第4話 向かいの部屋
松本健太(34)は、自宅に引きこもるシステムエンジニアだ。
フルリモートワークの彼は、週に一度、食料の買い出しのために近所のスーパーへ行く以外、ほとんどマンションの部屋から出ない。
日中はカーテンを閉め切り、トリプルディスプレイの青白い光だけを頼りにコードを書き続ける。
他人との会話は、オンラインのチャットツールで済む。
誰とも関わらず、誰の目も気にしなくていいこの完全な「隔離空間」こそが、健太にとってのユートピアだった。
そんな彼の数少ない日課が、深夜にベランダへ出てタバコを吸いながら、向かいのマンションを眺めることだった。
健太の住むマンションのバルコニーからは、幅の狭い道路を挟んで、約三十メートル向こうにもう一つのマンションが建っている。
深夜二時を過ぎると、向かいのマンションの窓はほとんどが真っ暗になる。
だが、健太の部屋と全く同じ高さ――四階の右から三番目の部屋だけは、なぜか毎晩、深夜二時を過ぎると必ず電気が点く。
すりガラス越しに、オレンジ色の暖かな光がぼんやりと漏れている。
だが、健太は知っていた。
その部屋が「空室」であることを。
数ヶ月前、あそこから住人が引っ越していくのをベランダから偶然見ていたのだ。
その後、新たな住人が入居してきた気配はない。
昼間に見ても、ベランダには何も置かれておらず、カーテンすら引かれていない。
「……また点いてるな」
健太は手すりに寄りかかり、紫煙を吐き出しながらそのオレンジ色の四角い光を見つめた。
タイマー式の照明か何かだろうか。
防犯目的で、空室でも電気を点けている物件はあると聞いたことがある。
だが、単調な毎日に退屈していた健太の好奇心は、少しずつ刺激されていた。
部屋に戻り、趣味の野鳥撮影用に使っている一眼レフカメラを取り出した。
巨大な望遠レンズを取り付け、再びベランダに出る。
ファインダーを覗き、ピントリングを回して、あのオレンジ色の窓に焦点を合わせた。
三十メートル先のすりガラスが、レンズ越しにクリアに迫ってくる。
ガラスの向こう側はぼやけているが、部屋の中の輪郭がうっすらと見えた。
「……ん?」
健太はカメラを構えたまま、眉をひそめた。
空室のはずなのに、部屋の中に黒い塊がある。
どうやら、家具のようだ。
窓際にベッドのような長方形の影がある。
その奥には、背の高い本棚らしきシルエット。
「なんだ、新しい住人が入ってたのか。つまんねえの」
健太は少しがっかりしてカメラを下ろし、タバコの火を消して部屋に戻った。
その翌日の深夜。
再びベランダに出た健太は、望遠レンズで向かいの窓を覗き込み、息を呑んだ。
家具の配置が、変わっていた。
昨日まで窓際にあったベッドの影が消え、代わりにデスクと椅子のシルエットが置かれている。
本棚らしき影も、反対側の壁に移動している。
「模様替え……? 夜中に?」
いくらなんでも不自然だ。
住人の気配は全くないのに、家具だけが位置を変えている。
それからの一週間、健太の「観察」は毎晩のルーティンになった。
深夜二時に電気が点く。
カメラを構える。
家具の影は、毎晩少しずつ、パズルを組み替えるように配置を変えていった。
時にはテレビのような四角い影が現れ、時にはハンガーラックのような影が増える。
だが、すりガラスの向こうには、家具を動かしているはずの「人間」の姿は一度も現れなかった。
五日目の夜。
ファインダーを覗いていた健太は、背筋にぞくりと冷たいものが這い上がるのを感じた。
その日の家具の配置は、見覚えがあった。
窓際にデスク。
その横に、L字型のソファー。
部屋の奥には、高さの違う三段の本棚。
ゆっくりとカメラから目を離し、自分の背後――自分の部屋の中を振り返る。
窓際に置かれたPCデスク。
L字型のソファー。
三段の本棚。
「……俺の部屋と、同じだ」
思わずごくりと唾を飲みこんだ。
向かいの空室の家具のシルエットが、健太の部屋の配置と『完全に一致』していた。
偶然ではない。
あちらが、こちらを真似している。
誰かが、あの中から俺の部屋を見ている?
