第3話 既読
高橋弓(32)は、夜間救急を受け入れる総合病院で夜勤専従の看護師として働いている。
生と死が分単位で交差するこの職場で五年も働けば、人間の感情というものは摩耗し、やがて徹底したリアリストになる。
弓にとって、死とは「心拍の停止」という物理現象でしかなく、幽霊や未練といったスピリチュアルな概念は、生きている人間が作り出した自己防衛のフィクションに過ぎなかった。
一ヶ月前、実家で祖母が老衰で息を引き取った時も、弓の目には一滴の涙も浮かばなかった。
「大往生だったね。お葬式の手配、私がやろうか?」
淡々と告げる弓を、三つ下の妹の真希は少し非難がましい目で見ていたが、弓は気にしなかった。
悲しみに暮れるよりも、眼の前の仕事をこなす方がよほど死者への供養になると思っていた。
深夜三時。
数回のナースコールを捌き終え、ナースステーションに戻ってきた弓は、パイプ椅子に深く腰を下ろした。
同僚の看護師は仮眠室に入っており、フロアには弓一人しかいない。
心電図モニターの規則的な電子音と、廊下にある自販機のモーター音だけが、静寂の中で一定のリズムを刻んでいる。
弓は白衣のポケットからスマホを取り出した。
仮眠に入る前の、わずかな休憩時間。
画面には、妹の真希からLINEが入っていた。
『おばあちゃんの遺品整理、今度の週末でいい? 服とか結構残ってるんだけど』
弓は片手でフリック入力し、『了解。土曜の午後なら空いてる』と打ち込んで送信ボタンを押した。
その直後、弓の手がピタリと止まった。
トーク画面の最上部、送信先の名前。
そこには「真希」ではなく、「おばあちゃん」と表示されていた。
真希のアカウントの一つ下に残っていた、亡き祖母のアカウントに誤爆してしまった。
アイコンは、祖母が昔から可愛がっていた実家の野良猫の写真のままである。
「……やっちゃった」
弓は小さく舌打ちをした。
長押しして送信取り消しを選ぼうとした、その時だった。
画面の右端、たった今送ったばかりの緑色のフキダシの横に、小さな文字が浮かび上がった。
『既読』
弓は眉をひそめ、スマホの画面に顔を近づけた。
見間違いではない。
確かに既読がついている。
祖母のスマホは、死後すぐに真希がキャリアショップに持ち込んで解約手続きを済ませているはずだ。
端末自体も、実家の仏壇の引き出しに、電源を切った状態でしまってあると聞いていた。
「……ああ、なるほどね」
数秒後、弓は論理的な答えを導き出し、小さく息を吐いた。
LINEのアカウントは電話番号と紐づいている。
解約された番号が、すでに新規契約の別の人間に割り当てられたのだろう。
そうすれば、こういうことも起こり得るだろう。
弓は『間違えました、すみません』とだけ打ち込み、すぐにそのアカウントをブロックして非表示にした。
気味悪がるようなことではない。
単なるシステム上の合理的な現象だ。
スマホをデスクに裏返して置き、弓はカルテの整理に戻った。
だが、異変は翌日から始まった。
昼間、アパートのベッドで泥のように眠っていた弓は、枕元のスマホが連続して震える音で目を覚ました。
薄目を開けて画面を見ると、真希からのLINEが何十件も溜まっていた。
『お姉ちゃん、どうしよう』
『おばあちゃんのアカウント、既読になる』
『私がいま送ったスタンプ、一秒で既読ついた』
『ブロックしても、解除されてるみたい。どうして?』
弓は重い頭を起こし、ため息をついた。
寝起きでひどく頭が痛い。
『だから、番号が別の人に渡っただけでしょ。放置しときなよ』
そう返信した直後、真希から直接電話がかかってきた。
「お姉ちゃん、違うの!」
耳に当てたスマホから、パニックを起こしたように上ずった真希の声が響いた。
「私、気になって実家に行って確認したの。おばあちゃんのスマホ、仏壇の引き出しにあった。……電源、入ってたのよ!」
弓の背筋に、わずかに冷たいものが走った。
「お母さんが充電したんじゃないの? アラームか何かの設定が残ってて」
「違うよ! お母さん、充電器なんか捨てちゃったって言ってた。そもそも、一ヶ月も放置してたら充電なんてゼロになるはずでしょ? それに……解約したスマホだから、Wi-Fiも繋がってないのに……私が自分のスマホからLINEを送ると、その仏壇のスマホの画面が光るの。で、既読がつくの!」
「真希、落ち着きなさい」
弓は意図的に、仕事中のような冷たい声を出した。
「電波の残留か、何かの同期バグよ。クラウド上にデータが残ってて、他の端末と干渉してるだけ。いいから、電源ボタン長押しして切って、もうそのスマホには触らないの」
一方的に電話を切り、弓はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
