第7話 駐車場
中堅メーカーで法人営業を担当する達也(27)にとって、愛車の黒いセダンの中は、世界で唯一残された完全なプライベート空間だった。
日中は上司からの理不尽な叱責とノルマのプレッシャーにさらされ、得意先では常に作り笑いを浮かべて頭を下げ続ける。
スマホは休日でも鳴り響き、心休まる時間など一秒もない。
だが、この鉄とガラスで覆われた箱の中だけは別だ。
本革シートのわずかに甘い匂い、無音に近いエンジンのアイドリング振動、好みの温度に設定されたエアコンの風。
ドアを閉めてロックをかければ、そこは外界のあらゆるストレスから完全に切り離された「城」になる。
だからこそ、達也は片道一時間以上かかる渋滞混じりの車通勤を、苦に思ったことは一度もなかった。
むしろ、その隔離された時間が永遠に続けばいいとすら思っていた。
達也が住むアパートの駐車場は、建物から少し離れた未舗装の空き地にある。
街灯も少なく、夜になると不気味なほど静かで真っ暗になる場所だったが、車さえ無事ならどうでもよかった。
異変に気づいたのは、月曜日の朝だった。
出勤のために車に近づいた達也は、フロントガラスの助手席側に「汚れ」がついていることに気づいた。
「……なんだこれ」
朝の冷たい空気の中、達也は目を細めた。
それは、べったりとガラスに押し付けられたような、不気味な形をしていた。
手形。
五本の指を大きく広げ、泥か機械油のようなものでスタンプしたかのように、くっきりと跡が残っている。
サイズは大人にしては少し小さく、女性か子供のものに思えた。
「ふざけんなよ……」
近所の子供のイタズラだろうか。
それとも、夜中に酔っ払いが寄りかかったのか。
達也は舌打ちをして、トランクからウェットタイプの車用拭き取りシートを取り出した。
手形をごしごしと力強く拭き取る。
油分を含んでいるのか、一度拭いただけでは黒く引き伸ばされるだけで、綺麗に落とすのに五分ほどかかった。
朝から嫌な気分だったが、ただのイタズラだと思いながら車を出した。
火曜日の朝。
全く同じ位置に、全く同じ手形がついていた。
五本の指の開き具合から、手のひらの腹の掠れ方まで、昨日のものと寸分違わない。
達也は怒りよりも、薄気味悪さを感じた。
毎日同じ場所に、同じようにつけるのは悪質すぎる。
警察に相談するほどの実害ではないが、自分の「城」を汚されることへの不快感は強かった。
水曜日。
やはり手形はあった。
達也はついに我慢の限界を迎え、使わなくなった古いスマホに防犯カメラアプリを入れ、ダッシュボードに仕掛けることにした。
モバイルバッテリーを繋ぎ、一晩中フロントガラスの外側を録画し続ける設定だ。
犯人が映っていれば、証拠として突き出してやる。
翌朝、木曜日。
達也は足早に駐車場へ向かった。
手形は、またしても助手席側についていた。
達也は車に乗り込むと、すぐにダッシュボードのスマホを手に取り、録画した映像を確認した。
深夜の駐車場。
街灯の薄暗い光が、黒いボンネットを鈍く照らしている。
映像を早送りしていく。午前二時、午前三時。
誰も近づいてこない。
野良猫一匹通らない。
だが、タイムスタンプが「03:17」を示した時だった。
映像の中に、フワリと白いモヤのようなものが映り込んだかと思うと。
次の瞬間、何もないガラスの表面に、「ベチャッ」という音を立てて、突然手形が浮かび上がった。
外側には、誰もいないのに。
「……は?」
達也はスマホを持つ手を止めた。
背中に、ゾワリと冷たいものが走る。
映像のバグ?
それとも、手形の形をしたシールか何かが落ちてきたのか?
いや、目の前のガラスには、確かに今日も生々しい手形がついている。
達也は映像を何度も見直した。
誰も触っていないガラスに、内側から押し出されるように手形が浮かび上がる瞬間。
……内側から?
まさか。
達也は急いで車から降り、外側から手形を拭き取った。
手形は綺麗に落ちた。
「なんだ……外側じゃんか。ビビらせやがって」
達也は安堵の息を吐き、映像のノイズか何かだろうと自分を納得させた。
金曜日。
その日は、夕方から激しい雨が降っていた。
月末の金曜日という最悪のタイミングで顧客トラブルの対応に追われ、夜十時過ぎにようやく会社を出た達也は、最悪の気分でワイパーを動かしながら帰路についた。
激しい雨音が、車の屋根とガラスを容赦なく叩きつける。
外の景色は水滴でひどく滲み、対向車のヘッドライトが不気味にぼやけて光っている。
車内は暖房を強めに入れているため、外界との温度差でガラスが曇りやすくなっていた。
赤信号で停車した時だった。
助手席側のフロントガラスに、ふっと白い息が吹きかけられたように結露が生じた。
その結露の中に、あの手形が浮かび上がっている。
雨で外の景色が見えづらいため、今まで気づかなかったのだ。
「……またかよ、クソが」
達也は苛立ちに任せて、ダッシュボードに入れてあるマイクロファイバーのタオルを手に取った。
体を助手席側に乗り出し、結露と一緒に手形を拭き取ろうとした。
だが。
タオルが空を切る。
手形は、消えない。
達也の動きが止まった。
タオルをガラスに押し当てる。
ツルツルとしたガラスの表面。
そこには、何の汚れもなかった。
……違う。
達也は、ゆっくりと息を呑んだ。
雨の夜。
結露。
ガラスの内側。
朝、外側から拭き取れていたと思っていたのは、表面に付着した夜露やホコリと一緒に、外側の汚れを落としていただけで、手形そのものは落ちていなかったのだ。
手形は、初めから。
『車の内側』から、つけられていた。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
密室のはずの車内。
外界から完全に隔離された、俺だけの城。
だが、この手形をつけた『何か』は、ずっとこの車の中にいた?
達也の首筋に、じっとりと冷や汗がにじみ出た。
暖房の風が、急に生臭く感じられる。
まるで、生乾きの雑巾のような、カビ臭いような強烈な悪臭が、車内に充満し始めている。
助手席には誰もいない。
だが。
後部座席だ。
達也は、ルームミラーを直視できなかった。
後部座席の暗がりから、ヒューッ、という、水を含んだような微かな呼吸音が聞こえる。
信号が青に変わった。
後続車がイラついたようにクラクションを鳴らす。
達也はパニックになりながら、震える足でアクセルを踏み込んだ。
雨の夜道。
ワイパーの単調なリズムが、今は拷問のように感じられる。
車を止めたい。
逃げ出したい。
だが、後続車が連なっているこの雨のバイパスで、急ブレーキを踏むわけにはいかない。
視線を前に固定したまま、達也は震える声で呟いた。
「……誰だ」
後部座席からの呼吸音が、ピタリと止んだ。
そして。
達也の左肩、運転席と助手席のシートの隙間から。
冷たく濡れた手が、ぬるりと伸びてきた。
『みつけた』
耳元で囁かれたその声は、泥の底から響くように低かった。
達也の絶叫とともに、黒いセダンは水飛沫を上げて、対向車線へと飛び出していった。




