第13話 宅配アプリ
IT企業でデバッガーとして働く誠(26)は、都内のオートロック付きデザイナーズマンションで一人暮らしをしている。
彼の仕事は、他人が書いたプログラムの粗を探し出し、想定外の挙動やエラーを徹底的に潰していくことだ。
毎日何万行というコードの羅列と睨み合い、少しのイレギュラーも許さない生活を続けているせいか、誠は実生活においても「予測不可能な人間の感情や行動」という変数を極端に嫌うようになっていた。
コンビニの店員の無愛想な態度、満員電車での見知らぬ人間との接触、隣人の出す生活音。
それらすべてが誠にとっては不快な「バグ」だった。
だからこそ、他者とのコミュニケーションを極限まで排除できるスマートフォンのフードデリバリーアプリは、誠にとって単なる便利なツールではなく、生活の精神的インフラそのものだった。
店員と愛想笑いを交わす必要もなく、支払いもクレジットカードで自動決済される。
ただ画面を数回タップするだけで、どんな悪天候の日でも、どんな深夜でも、自分の望む温かい食事が玄関先まで届く。
この洗練されたシステムは、誠に「この強固なコンクリートの部屋という安全地帯から一歩も出ずに、外の世界を完璧にコントロールしている」という、ある種の全能感を与えてくれていた。
その日は、朝から冷たい秋雨が、街を灰色に沈めるように降り続いていた。
日曜日。
一日中ベッドの上でノートパソコンを開き、仕事の残務処理をしていた誠は、夜の十時を過ぎてようやく強烈な胃の軋み――空腹を覚え、スマホの画面をタップしてデリバリーアプリを起動した。
雨の日の夜は配達員が捕まりにくく、配達料も割高になるが、誠にとって自ら傘を差して外の不快な空気に触れることに比べれば、数百円の追加出費など安いものだった。
脂っこいものが食べたかった。
誠は近所で人気の台湾まぜそばとトッピングの肉増しを注文し、受け取り方法を「置き配」に指定した。
配達員と顔を合わせる必要すらない、彼にとって最もストレスのない受け取り方法だ。
注文が確定すると、画面の地図上に、配達員の現在地を示す小さなバイクのアイコンがポツンと表示された。
仕事の手を止め、パソコンの横にスマホを置き、そのアイコンが地図上の道路をジグザグに進んでくるのを、ただぼんやりと眺めていた。
GPSでリアルタイムに動く青いアイコン。
雨の中、見知らぬ誰かが、自分の空腹を満たすためだけに、合羽を着て原付バイクを走らせている。
画面の中の小さなドットの動きを見ていると、自分が安全な特等席からチェスの駒を動かしているような、奇妙な安心感と優越感があった。
到着予定時刻まで、あと五分。
立ち上がり、冷蔵庫から黒烏龍茶を取り出してグラスに注いだ。
外は本降りの雨。
窓ガラスに叩きつけられる無数の水滴の音が、部屋の中の静寂と暖かさをより一層際立たせている。
あと三分。
二分。
スマホの画面上で、バイクのアイコンが、誠の住むマンションのブロックに到着し、ピタリと止まった。
画面上部のステータスバーが、「お店へ向かっています」から「マンションに到着しました」という表示に切り替わる。
誠はグラスをテーブルに置き、壁に設置されたインターホンのモニターに視線を移した。
ここはオートロックのマンションだ。
配達員が一階のエントランスのテンキーで誠の部屋番号「四〇四」を呼び出し、誠が室内から解錠ボタンを押して初めて、中に入ることができるシステムになっている。
……しかし、待てども待てども、インターホンの甲高いチャイムは鳴らなかった。
「遅いな。裏口にでも回って迷ってんのかな」
雨でスマホの画面が見えづらく、部屋番号の入力を間違えているのかもしれない。
あるいは、住所のピンズレで隣のマンションに入ろうとしているのか。
誠は軽く舌打ちをして、再びスマホのアプリ画面に目を落とした。
ステータスが、「部屋へ向かっています」に変わっていた。
誠は小さく眉をひそめ、スマホの画面に顔を近づけた。
エントランスの呼び出しは、確かに鳴っていない。
なのに、システム上は、配達員がすでにマンションの『内側』に入っていることになっている。
(……他の住人が帰ってきたタイミングで、一緒に入り込んだのか?)
