第8話 背景ぼかし
中堅のデザイン事務所に勤務する香織(29)の毎日は、終わりの見えない締め切りと、深夜にまで及ぶリモート会議に完全に支配されていた。
特に今週は、会社の命運を懸けた大型クライアントのコンペを週末に控えており、チーム全体が殺気立っていた。
フルリモートワークという便利な制度は、裏を返せば「二十四時間いつでも働ける」という呪いの言葉と同義だった。
深夜一時。
香織は自室の散らかったデスクに向かい、充血した目でノートパソコンの液晶画面を睨みつけていた。
画面には、四分割されたWeb会議アプリのウィンドウが開かれている。
左上には不機嫌そうに腕を組む上司の佐々木、右上と左下には目の下に濃いクマを作った同僚二人、そして右下には、疲労で生気を失った自分の顔が並んでいる。
香織の部屋の背景は、プライバシー保護のための「背景ぼかし」機能によって、すりガラスのように白く濁っている。
カメラに映る範囲には、脱ぎ捨てた服や読みかけの雑誌が散乱したベッドがあり、それを隠すための必須機能だ。
『ここ、もっとシズル感が欲しいんだよね。なんかこう、パッとしないっていうか』
画面越しの上司の声は、深夜特有の苛立ちと疲労でひどく棘々しかった。
「はい、すぐ直します。彩度を上げて、フォントのウエイトも少し太くしてみます」
香織は反射的に愛想笑いを浮かべながら即答した。
できない、と断れる空気ではない。
マウスを慌ただしく操作し、デザインソフトと会議アプリの画面を何度も切り替えながら修正作業を進める。
ふと、香織は会議アプリのプレビュー画面――自分の顔が映っている右下の小さなウィンドウの端に、微かな違和感を覚えた。
ぼやけた背景の一部が、不自然に歪んでいるのだ。
デジタル処理のエラーや、通信ラグが生んだノイズのように、その部分だけモザイクが濃くなっているような感じだった。
場所は、背後のクローゼットの扉のあたりだ。
(……なんだろう、カメラのレンズが汚れてるのかな)
香織は作業の手を止めず、視線だけを画面の右下に向けた。
歪みは、ゆっくりと動いていた。
クローゼットの前から、部屋の中央へ。
つまり、香織の背後へと、にじり寄るようにスライドしている。
黒い、人の形をしたシミのようなもの。
背景ぼかしのアルゴリズムが、人間以外の「何か」の輪郭を誤認識し、必死にぼかそうと格闘しているようだった。
背筋に、ピリッとした微弱な電流のような悪寒が走った。
香織はワンルームのマンションで一人暮らし。
背後には誰もいないはず。
恐る恐る、画面から目を離し、背後を振り返る。
……誰もいない。
クローゼットの扉は固く閉まっており、散らかった部屋には、加湿器の微かなモーター音と静寂だけが広がっている。
気のせい。
カメラのセンサーが、部屋の暗さでノイズを拾っただけ。
最近のアプリは高機能すぎるから、コートか何かの影を人と誤認識したのだろう。
香織は前を向き直し、小さく息を吐いた。
だが。
再び画面を見た瞬間、香織の全身が硬直した。
画面の中の「シミ」は、先ほどよりも確実に大きくなっていた。
ぼやけた輪郭が、少しずつ人間の形に近づいていく。
長い黒髪、肩のライン、うつむいた顔のシルエット。
それが、一歩、また一歩と、香織の背中――ワークチェアの後ろに近づいている。
『ちょっと香織ちゃん、手止まってるよ。聞いてる?』
上司の苛立った声がイヤホンから響いた。
「あ、すみません! いま修正データの保存中で……」
香織は慌てて、震える手でマウスを動かした。
画面の上の同僚たちは、香織の画面の異変に全く気づいていない。
彼らのモニターに映っている香織の画面は小さく、通信の圧縮もかかっているため、ただの「ぼやけた背景」にしか見えていない。
自分にしか見えない怪異。
恐怖で、キーボードを叩く指がカタカタと震える。
今すぐ会議から抜け出して、パソコンを叩き壊し、部屋から逃げ出したい。
だが、こんな深夜の、明日に重要なコンペを控えた絶望的な状況で「後ろに幽霊が出たので会議を抜けます」などと言えるはずがない。
上司の怒声と、同僚からの冷ややかな視線。
責任感の強い香織にとって、この状況で仕事を投げ出すことは、幽霊よりも恐ろしい「社会的な死」を意味していた。
逃げられない。
香織は、引きつった笑顔を無理やり作りながら、画面の端をもう一度見た。
「……っ!」
シミは、もう香織の真後ろに立っていた。
ぼかしの向こう側から、香織の頭を覗き込むように、黒い塊が迫り出している。
現実の部屋を振り返っても、そこには何もない。
ただ、首筋に、氷のように冷たい、不自然な空気が触れているのを感じた。
香織の顔面から、一気に血の気が引いた。
背中にべったりと脂汗がにじみ、喉がカラカラに乾く。
画面の中の「それ」が、ゆっくりと右腕を上げた。
ぼやけたノイズの塊が、香織の右肩に向かって真っ直ぐに伸びてくる。
『あ、そこいいね。香織ちゃん、そのトーンで全体を統一してみようか』
上司が、突然明るい声を上げた。
香織は画面を見つめたまま、凍りついたように声が出せなかった。
画面の中で、「それ」の手が、香織の肩に触れた瞬間。
現実の香織の右肩に、氷の塊のように冷たく、骨張った長い指の感触が食い込んだ。
「ヒッ……!」
香織の喉から、声にならない短い悲鳴が漏れた。
『香織ちゃん? どうしたの?』
同僚が不思議そうに声をかける。
右肩を、あり得ないほどの強い力で握り潰されている。
冷たさが服を突き抜け、骨まで凍りそうだった。
だが、香織は肩を掴まれたまま、引きつった完璧な笑顔をカメラに向けた。
「……なんでも、ないです。マウスを落としちゃって。作業、続けますね」
右肩の感覚が、完全に麻痺していく。
画面の中のぼやけた黒い塊が、香織の耳元に顔を近づけてくるのが見えた。
『……そのトーン、いいね』
イヤホン越しではなく。
直接耳元で、カビ臭い息とともに、女の湿った声が囁いた。
香織は、泣き笑いのような、完全に狂った表情のまま、ただひたすらにマウスを動かし続けた。




