第2話 深夜二時のコンビニ
深夜二時のコンビニエンスストアは、神田涼太にとって世界で最も安全な場所だった。
フリーライターとして活動する涼太の生活は、完全に昼夜が逆転している。
締め切りに追われ、四畳半のアパートでキーボードを叩き続ける日々。
部屋には万年床が敷かれ、飲みかけのペットボトルや資料の山が足の踏み場もなく散乱している。
太陽の光を浴びるのは、月に数回、編集部へ打ち合わせに行く時くらいだ。
そんな彼の荒んだ生活の中で、唯一の息抜きであり、社会との接点と呼べるのが、アパートから歩いて三分ほどの場所にあるコンビニへの買い出しだった。
自動ドアに近づくと、ウィーンという微かなモーター音とともに、明るく無機質な入店チャイムが鳴り響く。
足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冬の寒さは遮断され、代わりに暖房の効いた乾いた空気が全身を包み込む。
眩しすぎるほどのLEDの蛍光灯が、陳列棚に整然と並べられた商品を影一つなく照らし出している。
冷蔵ケースの低く安定した唸り音。
おでんの出汁の匂いと、床ワックスの薬品じみた匂いが混ざり合った、全国どこでも同じ均一な香り。
そこには、「深夜」という不安定な時間が抱える心もとなさや恐怖は一切存在しない。
深夜特有の静寂も、暗闇も、ここでは完全にコントロールされている。
だからこそ、涼太はこの場所を無意識のうちに自分の「聖域」のように感じていた。
涼太は少し神経質な性格で、日常のすべてを記録しないと落ち着かない癖があった。
スマホのライフログアプリには、何時に起きたか、何を食べたか、どれだけ歩いたかが分刻みで記録されている。
自分の行動がすべてデジタルな数字として可視化されていることで、不規則な生活に対する罪悪感を薄め、わずかな安心感を得ていた。
その日も、涼太はいつものように深夜二時きっかりにアパートを出た。
冷たい夜風に肩をすくめながらコンビニに入り、真っ直ぐに飲料コーナーへと向かう。
決まって買うのは、ブラックの缶コーヒーと、メンソールのタバコ一箱。
だが、その夜、涼太の視界の端に「異物」が混ざり込んだ。
雑誌コーナー。
光の海のような店内の片隅で、一人の客が立ち読みをしていた。
季節外れの、黒いウールのロングコートを着た女性。
長い黒髪が顔の側面に垂れ下がり、表情はまったく見えない。
彼女は週刊誌のラックの前に立ち、少し俯いた姿勢で雑誌のページを見つめていた。
深夜のコンビニに客がいること自体は珍しくない。
だが、涼太は歩きながら、その女性の姿から目を離せなくなった。
違和感の正体は、すぐにわかった。
彼女は「微動だにしない」。
ページをめくる音もしない。
体重をかける足を変える気配すらない。
呼吸による肩の上下すら見受けられない。
まるで、そこだけ空間が切り取られ、時間が停止しているかのように、圧倒的な静止を保っていた。
気味悪。
涼太は足早にレジへ向かい、商品を置いた。
金髪の大学生アルバイトは、あくびを噛み殺しながら無言でバーコードを読み取っていく。
ピッ、ピッという電子音が、やけに大きく店内に響いた。
涼太は小銭をトレーに出しながら、アルバイトに低い声で話しかけた。
「……あのさ、あそこで立ち読みしてる女の人、何時からいるの?」
アルバイトは気怠そうに顔を上げ、涼太の視線の先――雑誌コーナーを一瞥した。
「え?」
気の抜けた声が返ってくる。
「誰もいませんよ」
涼太は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
弾かれたように振り返る。
雑誌コーナーには、つい数秒前までそこに立っていたはずの、黒いコートの姿は跡形もなかった。
入店チャイムは鳴っていない。
自動ドアが開いた気配もなかった。
「……あ、いや、見間違い。ごめん」
涼太は逃げるようにレシートを受け取り、店を飛び出した。
冷たい風が汗ばんだ首筋を撫で、ブルリと身震いする。
アパートに帰り、デスクのパイプ椅子にどっかと腰を下ろした。
心臓がいつもより少し早く打っている。
買ってきた缶コーヒーのプルタブを開け、一気に半分ほど流し込んだ。
苦味が口の中に広がり、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「疲れてるんだな、俺……」
独り言を呟き、ジーンズのポケットからくしゃくしゃになったレシートを取り出した。
ライフログをつけるために、時間を確認する。
打刻は「02:00」。
いつも通り。
涼太はスマホを取り出し、カメラロールを開いた。
実は先ほど、レジに向かう直前、涼太はスマホを弄るふりをして、あの黒いコートの女性をこっそりと撮影していた。
神経質な彼の、すべてを「記録」しておかなければ気が済まない悪癖だった。
画面には、蛍光灯の下で立ち尽くす黒いコートの背中が、鮮明に写し出されていた。
見間違いではない。
確かに彼女は「存在」していた。
涼太は少しほっとして、写真の詳細情報――プロパティを開いた。
その瞬間、呼吸が止まった。
撮影日時の項目。
そこには、「03:17」と記録されていた。
一瞬、意味がわからなかった。
レシートの時間は午前二時。
涼太が家を出たのも午前二時。
現在時刻も、画面の上部には「02:15」と表示されている。
午前三時十七分などという時間は、まだ「未来」の話だ。
「……バグか」
涼太は震える指で画面をスクロールし、他の写真のプロパティを確認した。
昨日撮った資料の写真、今日のお昼に食べたコンビニ弁当の写真。