健太は慌てて部屋に戻り、カーテンを勢いよく閉めた。
全身の毛穴から、じわっと嫌な汗が吹き出してくる。
Tシャツが肌にべったりと張り付いた。
隔離された安全な空間だと思っていた自分の部屋が、透明なガラス張りのケースのように感じられた。
誰に見られている?
何のために?
健太はオンラインゲームの通話アプリを開き、深夜でも起きている友人に繋いだ。
「おい、ちょっと聞いてくれ。向かいのマンションがさ……」
『あー、お前またそんな妄想してんの? 働きすぎだって。目薬さして寝ろ』
友人は適当に相槌を打ち、笑い飛ばした。
電話を切った後、部屋の静寂が一層深く感じられた。
気のせい。
ただの偶然の一致。
あんなすりガラス越しじゃ、こっちの部屋の配置なんて細かく見えるはずがない。
自分にそう言い聞かせ、健太はベッドに入った。
だが、カーテンの隙間から漏れてくるオレンジ色の光が気になって、一睡もできなかった。
六日目。
健太の恐怖は、限界に達していた。
昼間、管理会社に電話をかけて向かいの部屋の状況を聞いたが、事務的な声で「あちらの物件は一年以上空室です。電気の契約も切れています」と冷たくあしらわれただけだった。
深夜二時。
健太は部屋の電気を全て消し、真っ暗な中でカーテンの隙間から外を窺った。
向かいの部屋の電気が、パッと点灯した。
オレンジ色の光が、すりガラスを通してこちらを照らす。
健太は震える手でカメラを持ち上げ、ファインダーを覗き込んだ。
ピントを合わせる。
今日は、家具の影だけではなかった。
すりガラスのすぐ内側に、人間が立っている。
身長は健太と同じくらい。
服装は……ダボついたグレーのスウェットに、ヨレヨレの黒いTシャツ。
健太が今、着ている服と全く同じだった。
「……ひっ」
声にならない悲鳴が漏れた。
その『影』は、ガラスにぴったりと張り付くように立ち、こちらをじっと見つめている。
健太は後ずさりしようとした。
だが、足が震えて動かない。
ファインダー越しの『影』が、ゆっくりと動いた。
影の腕が持ち上がり、顔の前に何かを構える。
レンズのような、黒い筒状のシルエット。
「カメラ……?」
向こう側も、カメラを構えてこちらを覗き込んでいた。
その瞬間、すりガラスの向こうで、パシャッという鋭いフラッシュが焚かれた。
眩い閃光が、健太の目を突き刺す。
目が眩み、カメラを取り落とした。
ガシャン、と床に激突する音が部屋に響く。
視界が白くチカチカと明滅している。
健太は目を擦りながら、よろけつつ後退した。
「なんなんだよ、ふざけんな……っ」
背中が、ドン、と何かにぶつかった。
壁ではない。
もっと柔らかくて、生温かい、人間の身体。
健太の全身の血が凍りついた。
部屋には鍵をかけている。
健太一人しかいないはず。
だが、背中には確かに、誰かが立っている感触が。
ゆっくりと、首を後ろに回す。
暗闇の中。
健太の背後に立っていたのは、ダボついたグレーのスウェットに、黒いTシャツを着た男。
その男の顔は、健太と全く同じ顔をしていた。
ただ、目だけが不自然に見開かれ、口元には歪んだ笑みが張り付いている。
男の手に握られたカメラのストロボが、至近距離でバシャッと焚かれた。
健太の絶叫とシャッター音が重なった。




