第14話 ミラー
表参道のガラス張りのビルに入っている高級アパレルブランドで、ショップ店員として働く理沙(22)にとって、自分の「容姿」こそがこの競争社会における最大の武器であり、唯一にして絶対のアイデンティティだった。
毎朝きっちり二時間をかけて施す完璧なフルメイク、週に一度欠かさず通う美容院での高額なトリートメント、パーソナルジムで血の滲むような努力をして絞り込んだ無駄のない体型。
それらすべてを維持するためのコストと労力を、理沙は決して惜しまなかったし、怠ることもなかった。
美しくあることこそが、彼女にとって「世界を正しくコントロールしている」という実感そのものだったから。
店に来る客が自分を見る羨望の眼差し、すれ違う男たちが振り返る視線。
それらを浴びるたびに、理沙の自己肯定感は満たされていく。
そんな彼女の生活は、常に「鏡」という存在と共生していた。
朝起きて洗面台の巨大な鏡で肌の調子をミリ単位でチェックし、玄関の床から天井まである特注の全身鏡で今日のコーディネートのシルエットを確認する。
通勤電車の窓ガラスに映る自分の横顔の角度を盗み見し、職場の休憩時間にはスマホのインカメラを鏡代わりにして、リップの輪郭を少しの狂いもなく塗り直す。
理沙は、自分が「今、他人からどう見られているか」を常に自分自身の目で監視し、コントロールできていないと、強烈な不安とパニックに襲われる。
鏡の中に映る、欠点一つない完璧な自分――それだけが、彼女にとって唯一嘘をつかない、信頼できる「絶対的な現実」だった。
だが、その絶対不変のルールが足元から崩れ始めたのは、金曜日の深夜のことだった。
その日、理沙は職場の同僚たちとの月に一度の飲み会を終え、日付が変わる頃に一人暮らしのデザイナーズマンションへ帰宅した。
同僚たちの嫉妬やマウンティングが交差する酒の席は、神経をひどくすり減らす。
少しシャンパンを飲みすぎたせいか、頭の芯がぼんやりと熱く、ピンヒールを履いた足取りが鉛のように重かった。
分厚い玄関のドアの鍵を閉め、靴を乱暴に脱ぎ捨てると、理沙は深いため息をつきながら、玄関の壁に備え付けられた巨大な姿見の前に立った。
天井の冷たいLEDダウンライトが、鏡の中の理沙の全身を白日の下に照らし出す。
完璧だったはずのメイクは皮脂で少し崩れ、疲労とアルコールの色が目の下にうっすらと浮かんでいた。
理沙は自嘲気味に鼻で笑い、右肩にかけていたブランド物の重いレザートートバッグを、ドサリとフローリングの床に落とした。
その瞬間だった。
理沙の焦点の定まらない目が、鏡の中で一瞬だけ奇妙な動きをした『それ』を捉えた。
鏡の中の理沙が、床にバッグを落としたタイミング。
それが、現実の理沙がバッグを落とし、床にぶつかる鈍い音が鳴ってから、ほんの「コンマ五秒」ほど、遅れていた。
「……え?」
理沙は眉をひそめ、無意識に瞬きをした。
鏡の中の自分も、全く同じように眉をひそめ、パチリと瞬きをする。
気のせいだ。
アルコールで脳の処理速度が落ちていて、視覚情報にラグが生じたように錯覚しただけ。
あるいは、疲労が溜まっていて動体視力が落ちているのかも。
理屈で自分を納得させようとしたが、心臓の奥が氷の塊で撫でられたような、ひどく嫌な胸騒ぎが消えなかった。
理沙は自分の錯覚を証明するように、鏡に向かってゆっくりと右手を顔の横まで持ち上げてみた。
鏡の中の自分も、同時に右手を持ち上げる。
首を左に傾ける。
鏡の自分も右に傾く。
前髪を指で梳く。
鏡の自分も同じ動作をする。
動作は完全に同期している。
何の異常もない。
寸分の狂いもない。
「……酔ってるだけじゃん、バカみたい。早くメイク落として寝よ」
理沙は小さく毒づき、ヒールを揃えることもせずに、そのまま奥の洗面所へと向かった。
ホテルのように広々とした明るい洗面台の前に立ち、蛇口をひねる。
冷たい水が勢いよく流れ出し、白い陶器のボウルに跳ねる。
理沙は両手で水をすくい、バシャバシャと激しく顔を洗った。
冷たさが酔いを急速に醒ましていくのを感じながら、壁にかかったふわふわのタオルを手に取り、濡れた顔をゴシゴシと拭きながら顔を上げる。
そして、洗面台の鏡を見た。
「ヒッ……!」
理沙の喉の奥から、空気が引き裂かれるような短い悲鳴が漏れた。
鏡の中の理沙は、タオルで顔を拭いていなかった。
蛇口から出る水を両手ですくう動作のまま、前かがみになって、完全に静止していた。
時間にして、約一秒。
理沙がタオルで顔を拭き終わり、鏡を見た瞬間のその一秒間。
鏡の中の理沙は、まるで「ハッと思い出したかのように」ビクッと肩を震わせ、慌てて幻のタオルを顔に押し当てる動作をした。
完全に、動作が遅れてる。
映像のズレなどというチャチなものではない。
