第6話 駅の白線
大学生の由紀(20)にとって、毎朝の通学電車は、自らの感情を殺し、ただの「物体」になるためのひどく退屈なルーティンだった。
自宅から大学まで、二回の乗り換えを含めて約一時間。
ラッシュ時の満員電車の中は、他人の吐く生温かい息と、安物の整髪料、昨夜の酒の匂いが混ざり合った、酷く澱んだ空気が充満している。
由紀はいつもノイズキャンセリングのイヤホンを耳の奥まで押し込み、音楽のボリュームを最大にして、スマホの画面に視線を固定していた。
周囲の人間は「障害物」か「背景」であり、誰一人として興味を持つ対象ではなかったし、相手もまた由紀を単なる背景の一部としか見ていない。
都会の通勤・通学というシステムは、その圧倒的な無関心によって辛うじて回っている。
由紀が利用する私鉄の駅は、朝の八時台になるとホームが人で溢れ返る。
誰もがスマホを見つめ、能面のような無表情のまま、来るはずの電車を等間隔に並んで待っている。
その規則正しい、死んだような群れの中で。
強烈な違和感――あるいは「異物感」を放つ人物がいた。
ホームの最前列。
由紀が並んでいる列の、三つほど隣の乗車位置。
黄色い点字ブロックを越え、ホームの端を示す「白い線」の上に、その老人は立っていた。
擦り切れたグレーのロングコートを着て、うなじの骨が不自然に浮き出るほど、深く首を垂れている。
異常なのは、その立ち位置だった。
老人の履いている薄汚れた革靴のつま先は、完全に白線の外側――ホームの縁を越え、線路の暗がりに向かって半分ほど宙に浮いていた。
いつバランスを崩してもおかしくない。
背後から誰かのカバンが少しでも触れれば、そのまま線路に真っ逆さまに転落するだろう。
駅員が見つければ確実にスピーカーで怒鳴られるはずの危険な立ち位置だ。
しかし、ラッシュ時の絶え間ない人の波と混乱の中で、駅員の目はそこまで届いていなかった。
老人のすぐ周囲に並んでいるサラリーマンや学生たちも、その異常な状態に気づいているはずだ。
だが、誰も声をかけようとしない。
「危ないですよ」
「下がってください」
その一言をかけるだけの労力を、誰もが惜しんでいる。
関わり合いになってトラブルに巻き込まれたくないという、都会特有の冷え切った無関心が、老人の周囲にだけ見えない円陣を作っていた。
由紀もまた、その無関心な群衆の一人だった。
(……危ないな)
心の中ではそう思うものの、イヤホンを外して自分から注意する勇気はなかった。
老人は微動だにしない。
ただじっと、線路の底に溜まったどす黒い油汚れや、散乱するタバコの吸い殻を凝視しているようだった。
電車がホームに滑り込んでくるたびに、凄まじい風圧が老人のコートの裾をバサバサと激しく煽る。
それでも彼は一歩も下がらず、重心を前傾させたまま、まるで石の彫刻のように立ち尽くしていた。
その異様な光景が、月曜から水曜まで、三日間続いた。
四日目の朝。
木曜日。
由紀がいつもの時間に改札を抜け、エスカレーターを下りてホームに降り立つと、あの定位置に老人の姿はなかった。
(……あ、今日はいないんだ)
由紀は無意識に、ほっと息を吐き出していた。
あの、今にも線路の底に吸い込まれそうな危うい背中を見なくて済む。
毎日、電車が入ってくるたびに「落ちるんじゃ」と妙な緊張を強いられることに、由紀は思いのほかストレスを感じていたらしい。
音楽のボリュームを上げ、スマホのSNSを開こうとした。
だが、視界の端が、あの「白線」の上の異物を捉えた。
老人がいた全く同じ場所。
点字ブロックを越えたホームの縁ギリギリに、誰かが立っていた。
老人ではない。
若い女性だった。
肩下まで伸びた茶色い髪。
ベージュのトレンチコート。
肩から下げた黒いキャンバストートバッグ。
その女性は、昨日までのあの老人と全く同じように、うなじが見えるほど深く首を垂れ、線路の底をじっと見つめている。
つま先が半分、虚空に投げ出されているのも同じだ。
由紀の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
その女性の後ろ姿は。
着ているトレンチコートの色も、肩から下げたトートバッグの柄も、靴も、髪型も。
由紀が今着ている服、持っているバッグと『完全に一致』していた。
まるで、自分の分身が、そこへ立って後ろ姿を見せているようだ。
ぞくり、と背筋に冷たい虫が何十匹も這い上がるような悪寒が走った。
胃の奥がせり上がり、吐き気がこみ上げる。