部屋の空気が、やけに重く、ねっとりとしている。
バグだ。
ただのバグ。
そう頭では完全に理解しているのに、なぜか胃の奥底がじわじわと冷えていくような、嫌な感覚があった。
三日後。
その夜も、弓は夜勤に入っていた。
深夜三時十七分。
ナースステーションには弓一人。
フロアは見回りも終わり、完全な静寂に包まれていた。
蛍光灯の白々しい光の下で、弓は電子カルテにキーボードを叩き込んでいる。
ふと、白衣のポケットの中でスマホが短く震えた。
LINEの通知だ。
画面を見ると、また真希からだった。
『お姉ちゃん』
『お母さんのLINEも既読になった』
『お父さんのも』
『おばあちゃんのアカウントに、家族全員のLINEが読まれてる』
『ねえ、おばあちゃん、何か怒ってるのかな。お見舞いにあまり行けなかったから』
弓は舌打ちをした。
真希の過剰な想像力とオカルトへの関心には呆れるしかない。
死んだ人間が怒るわけがない。
怒りという感情は、脳内の化学伝達物質の分泌によるものだ。
脳が活動を停止した時点で、怒りも悲しみも存在しない。
『いい加減にして。ただのバグだって言ってるでしょ。夜勤中で忙しいの』
苛立ちに任せて画面を乱暴にタップし、送信。
スマホをデスクの上に裏返して放り投げた。
カルテの入力に戻る。
だが、画面上の文字の羅列が、なぜか頭に入ってこない。
首筋の産毛が粟立つ。
静まり返ったナースステーションの空気が、急に、氷室のように冷え込んだような気がした。
誰もいないはずの廊下から、微かに、何かが引きずられるような音が聞こえた気がした。
車椅子? いや違う。
もっと柔らかくて重いもの。
布団か、衣類が擦れるような音。
弓は顔を上げ、ナースステーションの窓越しに廊下を見た。
薄暗い照明が続く廊下には、誰もいない。
各病室のドアは閉まっている。
「……疲れてるのね、私」
深くため息をつき、熱いブラックコーヒーでも淹れようとパイプ椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
デスクの上に裏返して置いたスマホが、ブーン、と長く震え出した。
LINEの無料通話の着信。
真希だろう。
しつこい。
後で説教してやる。
弓は苛立ちながらスマホを手に取り、画面を表に返した。
呼吸が止まった。
画面に表示されていたのは、「真希」ではなかった。
実家の野良猫のアイコン。
『おばあちゃん からの着信』
頭の中の血が一気に下半身へ落ちていくのがわかった。
マナーモードのため着信音は鳴っていない。
ただ、バイブレーションがブーン、ブーンと規則的なリズムで手のひらを震わせている。
あり得ない。
解約されたはずの端末から、通話がかかってくるはずがない。
しかも、先ほどブロックしたはずのアカウントだ。
弓はスマホを取り落としそうになった。
指先が痙攣したように震えている。
「……」
赤色の『切る』ボタンを押そうとした。
しかし、指が画面の数ミリ上で硬直して動かない。
背中に、べったりとした脂汗が張り付くのがわかった。
制服の下着が冷たく肌にへばりつく。
その時。
弓の指は一切触れていないのに、緑色の『応答』ボタンが、見えない指に押されたようにスッとスワイプされた。
通話が繋がった。
画面が通話中のタイマー表示になる。
00:01、00:02と、無慈悲に時間がカウントされていく。
弓はスマホをデスクに放り投げ、数歩後ずさった。
デスクの上のスマホのスピーカーから、ざあぁぁぁ……という、テレビの砂嵐のようなノイズがかすかに流れ始めた。
弓は壁に背中をぶつけ、両手で口を覆った。
ざあぁぁぁ……。
ノイズの奥から、何かが聞こえる。
それは、言葉ではなかった。
『ヒューッ……ヒューッ……』
気管に粘着質の痰が絡んだような、掠れた、苦しげな呼吸音。
間違いない。
一ヶ月前、病室で祖母が死ぬ直前、下顎呼吸に移行した時に繰り返していた、あの死に際の呼吸音だった。
「……嘘」
弓の膝から力が抜け、床にへたり込んだ。
呼吸音は徐々にボリュームを増し、静まり返ったナースステーションの中に不気味に響き渡る。
『ヒューッ……ユミ……』
名前を、呼ばれた。
弓は両耳をきつく塞ぎ、目を固く閉じた。
物理現象、バグ、論理。
リアリストだった弓の世界の基盤が、音を立てて崩れ落ちていく。
スマホからの音声は、さらに大きくなる。
『ヒューッ……うしろ……』
弓の背後。
つまり、背中を押し当てているコンクリートの壁だと思っていた場所から。
死後硬直のように冷たく乾いた手が、弓の白衣の襟首を、ゆっくりと、力強く掴んだ。




