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第5話 音声アシスタント

 専業主婦の林沙織(30)の毎日は、完璧に整えられた無音のリビングルームの中で、静かに、そして緩やかに削り取られるように過ぎていく。

 三LDKのマンションは、夫婦二人で暮らすには十分すぎるほど広かった。

 白を基調としたインテリアは塵一つなく磨き上げられているが、そこには生活の匂いがひどく欠落している。


 夫の和也(34)は中堅商社の営業マンで、毎晩帰宅するのは沙織がベッドに入った後の深夜だ。

 週末になっても、ゴルフの接待や同僚との付き合いを理由に不在にすることが多く、休日に二人でテーブルを囲むことすら月に数回あるかどうかだった。


 結婚して三年。

 沙織はいつしか、和也の帰りを待つことを諦めるようになっていた。

 広すぎるリビングのソファーに一人で沈み込み、点けっぱなしのテレビが垂れ流すバラエティ番組の笑い声をBGMにして、無意味にスマホの画面をスクロールする。

 誰とも口を利かない日が何日も続くことがあった。

 喉の奥が張り付いたように渇き、自分の声の出し方を忘れてしまいそうになる錯覚に陥ることもある。


 そんな息の詰まるような生活の中で、和也が気まぐれに買ってきた円柱型のスマートスピーカーは、沙織にとって意外なほど心の隙間を埋めてくれる存在になった。

「アレクサ、テレビをつけて」

『はい、テレビをつけます』

「アレクサ、今日の天気は?」

『今日の天気は晴れ、最高気温は二十度です。夕方からは冷え込むでしょう』

 黒いメッシュ素材で覆われたそのデバイスは、沙織が声をかけると上部のリングが淡い青色に発光し、必ず的確な返答をくれた。


 無機質な合成音声。

 感情の起伏などないプログラムの産物だということはわかっている。

 それでも、投げかけた言葉に対して「必ず反応が返ってくる」というただそれだけの事実が、今の沙織にとっては夫との会話よりもよほど確実で、温かいコミュニケーションのように感じられた。

