第12話 音声入力
フリーランスのWebライターである翔一(28)にとって、最も仕事が捗るゴールデンタイムは深夜二時を過ぎてからだ。
外を走る車の音も途絶え、マンションの隣人たちの生活音も完全に消え去るこの時間帯、思考を邪魔するものは何もない。
翔一はキーボードを叩くのがあまり好きではなかった。
思考のスピードに指が追いつかないからだ。
代わりに彼が多用しているのが、スマートフォンの「音声入力」機能だった。
純正のメモアプリを開き、マイクのアイコンをタップする。
あとは、部屋の中をウロウロと歩き回りながら、頭に浮かんだ文章を独り言のように喋るだけ。
最近の音声認識AIは恐ろしく優秀で、多少の早口でも文脈を読み取り、漢字の変換まで完璧にこなしてくれる。
「現代社会におけるコミュニケーションの断絶は、皮肉にもSNSの普及によって加速した。マル、改行」
翔一が喋り終わると同時に、スマホの画面にスルスルと文字が打ち出されていく。
マグカップに残っていた冷めたコーヒーを一口飲み、喉を潤す。
「私たちは常に見えない誰かと繋がっているような錯覚に陥っているが、実際には……」
そこまで喋って、思考が少しだけ詰まった。
翔一は口を閉じ、言葉の続きを探すように天井を見上げた。
部屋の中には、加湿器の微かなモーター音だけが響いている。
五秒ほど沈黙。
視線をスマホの画面に戻した翔一は、かすかに眉をひそめた。
画面上のカーソルが、ピコピコと点滅しながら、勝手に前へ進んでいるのだ。
そして、翔一が何も喋っていないにもかかわらず、黒い文字が次々と画面に浮かび上がり始めた。
『彼は言葉に詰まり、天井を見上げた』
翔一の動きがピタリと止まった。
画面に打ち出されたその一文を、何度も目でなぞる。
「……は?」
なんだこれは。
独り言が漏れたが、マイクはその言葉を拾わなかった。
代わりに、画面にはさらに次の文章が、人間がタイピングしているような滑らかなスピードで打ち出されていった。
『そして今、彼は驚いたような顔でスマートフォンの画面を見つめている』
全身の毛穴が粟立ち、一気に心拍数が跳ね上がった。
誤変換ではない。
テレビの音を拾ったわけでもない。
今、この瞬間の翔一の行動を、リアルタイムで『実況』している。
翔一は息を殺し、スマホを持ったまま部屋の周囲を素早く見渡した。
八畳のワンルーム。
ベッド、デスク、そして備え付けのクローゼット。
当然だが、誰もいない。
玄関のドアには二重の鍵とチェーンがかかっている。
ここは三階で窓も閉め切っている。
だが、画面の文字は止まらない。
『彼は慌てて部屋の中を見渡した。誰もいないか確認しているようだ』
ぞくり、と背中に冷たい汗が伝った。
誰かが見ている?
この部屋のどこからか、あるいはスマホのカメラをハッキングして、翔一の一挙手一投足を観察し、それを音声入力アプリに直接流し込んでいる人間がいるのか?
スマホのカメラレンズを指で隠そうとした。
だが、指がレンズに触れる前に次の文字が表示された。
『カメラは関係ないよ。もっと近くにいるから』
指が、空中で硬直した。
近く? どこ?
恐怖で浅い呼吸を繰り返しながら、画面を見つめた。
部屋は完全な静寂に包まれている。
人間の息遣いも、衣擦れの音も聞こえない。
だが、スマホのマイクだけが、「誰か」の声を確かに拾っている。
翔一の耳には聞こえない、特殊な周波数の声なのか。
『彼は怯えている。可哀想に。でも、アプリを閉じたら怒るよ』
ホームボタンを押してアプリを強制終了させようとしていた親指を止めた。
見透かされている。
物理的な距離感がバグっている。
遠隔操作のハッカーではない。
この『言葉』を発している存在は、翔一のすぐ隣に立って、彼の画面を一緒に覗き込んでいるとしか思えない。
逃げ出したい。
スマホを投げ捨てて部屋から飛び出したい。
だが、金縛りに遭ったように足が動かなかった。
見えない強烈な「圧力」が、部屋の空気を重くドロドロとしたものに変え、翔一をその場に縫い付けていた。
『いい子だ。そのまま、前を見て』
命令だった。
翔一は、カチカチと歯の根を鳴らしながら、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先にあるのは、部屋の奥。
固く閉ざされた、木製のクローゼットの扉。
画面の中で、カーソルが滑り続ける。
『クローゼットの前に立って』
嫌だ。
行きたくない。
だが、翔一の意志とは裏腹に、足が勝手に一歩前へ出た。
まるで、見えない糸で手足を操り人形のように引っ張られている感覚。
左肩が異様に重く、冷たい。
そこに誰かが手を乗せて、背中を押しているような気がした。
ペタ、ペタと足音を鳴らし、翔一はクローゼットの前に立った。
喉がカラカラに乾き、息をするたびにヒューッという情けない音が漏れる。
スマホの画面が、視界の端で白く光っている。
『右手を伸ばして、ドアノブを掴んで』
翔一の右腕が、ギクシャクとした動きでゆっくりと持ち上がった。
冷たい金属のノブを握る。
手のひらが脂汗で濡れていて、滑りそうだった。
『開けて』
ゆっくりとノブを回し、扉を手前に引いた。
ギィィ……と、古い蝶番が嫌な音を立てる。
中は、コートやスーツが吊るされた暗がり。
何もいない。
翔一は、わずかに安堵の息を吐きかけた。
だが。
スマホの画面に、新しい文字が打ち出された。
『もっと下を見て』
翔一は、ゆっくりと視線を落とした。
吊るされたコートの裾のさらに下。
クローゼットの床部分。
そこに、暗闇と同化するようにうずくまっている「何か」がいた。
人間の形をした、黒い塊。
その塊が、ゆっくりと顔を上げた。
闇の中で、白く濁った両目だけが、翔一を見据えていた。
翔一の喉から、声にならない絶叫が漏れそうになった。
その時、スマホの画面に、最後の一文が打ち出された。
『やっと会えたね』
クローゼットの中の「何か」が、ゆっくりと腕を伸ばし、翔一の足首を冷たい手で掴んだ。