気のせいだ。
量販店で買ったコートに、ありふれたトートバッグ。
同じような格好をした女子大生なんて、この都会には星の数ほどいるだろう。
だが、その異様な立ち姿。老人からそのまま感染したような、線路に吸い寄せられる不気味な姿勢だけは、ただの偶然で片付けるには異常すぎた。
「……あの」
由紀は、気づけばイヤホンを外し、無意識のうちに数歩だけ前へ進み出ていた。
声をかけようと口を開いた、その瞬間だった。
『間もなく、一番線を、特急電車が通過いたします。危険ですので、黄色い点字ブロックの内側までお下がりください』
無機質な自動アナウンスがホームに響き渡った。
接近を知らせる警告音が、けたたましく鳴り響く。
トンネルの奥から、強烈なLEDライトの光がホームを舐めるように迫ってきた。
通過電車だ。
女性は、一歩も下がらない。
それどころか、吸い寄せられるように、さらに体を前へ傾けたように見えた。
靴の踵が、フワリと浮き上がる。
「危ないっ!」
由紀が叫んで手を伸ばした瞬間。
凄まじい轟音とともに、特急電車が目の前を通過した。
暴力的な風圧が由紀の髪を乱し、ホームにいる人々の服を激しく揺さぶる。
鉄と鉄が軋む金切り声、空気を切り裂く風の音。
視界が、猛スピードで流れる車両の残像で完全に塞がれた。
(落ちた……!)
由紀は両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
絶対に、跳ね飛ばされるか、車輪に巻き込まれたはずだ。
あんな立ち位置で助かるわけがない。
数秒後。
突風が収まり、特急電車の最後尾がトンネルへと消えていった。
ホームには、一瞬の、不気味な静寂が訪れた。
由紀は恐る恐る顔を上げた。
周囲のサラリーマンたちは、何事もなかったかのようにスマホに目を落としている。
誰も、悲鳴を上げていない。
緊急停止を知らせるブザーも鳴っていない。
白線の上には、誰もいなかった。
靴も、血痕も、肉片も、何もない。
女性は最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていた。
由紀は全身の震えが止まらず、その日、大学を休んで逃げるように家に帰った。
翌日。
金曜日の朝。
大学の必修科目のテストがあるため、由紀はどうしても家を出なければならなかった。
昨日の出来事は、寝不足とストレスが引き起こした白昼夢だったのだと、由紀は無理やり自分に言い聞かせていた。
自分の分身を見たなんて、頭がおかしくなったとしか思えない。
いつものように改札を抜け、エスカレーターを下りてホームに出る。
朝のラッシュ。
スマホを見つめる、無表情な人々の群れ。
由紀は、極力あの「白線」の定位置を見ないようにして、エスカレーター横の壁に背中を預けようとした。
だが。
足が、言うことを聞かなかった。
まるで、自分の意志とは無関係に、靴底にプログラムされた見えないレールの上を滑っているかのように。由紀の体は、勝手にあの場所へと歩き出していた。
「……え?」
止まらない。
人混みをすり抜け、無表情な人々の間を縫うように進む。
黄色い点字ブロックを、踏み越える。
目の前に、太い白線が迫る。
その先は、深い闇が口を開ける線路の溝。
やめて。
由紀の意識ははっきりと警告を発しているのに、足はピタリと白線の上で止まった。
つま先が、半分だけ虚空に押し出される。
首が、見えない大きな手で上から押さえつけられたように、カクンと折れ曲がった。
視線が、線路の底に溜まったどす黒い油汚れに固定される。
(……あ……)
顔を上げることができない。
一歩も後ろに下がれない。
靴底がホームのコンクリートに接着されたように動かない。
周囲の喧騒が、遠くの水底で鳴っているようにくぐもって聞こえる。
ただ、線路の奥底から吹き上がってくる、鉄の錆びたような、湿った冷たい風だけが、由紀の頬を不気味に撫でていた。
背後で、通勤客たちの誰もが、由紀の異常な立ち姿を無視してスマホを見つめている。
あの時の自分と同じように。
無関心が、由紀を孤立させている。
『間もなく、一番線に、通過電車がまいります』
無機質なアナウンスが響く。
由紀の体は、限界まで前傾姿勢になっている。
あと数ミリ重心が前に傾けば、そのまま線路へ落ちる。
トンネルの奥から、光が迫ってくる。
由紀の耳元で、風の音に混じって、かすかな囁き声が聞こえた。
『次は、あなたの番』