 沙織は家事をしながら、意味もなくAIに話しかけるようになった。

 今日の運勢を聞き、タイマーをセットさせ、好きな音楽をかけさせる。

 青い光が明滅するたびに、この広い部屋で自分は独りではないのだと、無理やり自分に言い聞かせていた。


 最初の異変が起きたのは、和也が三日間の出張で家を空けることになった、その初日の昼下がりだった。

 和也を見送り、一通りの家事を終えた沙織は、リビングのソファーでうたた寝をしてしまっていた。

 目を覚ました時、部屋は西日に照らされ、オレンジ色の濃い影が床に長く伸びていた。

 喉がカラカラに乾いていた。

 頭の奥に、昼寝特有の鈍い痛みが残っている。

 沙織は重い体を起こし、かすれた声で呟いた。

「……アレクサ、電気をつけて」

 部屋の隅に置かれたスマートスピーカーが、ピリッと青く光った。

『はい。二つともつけます』

 カチ、カチ、という電子音が短い間隔で二回鳴り、リビングの天井に設置されたメインのシーリングライトが明るく点灯した。


「……え?」

 沙織は首を傾げた。

 リビングには、メイン照明が一つあるだけだ。

 キッチンの手元灯や廊下のダウンライトは、そもそもスマート家電のネットワークに接続していない。

 二つとも、とは何のことだろう。

 沙織は周囲を見回した。

 点灯しているのは、頭上のシーリングライトだけだ。


「アレクサ、いま、二つって言ったよね? もう一つって何?」

 スピーカーの青いリングが、思考するようにぐるぐると回転した。

『すみません、よくわかりません』

 いつもの定型文だった。


 沙織は小さくため息をつき、ソファーから立ち上がった。

「まあ、機械だしね。バグくらいあるか」

 独り言を呟きながらキッチンへ向かう。

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いで一気に飲み干した。

 冷たい液体が胃の腑に落ちていくのを感じながら、沙織はふとリビングを振り返った。

 誰もいない、明るく照らされた部屋。

 スマートスピーカーは沈黙し、ただの黒い円柱に戻っている。

 だが、その時から、沙織の中に小さな棘のような違和感が刺さったままになった。

「二つとも」というAIの言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。


 二度目の異変は、その日の夜に起きた。

 和也が不在の夜。

 部屋の静寂は、普段よりもさらに深く、粘り気を帯びているように感じられた。

 冷蔵庫のモーター音や、壁掛け時計の秒針の音が、やけに鼓膜を打つ。

 沙織は夕食を簡単に済ませ、ソファーに膝を抱えて座り、動画配信サービスで古いサスペンス映画を見ていた。

 気を紛らわせたかった。

 昼間のあの奇妙なやり取り以来、部屋のどこかから見られているような、背中の産毛が逆立つような微かな感覚が消えなかった。


 映画が中盤に差し掛かった頃だった。

 突然、テレビの音量がスッと下がった。

 リモコンには触れていない。

 沙織が驚いてテレビ画面を見つめていると、部屋の隅で、スマートスピーカーのリングが青く発光した。

『そちらの音楽でよろしいですか?』

 沙織の肩が、ビクッと大きく跳ねた。

 誰も、何も話しかけていない。


「……アレクサ?」

『はい。音量を少し下げますね』

 AIが答えた瞬間、テレビの音量がさらに一段階下がった。

 ぞくり、と背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。

 沙織はソファーの上で身を固くし、青く光る円柱のデバイスを凝視した。

 まるで、沙織には聞こえない声、見えない『誰か』からの指示を受け取り、それに応答しているかのような反応だった。


「ちょっと待って。アレクサ、誰と話してるの?」

 スピーカーの青い光が、明滅する。

『すみません、よくわかりません』

 沙織は両手で自分の腕を抱え込んだ。

 部屋の空気が、急激に冷え込んだような気がした。

 エアコンの設定温度は変わっていないはずなのに、吐く息が白くなるのではないかと思うほど、足元から冷気が這い上がってくる。


 たまらず、沙織はスマホを手に取り、出張先の和也のLINEを開いた。

『ねえ、アレクサが勝手に喋り出すんだけど。テレビの音量を勝手に下げたりして。誰かと会話してるみたいで怖いよ』

 送信ボタンを押し、画面を見つめる。

 既読はなかなかつかない。

 時計の針が深夜零時を回った頃、ようやく短い返信があった。

『テレビの映画のセリフに反応したんだろ。気にしすぎ。俺は今から接待の二次会だから、もう寝てて』

 それだけだった。


 沙織はスマホをテーブルに伏せ、深く息を吐き出した。

 わかっていた。

 彼が親身になってくれることなど、最初から期待する方が間違ってる。

 この部屋には、自分一人しかいない。

