第1話 誰もいないエレベーター
深夜一時を過ぎた駅前は、白々しい街灯だけが等間隔に並び、人影はまばらだった。
佐々木芽衣は、コンクリートの冷たさをヒールで叩くように歩いていた。
首に巻いたマフラーに顔を深く埋める。吐く息が白く濁り、すぐに夜の闇に溶けていく。
「……寒っ」
ポツリと呟いた声は、誰に届くわけでもなく空気に吸い込まれた。
IT企業のディレクターとして働く芽衣の毎日は、終電との戦いだ。
今日もまた、リリース直前のシステムトラブルに巻き込まれ、夕食はデスクでかじった栄養補助食品だけだった。
パソコンのブルーライトを浴び続けた目は乾ききり、まばたきをするたびに砂が挟まっているような異物感がある。
胃の奥は重く、肩には鉛のような疲労が乗っていた。
とにかく、一秒でも早くベッドに倒れ込みたい。
その一心で、冷たい風の中を歩き続ける。
駅から徒歩十分。
大通りから一本入った閑静な住宅街に、芽衣の住むマンションはある。
築浅のデザイナーズ物件で、コンクリート打ちっぱなしの外観が洗練された印象を与える。
エントランスに近づくと、ガラス張りの自動ドアが静かなモーター音とともに開いた。
暖房が効いたロビーには、ほのかに柑橘系のアロマの香りが漂っている。
外の冷たい空気から隔絶されたこの空間に入ると、ようやく「自分のテリトリーに帰ってきた」という安堵感が芽生える。
バッグからキーを取り出し、オートロックのセンサーにかざす。
ピロッ、という無機質な電子音が鳴り、重厚な金属の扉がロックを解除した。
誰もいないロビーを抜け、大理石調の床を歩いてエレベーターホールへ向かう。
芽衣の部屋は、このマンションの最上階である十階にある。
四隅に防犯カメラが設置され、各階の廊下にも死角がない。
セキュリティの高さだけが取り柄のマンションだ。
隣にどんな人が住んでいるのかすら知らない。
すれ違っても軽く会釈をする程度で、言葉を交わしたことは一度もなかった。
でも、その程度の無関心さが、今の芽衣には心地よかった。
都会のど真ん中で、誰からも干渉されない完璧な「孤独」。
それは彼女にとって、安全の証明でもあった。
上矢印のボタンを押す。
深夜のエレベーターは、他の階で呼ばれることもなく、すぐに一階へと降りてきた。
金属めいた鈍い音を立ててドアが開く。
中は当然、無人だ。
眩しいほど明るい蛍光灯に照らされた箱の中。
鏡張りの壁には、化粧が崩れ、目の下にうっすらと隈を作った疲れ切った自分の顔が映っている。
芽衣は乗り込み、「10」のボタンと「閉」ボタンを立て続けに押した。
微かな振動とともに、静かに上昇が始まる。
モーターの唸るような低音が足裏に伝わってくる。
階数表示の赤いデジタル数字が、2、3、4と規則的なリズムで変わっていく。
芽衣は壁に背中を預け、目を閉じて首を回した。
ゴキリと鈍い音が鳴る。
ふと、胃が浮き上がるような感覚がした。
上昇する勢いが、ふっと消える。
エレベーターが減速していた。
ゆっくりと箱が止まる。
目を開けると、階数表示は「7」で止まっていた。
チーン、という小気味よい音がホールに響き、ドアがゆっくりと左右に開いた。
「……」
芽衣は少しだけ身構え、壁際に寄って場所を空けた。
こんな深夜に帰宅する住人が、自分以外にもいたのだろうか。
だが。
完全に開いたドアの向こうには、誰もいなかった。
ただ、薄暗い廊下が一直線に伸びているだけだ。
等間隔に並んだ各部屋のドアは固く閉ざされ、人の気配はまったくない。
廊下の突き当たりで、非常灯の緑色がぼんやりと光っている。
「……あれ?」
芽衣は眉をひそめた。
誰かがボタンを押して、待ちきれずに階段で降りてしまったのだろうか。
それとも、酔っ払いのイタズラか。
冷たい風が、廊下からエレベーターの中に流れ込んでくる。
急に、腕の産毛が粟立った。
理由はわからない。
ただ、開いたままの黒い空間を見つめていると、胃の底に氷の塊を落とされたような、嫌な感覚が広がった。
まるで、その薄暗い廊下の奥から、見えない「何か」がじっとこちらを観察しているような。
芽衣は無意識のうちに息を詰め、慌てて「閉」ボタンを連打した。
ゆっくりとドアが閉まる。
