第11話 地下通路
都内の巨大ターミナル駅の地下は、アリの巣のように複雑に入り組んだ巨大な迷宮だ。
無数の路線が交差し、デパートや地下街が網の目のように繋がっている。
毎日何百万人という人間がこのコンクリートの腸内を通り抜けていくが、その全貌を完全に把握している人間はおそらくいないだろう。
中堅商社で課長を務める拓也(35)は、残業で終電間際になった金曜の夜、この地下迷宮を一人で歩いていた。
地上は叩きつけるような豪雨だった。
駅から自宅の最寄り路線に乗り換えるためには、一度地上に出て五分ほど歩くのが最短ルートなのだが、拓也は傘を持っていなかった。
濡れるのが嫌なので、遠回りになることを承知で、完全な地下通路だけを通って乗り換え先の改札を目指すことにした。
時刻は午後十一時四十五分。
シャッターの閉まった地下街のシャッター通り。
日中の喧騒が嘘のように、人の気配は全くない。
等間隔に並んだ白々しい蛍光灯と、空調の低いモーター音だけが、無機質な空間を支配している。
拓也は革靴のヒールを無遠慮に響かせながら、黄色い点字ブロックに沿って早足で歩いていた。
壁や天井には配管がむき出しになり、どこからか水滴の落ちる微かな音が聞こえる。
案内板の黄色い矢印に従い、「C13」出口方面へと続く長い直線通路に入った。
歩き始めて五分が経過した。
拓也は、微かな違和感を覚えた。
長い。
いくらなんでも長すぎる。
地下通路は直線で、見渡す限り出口も曲がり角も見えない。
壁には等間隔に電子広告板が埋め込まれているが、すれ違う人間はただの一人もいなかった。
疲れで感覚が鈍っているのだろうか。
拓也はネクタイを少し緩め、歩くペースを上げた。
その時、壁の電子広告板の表示が目に入った。
化粧品の広告。
ビールの広告。
映画の予告編。
拓也は足を止めた。
その映画の予告編は、確かに見覚えがあった。
しかし、それは「三年前に公開が終了した」はずの映画だった。
主演俳優はすでに不祥事で芸能界を引退している。
そんな広告が、今もターミナル駅の地下で流され続けているはずがない。
拓也は眉をひそめ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をタップする。
時刻は「23:45」。
電波状況のアイコンは「圏外」を示していた。
地下の深い場所なら珍しいことではない。
だが、拓也は腕時計に目を落とし、ゾッと息を呑んだ。
腕時計の針も、23時45分を指したまま、秒針がピタリと停止していた。
電池切れか? いや、これは自動巻きの機械式時計だ。
歩いている最中に止まるなどあり得ない。
「……どういうことだ」
拓也の呟きは、不気味なほど大きく通路に反響した。
彼は振り返り、今来た道を戻ろうとした。
しかし、背後に広がる通路もまた、遥か彼方まで一直線に伸び、蛍光灯の光が奥の方で霞んで消えていた。
入り口の分岐点が見えない。
たった五分しか歩いていないはずなのに、まるで数キロのトンネルの中腹に転送されたかのようだった。
空間の感覚が、ぐにゃりと歪むのを感じた。
拓也は慌てて反対方向――元来た道へ向かって駆け出した。
革靴の足音が、暴力的なほどの音量で壁に反響する。
タッタッタッタッ。
走っても、走っても、風景が変わらない。
同じ柄のタイルの壁、同じ色温度の蛍光灯、同じ配管のシミ。
すれ違う電子広告板は、すべてあの「三年前の映画の広告」で固定され、微動だにしていなかった。
息が上がり、心臓が肋骨を打ち据える。
拓也は膝に手をつき、荒い息を吐きながら立ち止まった。
十分以上は全力で走ったはずだ。
だが、通路の果ては全く見えない。
スマホの画面をもう一度見る。
時刻は「23:45」のまま、一分たりとも進んでいなかった。
時間の流れから、完全に切り離されている。
ここには自分しかいない。
永遠に続くコンクリートの箱の中に、ただ一人閉じ込められた。
現代の神隠しか。
冷や汗が全身から噴き出した。
コンクリートの壁がじわじわと両側から迫り、自分を押し潰そうとしているような強烈な閉所恐怖が襲ってくる。
その時。
スマホの画面に激しいノイズが走り、砂嵐のように乱れたかと思うと、表示されている数字がカチリと変わった。
『03:17』
それは、現在時刻でも、止まっていた時間でもなかった。
午前三時十七分。
その数字が表示された瞬間、通路の両壁に埋め込まれていた無数の電子広告板が、一斉に「プツン」という音を立てて消えた。
通路が一気に薄暗くなった。
空調のモーター音が止まった。
完全な、耳鳴りがするほどの静寂だった。
そして……。
コツ、コツ、という足音が、聞こえてきた。
拓也の前方。
薄暗い通路の遥か奥から、誰かがこちらに向かって歩いてくる音。
革靴の音ではない。
もっと重く、湿ったような、引きずるような足音。
拓也は動けなかった。
暗闇の奥に目を凝らす。
やがて、蛍光灯の光の境界線から、人影がヌルリと姿を現した。
季節外れの、分厚く長い黒いコートを着た人物だった。
顔は、見えない。
ただ、フードのように深く被った襟の奥から、底なしの暗闇がこちらを向いている。
強烈な、生乾きの雑巾と、錆びた鉄の匂いが鼻を突いた。
黒いコートの人物は、ゆっくりと、しかし確実な足取りで拓也に近づいてくる。
「……来ないで」
拓也は悲鳴を上げ、回れ右をして全力で逃げ出した。
だが、どれだけ全力で走っても、背後から迫る「コツ……コツ……」という足音の距離が離れない。
いや、足音は背後から聞こえているのではない。
拓也自身の耳の奥、頭蓋骨のすぐ内側で鳴り響いている。
肺が焼け付くように痛い。
足がもつれそうになる。
その時、前方の壁に、見慣れた緑色の「非常口」のランプがぼんやりと光っているのが見えた。
非常階段への重い鉄の扉。
助かる。
ここから地上に出られる。
拓也は全身の力を振り絞り、扉の冷たいノブを両手で掴み、全体重をかけて押し開けた。
ギィィィ、と軋む音とともに、扉が開く。
拓也は扉の向こう側へと転がり込んだ。
だが、そこは非常階段でも、地上の雨の路上でもなかった。
「……え?」
拓也は床に這いつくばったまま、絶望に目を見開いた。
扉の向こうに広がっていたのは……。
今しがた必死に走り抜けてきたのと同じ、一直線に伸びる無機質なコンクリートの地下通路だった。
そして。
拓也から数メートル離れた前方の通路を。
疲れ切った様子で肩で息をしながら歩いている、スーツ姿の男の後ろ姿が見えた。
左腕には自動巻きの腕時計。
汗で背中に張り付いたカッターシャツ。
……数分前の『拓也自身』の後ろ姿だった。
拓也は自分が今、何を着ているのかに気づいた。
いつの間にか、季節外れの、分厚く長い「黒いコート」を羽織っていた。
前を歩く『拓也』が、何かの気配に気づいたように、ゆっくりとこちらを振り返ろうとしている。
拓也の口から、ヒューッ、という擦れた呼吸音が漏れた。
自分の足が、自分の意志とは無関係に、前を歩く『獲物』に向かって一歩を踏み出した。
果てのない地下迷宮で、永遠のループが完成した瞬間だった。