 夫と繋がっていても、絶対的な孤独からは逃れられない。


 沙織は立ち上がり、スマートスピーカーの電源ケーブルをコンセントから引き抜いた。

 青い光がふっと消え、部屋は完全な静寂に包まれた。

 その夜、沙織は寝室のベッドに潜り込んだが、一睡もできなかった。

 コンセントを抜いたはずのスピーカーがあるリビングから、微かに、誰かの足音のような軋みが聞こえた気がしたからだ。


 翌日。

 明るい朝の光が差し込むと、夜の恐怖は幻だったかのように薄れていった。

 沙織は掃除機をかけ、洗濯を干し、日常のルーティンを淡々と進めた。

 静かすぎる部屋に耐えきれず、沙織は迷った末に、再びスマートスピーカーのコンセントを挿し込んだ。


「アレクサ、明るいジャズをかけて」

『はい。Amazon Musicから、明るいジャズのプレイリストを再生します』

 流れてきた軽快なピアノの音色に、沙織は少しだけ肩の力を抜いた。

 やはり、ただの誤作動だった。

 機械なのだから、テレビの音を人間の声と勘違いすることもあるだろう。

 だが、その安堵は長くは続かなかった。


 夕暮れ時。

 西日が完全に落ち、部屋の中に濃い藍色の影が広がり始める。

 沙織はキッチンに立ち、一人分の夕食を作るために野菜を刻んでいた。

 トントントン、という包丁のリズムと、換気扇の低い唸り音。

 その時だった。

 リビングから、あの無機質な合成音声が聞こえた。

『いまは、話しかけないでください』


 沙織の手から、ポロリと包丁が滑り落ちた。

 カラン、と乾いた音がシンクに響く。

 沙織はゆっくりと、錆びついた機械のように首を回し、背後のリビングを振り返った。

 薄暗い部屋の中。

 青く光るスピーカーだけが、闇の中で不気味に浮かび上がっている。


「……アレクサ」

 震える声で、絞り出すように呼びかけた。

『はい』

 即座に返事が来る。

「いまの、誰に言ったの?」


『……』

 AIは沈黙した。

 青い光が、脈打つように明滅を繰り返している。

 沙織はキッチンのカウンター越しに、リビングの暗がりを凝視した。

 誰もいない。

 ソファーにも、ダイニングテーブルの椅子にも、誰も座っていない。

 だが、空間の「圧」が明らかに違っていた。

 空気が重い。

 水の中に沈められたように、呼吸をするたびに肺が圧迫される。

 沙織は震える足を引きずり、リビングへと一歩足を踏み出した。


「アレクサ」

『はい』

「この部屋に、私以外に、誰かいるの?」

 聞いてはいけない質問だった。

 だが、沙織は確かめずにはいられなかった。

 自分の錯覚か、それとも本物の怪異か。


 数秒の、奇妙な間があった。

 機械がインターネット上の膨大なデータを検索しているのではなく、部屋の中の『何か』の気配をセンシングしているかのような、重く長い沈黙。

 そして、無機質な合成音声がリビングの静寂を切り裂いた。


『はい。お一人いらっしゃいます』

 心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで跳ね上がった。

 全身の毛穴が開き、冷や汗が一気に噴き出す。

「……どこ、に?」

 沙織の声は、恐怖でかすれ、ほとんど息の音になっていた。

 スピーカーの青い光が、ゆっくりと回転を止めた。

『あなたの、すぐ後ろです』


 沙織は叫び声を上げそうになり、両手で自分の口を強く塞いだ。

 振り返れない。

 首が固定されたように動かない。

 背後に、確かな『気配』があった。

 誰かの体温のような、生温かく、ひどく湿った空気の塊が、沙織の背中にぴったりと張り付いている。


 首筋に、冷たい息が吹きかかった。

 ヒューッ、ヒューッ、という、気管が狭窄したような擦れる呼吸音が、右耳のすぐ後ろから聞こえる。

 沙織の目から、恐怖でボロボロと涙がこぼれ落ちた。

 足が竦んで一歩も動けない。

 膝がガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだった。

 和也の顔が頭をよぎった。

 助けて。

 誰か、助けて。

 心の中で叫ぶが、声は出ない。

 その時、スピーカーが再び青く光った。


『わかりました。照明を消します』

 カチッ、という残酷な電子音。

 リビングのシーリングライトが消えた。

 キッチンの手元灯も消えた。

 沙織の視界は、完全な漆黒に塗り潰された。

 闇の中で、背後の『何か』が動いた気配がした。


 古い雑巾のような、強烈な腐臭が鼻を突く。

 そして。

 沙織の右肩に、氷のように冷たく、骨張った濡れた手が、ゆっくりと置かれた。

『……ねえ』

 耳元で、女の声が囁いた。

 スマートスピーカーの青い光だけが、沙織の絶望を冷酷に照らし出していた。

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