隙間が完全に塞がった瞬間、堰を切ったように深く息を吐き出した。
再び上昇が始まり、十階に着く。
足早に自分の部屋に入り、鍵をかけ、チェーンをしっかりとかける。
気のせいだ。
ただの偶然。
センサーが過敏に反応しただけ。
そう自分に言い聞かせ、芽衣は逃げるようにメイクを落とし、ベッドに潜り込んだ。
それからだった。
エレベーターが、必ず七階で止まるようになったのは。
時間はいつも決まって深夜一時過ぎ。
他の住人と乗り合わせることはない。
常に、芽衣が一人で乗っている時だけだ。
ドアが開く。
誰もいない。
数秒間の沈黙のあと、ドアが閉まる。
二日目、三日目と続くうちに、芽衣は恐怖よりも苛立ちを覚えるようになった。
(また。いい加減にしてよ……)
管理会社に苦情を入れようかとも思ったが、仕事の忙しさに追われ、日中にはすっかりそのことを忘れてしまっていた。
だが、一週間が経過した頃から、明確に「異常」を感じるようになった。
ドアが開くたびに、強烈な「気配」を感じるのだ。
誰もいないはずの廊下から、誰かがこちらを見ているような感覚。
そして、ドアが閉まる直前。
『乗ろうとしている』誰かが、すぐ目の前、ドアの境界線ギリギリまで迫ってきているような、生暖かい空気のうねり。
カサリ、と衣類が擦れるような微かな音まで聞こえた気がした。
気のせいではない。
確かに、何かがそこにいる。
芽衣はエレベーターに乗るたびにスマホの画面を凝視し、絶対に顔を上げないようにした。
イヤホンをつけ、音楽のボリュームを最大にする。
それでも、七階で止まる瞬間の減速感は消せない。
画面の中の文字は、一つも頭に入ってこない。
ただ、冷や汗が背中をじわりと伝うのを感じていた。
「佐々木さん、顔色悪いですよ。ちゃんと寝てます?」
翌日の昼休み。オフィスの明るい休憩スペースで、後輩の田中が缶コーヒーを片手に声をかけてきた。
「……そう? 最近、ちょっと寝不足で」
芽衣は曖昧に笑い、紙コップの紅茶に口をつけた。
温かい液体が食道を通っていく感覚が、今はやけに心地いい。
田中は向かいの席に座り、スマホをいじりながら言った。
「あれですか、マンションの騒音とか? 最近、壁の薄い物件多いですからね」
「ううん、違うんだけど……」
芽衣は少し迷った。
こんなことを話しても笑われるだけかもしれない。
しかし、誰かに聞いてほしかった。
自分の中で膨らみ続ける不安を、言葉にして外に出したかった。
「うちのマンションのエレベーター、いつも同じ階で止まるの。誰も乗ってこないのに」
田中はスマホから顔を上げ、目を丸くした。
「うわ、なにそれ。めっちゃ怖いじゃないですか」
「だから、たぶんセンサーの故障か何かだと思うんだけどね」
「いやいや、そういうのって都市伝説でよく聞きますよ。別の世界に連れて行かれるやつとか。異界エレベーターでしたっけ?」
田中は面白がるように身を乗り出した。
「管理会社に言った方がいいですよ。監視カメラ、ついてるんでしょ?」
「……うん。そうだね」
芽衣は目を伏せた。
田中の言う通りだ。
カメラの映像を確認すればはっきりする。
ただのイタズラか、機械のバグなら、それで安心できる。
幽霊なんて非論理的なものを、自分が信じるわけがない。
その日の夕方。芽衣は早めに仕事を切り上げ、マンションの一階にある管理室を訪ねた。
ガラス張りのカウンターの奥で、初老の管理人が新聞を広げていた。
芽衣が事情を説明すると、彼は面倒くさそうに老眼鏡をずらし、パソコンのモニターに向かった。
「昨日の深夜一時頃ですね。ええと……ああ、ありました。これですね」
モニターには、四分割された監視カメラの映像が映し出されている。
左上の画面はエレベーターの内部。
芽衣が一人で乗り込み、スマホを俯きがちに見つめている姿が白黒の映像で記録されている。
右上の画面は、七階の廊下を映したものだ。
「ほら、誰もいませんよ。イタズラでもなさそうですな。明日、業者の点検を……」
管理人がのんきな声で言いかけた言葉は、芽衣の耳には届いていなかった。
芽衣は、モニターを食い入るように見つめ、呼吸を止めた。
「……これ」
震える指で、画面を指差す。
「ドア、開いてないじゃないですか」