いわゆる「共連れ」というやつだ。
配達員にとっては呼び出しの手間が省け、時間短縮になるのだろうが、住人としては防犯上、あまり気分の良いものではない。
誠は少しの不快感を覚えながら、地図上のアイコンを指でピンチアウトし、最大まで拡大した。
アプリの地図データは恐ろしく精巧で、マンションの建物の輪郭から、内部の構造までおおまかにトレースされている。
配達員を示す小さな青い丸のアイコンは、エントランスのあたりから、ゆっくりと、異様なほどゆっくりとしたスピードで、建物の奥にある「エレベーター」の位置へと移動していった。
誠の部屋は四階の、エレベーターから一番遠い突き当たりの角部屋だ。
アイコンはエレベーターの位置で三十秒ほど停止し、やがてスッと、四階のフロアへと移動した。
そこからは、さらに遅かった。
青い丸は、一直線に伸びる外廊下を、まるで一歩一歩、深い泥沼の中を足を引きずりながら歩くような、ねっとりとした粘り気のある速度で進んでくる。
四〇一号室。四〇二号室。
誠は、スマホの画面と、自室の玄関の頑丈な鉄製ドアを交互に見つめた。
外廊下はコンクリート打ちっぱなしで、足音がひどく響きやすい構造だ。
ましてや今日は大雨だ。
濡れたスニーカーのゴム底がこすれる音や、雨合羽が擦れる音、ビニール袋がカサカサと風に鳴る音が聞こえてもいいはずだ。
だが、ドアの向こうからは、ザアザアという単調な雨音以外の生活音、あるいは人間の発する物理的なノイズが、一切聞こえてこない。
四〇三号室。
青いアイコンは、誠の隣の部屋を通り過ぎた。
そして、誠の部屋である「四〇四号室」の真上で、ピタリと停止した。
直後、アプリの画面がパッと白く切り替わり、『配達が完了しました。商品をお受け取りください』という大きな文字が表示された。
同時に、置き配の証拠として配達員が撮影した写真が表示されるはずのスペースが、なぜか真っ黒な画像のまま読み込み中になっていた。
誠は息を呑んだ。
ドアの外からは、やはり何の音も聞こえなかった。
台湾まぜそばが入ったどんぶりを床に置くコツンという音も、スマホのシャッター音も、配達完了の処理をして立ち去る足音すらもない。
気味が悪い。完全に気配が消えている。
誠は抜き足差し足で玄関の三和土まで歩み寄り、冷たい鉄のドアに顔を近づけ、覗き穴にそっと右目を押し当てた。
魚眼レンズで丸く歪んだ外廊下の風景。
薄暗い蛍光灯の下、コンクリートの床が雨で黒く濡れているだけで、そこには誰もいなかった。
配達員の姿はおろか、玄関の床に置かれているはずの、白いビニール袋すら影も形もない。
「……は?」
誤配達か?
別の階の四〇四号室に置いたのか?
それとも、GPSの位置情報が大きくズレるバグが起きたのか。
誠の頭の中で、デバッガーとしての論理的な思考がフル回転し、エラーの原因を探ろうとする。
苛立ちと、説明のつかない不安が入り混じった感情で、誠はスマホの画面を強くタップし、詳細な地図画面へと戻した。
配達員の現在地を示す青いアイコンは、配達が完了すれば消滅するか、マンションから遠ざかっていくはずだ。
だが。
青いアイコンは、消えていなかった。
誠の背中に、バケツで冷や水をぶっかけられたような、強烈な悪寒が走った。
全身の産毛が逆立ち、胃がギュッと収縮する。
青いアイコンは、四〇四号室の「外廊下」から、わずかに移動していた。
それは。
四〇四号室の四角い枠の『内側』――つまり、誠の部屋の「玄関」の位置で、チカチカと不気味に、まるで心臓の鼓動のように点滅していたのだ。
誠は今、玄関のドアのすぐ内側に立っている。
アプリの表示が正しいのなら、その配達員は、今、誠と全く同じ場所、重なり合うようなゼロ距離の位置に立っていることになる。
呼吸が止まった。
オートロックをすり抜け、二重に施錠された分厚い鉄のドアを透過して、それが『入ってきた』。
論理が崩壊する。
そんなバグは現実には存在しない。
画面の中の青いアイコンが、ズズッ、と動いた。
玄関から、廊下へ。
そして、誠が背を向けている、リビングの方へ。
静まり返った部屋の中で、ピチャリ、という、ひどく生々しい音が聞こえた。
雨水が、靴底からフローリングの床に落ちる音。
そして、ひどく冷たい、土とカビの混ざったような、死臭にも似た強烈な悪臭が、リビングの奥からゆっくりと漂ってきた。
誠はスマホを握りしめたまま、凍りついたように動けなかった。
背後のリビングから、ズルリ、ズルリと、濡れた重たい肉塊を引きずるような足音が、こちらに向かって近づいてくる。
スマホの画面では、青いアイコンが、誠の背後数センチの位置まで迫っていた。




