第10話 ストリートビュー
都内の不動産仲介会社で働く大輔(31)は、極めて合理主義的な男だった。
彼がトップクラスの営業成績を維持できているのは、無駄な足を使わないからだ。
顧客から物件の問い合わせがあれば、まずはデスクのパソコンからマップアプリを開き、「ストリートビュー」の機能を使って周辺環境を徹底的に調査する。
路地の狭さ、近隣のゴミ捨て場の汚れ具合、近くのコンビニの客層まで、現地に行かずとも画面上の情報だけで九割の予測がつく。
大輔にとって、ストリートビューは世界を俯瞰するための「神の目」だった。
画面の中で凍りついた風景。
モザイクで顔を消され、数ヶ月前、あるいは数年前の日常の1ページに永遠に閉じ込められた見知らぬ通行人たち。
彼らを安全な部屋の中から見下ろしている時、大輔は自分がこの監視社会における絶対的な『観察者』であるような、奇妙な優越感を抱いていた。
その日の夜は、冷たい雨が降っていた。
大輔は深夜零時過ぎにアパートへ帰宅し、シャワーも浴びずにノートパソコンを開いた。
翌朝の会議で使う、新規物件の周辺調査を終わらせなければならなかった。
冷蔵庫から取り出した缶ビールを開け、喉に流し込む。
慣れた手つきでブラウザを立ち上げ、マップアプリの検索窓に住所を打ち込む。
黄色い人型のアイコンを、地図上の道路にドロップした。
画面が切り替わり、見慣れた東京の住宅街の風景がパノラマで表示される。
マウスをドラッグして視点を回し、物件の外観や隣接する建物の日当たりを確認していく。
三十分ほどで作業が終わり、大輔は大きく伸びをした。
缶ビールはすでに二本空になっていた。
(……そういえば、うちのアパートの画像って更新されてるのかな)
ふと、ちょっとした好奇心が湧いた。
大輔は検索窓の住所を消し、今自分がいるアパートの住所を打ち込んだ。
再び黄色いアイコンを落とす。
画面には、快晴の空の下、大輔の住む築十五年のアパートが映し出された。
画面右下の画像撮影日は「二年前の八月」となっている。
「なんだ、古いままか」
大輔はつまらなそうに呟き、マウスのホイールを回して、アパートの三階――自分の部屋の窓へとズームインした。
二年前の夏なら、窓辺に観葉植物を置いていたはずだ。
それが写っているか確かめたかった。
画質が少し粗くなり、すりガラスの窓が拡大される。
大輔は、マウスを握る手をピタリと止めた。
窓の向こう側に、観葉植物はなかった。
代わりに。
窓の内側から、こちらを見下ろしている『人間』が写っていた。
「……え?」
顔の部分には、アプリの自動処理による丸いモザイクがかけられている。
だが、窓にぴったりと張り付くように立ち、カメラを搭載した撮影車をじっと見下ろしているそのシルエットには、強烈な見覚えがあった。
色褪せたグレーの無地のスウェットパンツに、黒いバンドTシャツ。
大輔が『今』、着ている部屋着と全く同じだった。
背筋に、氷を滑らせたような冷たい悪寒が走った。
二年前の夏に、自分がこの服を着て窓の外を見ていた?
いや、あり得ない。
このバンドTシャツは、半年前のライブ会場で買ったものだ。
二年前の画像に写っているはずがない。
大輔はさらに画面を拡大した。
モザイク越しの顔はわからないが、Tシャツの胸元が、粗い画素数の中でもハッキリと確認できた。
Tシャツの襟首のすぐ下に、黒い染みがある。
大輔は、自分の胸元に視線を落とした。
先ほど、缶ビールを開けた時に勢いよくこぼしてしまった、濡れたばかりのビールの染み。
画面の中の男の胸元にある染みと、位置も形も『完全に一致』していた。
「……はっ?」
声が裏返った。
どういうことだ。
これは、二年前の画像ではないのか?
いや、撮影日の表示は確かに二年前だ。
そもそも、ストリートビューがリアルタイムの映像であるはずがない。
偶然だ。
たまたま同じような服を着た人間が、たまたま同じような汚れをつけていただけで――。
大輔は自分にそう言い聞かせ、震える指でマウスをクリックし、道路上の矢印を押して、視点を「一歩前」へ進めた。
画面がシュッとスライドし、アパートの別の角度からの画像に切り替わる。
大輔は再び、三階の自分の部屋の窓にズームした。
呼吸が、止まった。
窓際にいた男が、こちらに背を向け、部屋の『ドアの方へ』歩き出している後ろ姿が写っていた。
一枚目の画像から、明らかに時間が経過し、動作が連続している。
大輔の全身から、一気に血の気が引いた。
脂汗が額ににじみ出る。
マウスをクリックして、視点をさらに一歩、アパートの入り口側へ進める。
窓を見る。
誰もいない。
視点を下ろし、アパートの一階、エントランスのガラス扉にズームする。
ガラスの向こう側に、階段を下りてきた男の姿が写っていた。
色褪せたグレーのスウェットパンツに、黒いバンドTシャツ。
「……嘘だろ」
大輔はガタッと立ち上がり、後ずさりした。
クリックするたびに、画像の中の『自分』が、部屋を出て、階段を下り、外へ向かっている。
大輔は震える手で、もう一度マウスをクリックした。
画面が切り替わる。
エントランスの自動ドアが開き、男が外へ出てきた瞬間が写っていた。
モザイクの向こう側。
男の顔は、真っ直ぐにカメラを――つまり、画面を見つめている大輔自身の目を、確実に見据えていた。
「やめろ……」
大輔は怯えた声で呻き、もう一度矢印をクリックした。
画面が切り替わる。
……誰もいない。
路上にも、エントランスにも、男の姿はどこにもなかった。
消えた?
大輔はマウスを激しく動かし、視点を360度回転させた。
電柱の陰、駐車場の車の間、自販機の横。
どこを探しても、グレーのスウェットの男は写っていなかった。
大輔は荒い息を吐きながら、椅子にドサリと座り込んだ。
「……バグだ。完全にアプリのバグだ」
両手で顔を覆い、自分を納得させる理由を探した。
リアルタイムであるはずがない。
誰かが自分をハッキングして、合成画像を仕込んでいるのか? それとも過労が見せた幻覚か?
静寂が、部屋を包み込んでいた。
外からは、冷たい雨の音だけが聞こえてくる。
その時。
大輔は、ある恐ろしい事実に気づいた。
画像の中で、エントランスから外に出たあの『男』は。
一体、どこに向かって消えたのか?
大輔の視線が、ゆっくりと自分の部屋の玄関のドアに向けられた。
静寂の中。
ペタッ、ペタッ、という、裸足でリノリウムの床を歩くような水気の含んだ足音。
ドアの『外側』の廊下から、ゆっくりと近づいてくるのが聞こえた。
足音は、大輔の部屋のドアの真ん前で、ピタリと止まった。
ピンポーン。
深夜一時。
鳴るはずのないインターホンのチャイムが、無機質に部屋に響き渡った。
大輔の喉が、ヒュッと鳴った。
立ち上がることも、声を出すこともできない。
ただ、震える瞳で、壁に設置されたインターホンの小さな白黒モニターを見つめた。
モニターの粗い映像の中。
色褪せたグレーのスウェットパンツに、黒いバンドTシャツを着た男。
うつむいたまま、顔の大部分を黒いノイズの『モザイク』で覆われた状態で、ドアの向こうに立っていた。