どれも時間は正確だった。
だが、あの黒いコートの女性が写った一枚だけが、「03:17」というあり得ない時間を刻んでいた。
背中からじわっと脂汗が滲み出る感覚があった。
Tシャツの背中が冷たく張り付く。
胃の奥底に、得体の知れない泥のようなものが溜まっていく。
単なる機械のエラーか。
そう頭では理解しようとしているのに、身体が本能的に警鐘を鳴らしていた。
あのコンビニは、安全な場所ではないかも。
翌日も、涼太の神経質な気質は恐怖を上回った。
確かめずにはいられなかった。あのエラーが偶然なのかどうかを。
深夜二時きっかりに、涼太は再びコンビニの自動ドアをくぐった。
入店チャイムが鳴る。
雑誌コーナーに目を向ける。
――いた。
昨日とまったく同じ場所、同じ姿勢。
黒いコートの背中。
涼太は息を殺し、陳列棚の陰からスマホを構えた。
自分のスマホの現在時刻を確認する。「02:02」。
カメラを起動し、彼女の背中をフレームに収め、シャッターボタンをタップする。
無音カメラのアプリだが、涼太の耳には嫌な音が響いたような気がした。
すぐに画像フォルダを開き、プロパティを確認する。
『撮影日時:03:17』
ぞくり、と首筋から背骨にかけて、冷たい電流のようなものが走り抜けた。
産毛が総毛立つのが自分でもわかった。
指先が小刻みに震え始める。
偶然ではない。
この女を撮影した時だけ、時間が「午前三時十七分」に固定される。
涼太はスマホを持つ手に力を込め、画面から目を上げて現実の彼女を見た。
相変わらず、彼女は微動だにしない。
だが、気のせいだろうか。
昨日よりも、少しだけ、彼女の立ち位置がレジ側に――涼太のいる側に近づいているように見えた。
涼太は何も買わずに、逃げるように店を出た。
それから一週間。
涼太の生活は何かが破綻していた。
原稿にはまったく手がつけられず、夜が来るたびに恐怖と緊張で胃液を吐いた。
行かなければいい。
あのコンビニに近づかなければいい。
頭ではわかっているのに、深夜二時が近づくと、身体が勝手に震え出し、確かめに行かなければ気が狂いそうになる強迫観念に苛まれた。
毎日、彼女はいた。
毎日、撮影日時は「03:17」。
そして毎日、彼女の立ち位置は、確実に一歩ずつ涼太に近づいていた。
最初は雑誌コーナーだった。
三日目は飲料ケースの前。
五日目は弁当コーナー。
アルバイトの店員は相変わらず「誰もいない」と気怠げに言うだけだ。
涼太の目と、スマホのカメラにしか、彼女は存在しない。
明るく安全だったはずのコンビニが、今ではまるで無菌室の手術室のように感じられた。
白すぎる光が、逃げ場のない狂気を照らし出している。
冷蔵ケースのモーター音は、不気味な地鳴りのように涼太の鼓膜を圧迫した。
最終日。
一睡もしていない涼太は、フラフラとした足取りで自動ドアをくぐった。
視界がぼやける。
極度の疲労と恐怖で、自分の身体が自分のものではないように浮き上がっている感覚があった。
入店チャイムが、遠くの耳鳴りのように響く。
涼太は視線を上げた。
彼女は、おにぎりコーナーの前――涼太からわずか数メートルの距離に立っていた。
今までずっと横向きか後ろ姿しか見えなかった彼女が、今日は完全に涼太の方に体を向けていた。
ただ、長い黒髪がすだれのように垂れ下がり、依然として顔は見えない。
ドクン、ドクンと、耳の奥で心臓が暴れ狂う音がした。
脂汗が滝のように流れ落ち、Tシャツを濡らす。
息がうまく吸えない。
気道が細く締め付けられたように、ひゅーっ、ひゅーっという浅い呼吸が漏れる。
涼太は、半ば無意識に、震える手でスマホを構えた。
カメラアプリを起動する。
もう、プロパティを見る必要はない。
今が何時であろうと、彼女は「03:17」にいる。
画面越しに、彼女を捉える。
その瞬間だった。
画面の中の彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
現実の彼女は俯いたままだ。
しかし、スマホの液晶画面の中だけで、彼女はゆっくりと、機械的な滑らかさで首を持ち上げた。
涼太は息を呑んだ。
黒髪の隙間から見えたのは、普通の、どこにでもいそうな女性の顔だった。
ただ、その目はひどく虚ろで、焦点がまったく合っていない。
ガラス玉のような眼球が、画面越しに涼太を真っ直ぐに見据えていた。
そして。
彼女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
口角だけが不自然に、頬骨まで届きそうなほど釣り上がっていく。
気味の悪い、満面の笑み。
涼太は恐怖で叫ぼうとした。
だが、声が出ない。
喉が石のように硬直していた。
逃げなければ。
足に力を込めるが、床に縫い付けられたように一ミリも動かない。
全身の筋肉が金縛りにあったように強張っている。
スマホを持つ手だけが、痙攣するように震え続けていた。
画面の中で笑う彼女。
その時、涼太のスマホが「ブルッ」と短く震えた。
アラームの振動だ。
画面の上部、現在時刻の表示が切り替わったのが見えた。
『03:17』
涼太がハッとして画面から目を上げ、現実の彼女を見た瞬間。
彼女はもう、涼太の鼻先が触れるほどのゼロ距離に立っていた。
氷のように冷たい吐息が、涼太の顔にかかる。
黒いコートから、生乾きの雑巾のような強烈な腐臭が鼻を突いた。
「お待たせ」
涼太の耳元で、ベチャリと潰れたような、湿った声が囁かれた。
コンビニの白すぎる蛍光灯が、一瞬だけ激しく点滅した。