内部のカメラに映る芽衣は、明らかにエレベーターが途中で止まった様子で顔を上げ、怯えたように身体を硬直させている。
しかし。
七階の廊下を映すカメラでは、エレベーターのドアは完全に閉まったままだったのだ。
到着を知らせるランプすら点灯していない。
映像の中では、芽衣が乗った箱は一階から十階まで、一度も止まることなく直行している。
「えっ? いや、でも……佐々木さんは、中で止まっているように見えますな」
管理人も異変に気づき、言葉を失っている。
映像の中の芽衣は、開いていないドアに向かって、何かの気配を恐れるように顔を背けていた。
「私……毎晩、何を見てたんですか?」
芽衣の喉から、かすれた声が漏れた。
全身の血の気が一気に引いていくのがわかった。
機械のバグではない。
あの空間は、現実の七階とは繋がっていなかったのだ。
では、毎晩開いていたあの暗闇は、いったいどこだったのか。
誰が、私を覗き込んでいたのか。
その日のうちに、芽衣は引っ越しを決めた。
違約金も敷金もどうでもよかった。
あんな場所に、もう一秒たりともいたくなかった。
不動産屋に無理を言って明日からのウィークリーマンションを手配し、夜を徹して必要最低限の荷物だけを段ボールとキャリーケースに詰め込んだ。
部屋の中に段ボールが積み上がる。
時刻は、午前三時を回っていた。
ふと、スマホの時計を見る。
午前三時十七分。
静まり返った部屋に、エアコンの動作音だけが響いている。
早くここを出よう。夜明けを待つことすら恐ろしい。
芽衣はキャリーケースの持ち手を握り、玄関のドアを開けた。
廊下は静かだった。
非常灯の緑色の光が、やけに白々しく見える。
エレベーターホールまで歩く。
下矢印のボタンを押す手が、微かに震えていた。
階段を使おうかとも考えた。
だが、十階から重いキャリーケースを引きずりながら、あの薄暗い非常階段を降りていく想像をしただけで足がすくんだ。
密室のエレベーターも恐ろしいが、今は一刻も早く一階に降りたかった。
すぐに到着を知らせる電子音が鳴り、ドアが開いた。
誰もいない箱の中に乗り込み、「1」のボタンを押す。
どうか、止まらないで。
芽衣は祈るように目を固く閉じた。
モーター音が響き、箱が下降していく。
9、8……。
階数表示が一つずつ減っていく。
芽衣は息を殺した。
7。
減速は、しなかった。
そのままスムーズに、6、5と数字が変わっていく。
「……よかった」
ふっと、張り詰めていた体から力が抜けた。
カメラの映像は何かのおかしなバグだったのだ。
きっと、疲れていたから変な幻覚を見ていただけだ。
安堵の吐息を漏らした、その時だった。
背後で、チーンという音がした。
エレベーターの背面の壁。
鏡張りになっている、その壁の奥からだ。
芽衣は弾かれたように振り返った。
鏡の中には、青ざめた自分の顔が映っている。
だが。
鏡の中の自分は、芽衣と目を合わせていなかった。
鏡の中の芽衣は、芽衣の背後――つまり、閉ざされたエレベーターのドアの方を、絶望的な瞳で見つめていたのだ。
「……え?」
理解が追いつかない。
自分の身体は今、鏡の方を向いているのに。
鏡に映る芽衣の背後、エレベーターの隅。
そこに、黒いコートを着た何者かが立っていた。
息が止まる。
振り返ることはできなかった。
背中に、ねっとりとした冷気を感じる。
湿った土のような、腐ったような臭いが鼻をついた。
『……やっと、乗ってくれた』
耳元で、擦れるような低い声がした。
一階に到着する音が鳴る。
ドアが開いた瞬間、芽衣はキャリーケースを放り出し、悲鳴を上げてロビーへと転がり出た。
大理石の床に倒れ込みながら、反射的に振り返る。
明るいロビーの光に照らされたエレベーターの中。
そこには、倒れたキャリーケースがポツンと置かれているだけだった。
誰もいない。
鏡の中にも、自分の姿しか映っていない。
だが。
操作盤の「閉」ボタンが、見えない指に力強く押し込まれたように、カチリと沈み込んだ。
ゆっくりとドアが閉まっていく。
閉まりゆく隙間の奥で、黒いコートの裾が揺れた気がした。
芽衣はそのまま、夜の街へと走り出した。
もう二度と、振り返らないように。




