したが、荷物が投函された時間の録画には、深く帽子を被った作業着姿の男の背中しか映っておらず、顔は全く見えなかった。
警察に相談しようにも、「空箱が送られてきた」というだけでは実害がなく、取り合ってもらえそうにないだろう。
小春は通販サイトの利用を極力控え、宅配ボックスの通知が来ても無視することに決めた。
三週目。火曜日。
無視しようと決めていたのに、スマホの通知音が鳴った瞬間、小春の心臓は激しく跳ね上がった。
『宅配ボックス(特大サイズ・1番)に荷物が投函されました』
特大サイズ。ゴルフバッグや、折りたたみ自転車が入るほどの一番大きなロッカーだ。
小春は耳を塞ぎ、ベッドに潜り込んだ。
見に行かなければいい。
放置しておけば、管理人がいつか処分してくれるはず。
だが、人間の恐怖というものは、見えないものに対して最も膨張する。
あの箱の中に、今度は何が入っているのか。
また空箱なのか。
それとも、『何か』が入れられているのか。
想像が膨らみ、胃液が込み上げてくるほどの吐き気を催した。
夜中の三時。
小春はついに恐怖と好奇心の板挟みに耐えきれず、パーカーのフードを深く被り、マンションのロビーへと降りた。
深夜のロビーは、死んだように静まり返っている。
操作パネルの前に立ち、震える指で暗証番号を打ち込む。
ガチャン、という重厚な音が、深夜の空間に異様に大きく響き渡った。
足元の一番大きなロッカー、1番の扉が、ゆっくりと開いた。
小春は息を呑んだ。
ロッカーの空間をぎっしりと埋め尽くすほどの、巨大な段ボール箱がそこに押し込まれていた。
大人が一人、膝を抱えて丸まれば、すっぽりと入ってしまうほどの巨大な箱。
小春は後ずさりしそうになったが、意を決して箱の側面に手をかけた。
……軽い。
異常なほど、軽い。
やはり中身は空なのだ。
小春は少しだけ安堵し、その巨大な箱を引きずりながら、なんとか自分の部屋まで運び込んだ。
玄関の土間に箱を置き、ドアの鍵を二重にかける。
ハァ、ハァと荒い息を吐きながら、小春はハサミを持ち出した。
箱の天面は、何重にもガムテープがぐるぐると巻かれ、厳重に封印されていた。
まるで、中のものが外に出られないように封じ込めているかのように。
小春は刃先を突き立て、分厚いガムテープを強引に引き裂いた。
ビリビリ、という嫌な音が部屋に響く。
すべてのテープを切り裂き、段ボールのフラップを左右に大きく開いた。
「……っ」
箱を開けた瞬間、強烈な悪臭が小春の顔面を直撃した。
鉄の錆びたような血の匂い。
汗と皮脂が混ざったような生臭さ。
そして、湿った土の匂い。
思わず鼻をつまみ、小春は箱の中を覗き込んだ。
中には、商品は何も入っていなかった。
だが、それは単なる『空箱』ではなかった。
分厚い段ボールの内側の壁という壁が、ボロボロにささくれ立ち、無数の線が刻み込まれていたのだ。
一本一本の線は細く、鋭い。
それは、人間の「爪」で、内側から狂ったように引っ掻いた痕だった。
何百、何千という爪痕が、段ボールの内側にびっしりと重なり合っている。
角の部分は、血が滲んだように赤黒く変色し、剥がれた爪の欠片のようなものが紙の繊維に突き刺さっていた。
小春は、悲鳴すら上げられず、腰から崩れ落ちた。
わかった……。
この箱には、確かに『何か』が入っていた……。
暗い箱の中で、外に出ようと必死に内側から爪で引っ掻き続けていた、生きた何かが。
だが、今、箱の中は空っぽ。
では、その『何か』は、どこへ行ったのか。
箱を開けたのは、わたし。
玄関の土間に座り込んだ小春の背後で、カサリ、と音がした。
部屋の奥。
固く閉ざされた、寝室のクローゼットの扉。
そこから。
『ガリッ……ガリガリガリッ……!』
木製の扉を、内側から人間の爪で狂ったように引っ掻く音が、静まり返った部屋に響き渡った。