鏡の中の『あれ』は、理沙の動きを「真似ている、全く別の何か」。
全身の毛穴という毛穴が開き、アルコールの熱が一瞬にして凍りついた。
心臓が早鐘のように打ち始め、耳の奥でガンガンと鳴り響いた。
理沙は震える手で洗面台の冷たい縁を掴み、鏡の中の自分を凝視した。
鏡の自分も、タオルを下ろし、怯えた目でこちらを見つめ返している。
「誰……。あなた、誰なの……?」
震える唇から漏れた掠れ声は、洗面所に虚しく響いただけだった。
鏡の中の自分は、同じように唇を動かした。
だが、その声は聞こえない。
そして、唇の動きのタイミングは、やはり現実よりもわずかに、ほんのコンマ数秒だけ、遅れていた。
理沙は耐えられなくなり、逃げるように洗面所を飛び出した。
リビングのベッドに靴下のまま潜り込み、分厚い羽毛布団を頭までスッポリと被った。
ガタガタと全身の震えが止まらない。
過労だ。
ストレスだ。
睡眠不足が見せた幻覚だ。
そう思い込もうとしたが、鏡の中の『あれ』の、どこか作り物めいた、人間味のない不自然な目の動きが、まぶたの裏にこびりついて離れなかった。
翌朝。
土曜日。
悪夢のような浅い眠りから覚めた理沙は、重い頭を抱えてベッドからのろのろと起き上がった。
部屋の大きな窓からは明るい朝日が差し込み、昨夜の底知れぬ恐怖は少しだけ薄らいでいた。
明るい陽射しは、あらゆる怪異や妄想を消し去る力を持っているように感じた。
だが、理沙はどうしても洗面所や玄関の鏡の前に立つ気になれず、リビングのダイニングテーブルに座ったまま、スマホのインカメラを起動して、顔の状態を確認することにした。
デジタル画面を通せば、ただのピクセルの集合体だ。
直接の鏡よりは安全に思えた。
画面には、寝起きのすっぴんで、ひどく血色の悪い自分が映し出されている。
首を左右に動かす。
画面の自分も同時に動く。
瞬きをする。
同時に瞬きをする。
舌を出す。
画面の自分も舌を出す。
「……なんだ。やっぱり気のせいだったんじゃない。疲れてたんだ、私」
理沙は大きく息を吐き出し、胸をなでおろして安堵の笑みをこぼした。
その時。
スマホの画面の中の理沙は、笑っていなかった。
「……えっ?」
理沙の顔は、安堵で口角が上がり、確実に微笑んでいる。
しかし、画面の中の理沙は、真顔のまま、無表情でこちらをじっと見つめている。
ズレ、ではない。
明らかに、現実とは違う。
理沙が驚愕で目を見開き、息を呑むと、画面の中の理沙は、それを見て嘲笑うかのように、ゆっくりと、不気味なほど大きく口角を引き上げて「笑った」。
顔の筋肉が限界まで引き伸ばされたような、三日月型の異常な笑顔。
ヒィッ、と短い悲鳴を上げ、理沙はスマホをテーブルの向こう側へ力いっぱい投げ捨てた。
ガチャン、とスマホがフローリングに落ち、画面がクモの巣状に割れる嫌な音がした。
呼吸が早くなった。
肺に酸素がうまく入ってこない。
過呼吸になりかけていた。
見られている。
部屋中の鏡、ガラス、テレビの液晶、光を反射するすべてのものの中から、『あれ』が理沙を観察している。
理沙は狂乱したように立ち上がり、クローゼットからバスタオル、ブランケット、シーツを次々と引っ張り出した。
玄関の姿見に特大のバスタオルを被せ、上からガムテープでぐるぐる巻きにして固定する。
洗面所の鏡には、古い毛布をすっぽりと被せた。
テレビの黒い液晶画面には、ゴミ袋を切り裂いて何重にも貼り付けた。
窓の遮光カーテンを隙間なく固く閉め切り、部屋の中から光の反射をすべて物理的に遮断した。
薄暗いリビングの真ん中で、理沙は膝を抱えて床にうずくまった。
もう、どこにも自分が映る場所はない。
反射する面は一つもない。
これで安全。
見られずに済む。
あいつはもう出てこられない。
どれくらいの時間が経っただろうか。
部屋の中は完全な静寂に包まれ、加湿器のモーター音だけが単調に響いていた。
不意に、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
極度の緊張と恐怖で、胃液が逆流してきたのだ。
理沙は口元を押さえ、トイレへ駆け込んだ。
便器に顔を突っ込み、胃の中の黄色い液体をすべて吐き出す。
酸っぱい匂いと涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
ハァ、ハァと荒い息を吐きながら、フラフラと立ち上がり、横の洗面所へ手洗いに出た。
無意識のうちに、顔を洗おうとして洗面台の前に立つ。
洗面台の鏡には、理沙が先ほど被せた古い毛布が、すっぽりと覆い被さっている。
自分の顔は映らない。
安全だ。
理沙は蛇口をひねり、冷たい水で口をゆすいだ。
少しだけ冷静さを取り戻し、毛布のかかった鏡の前で深呼吸をする。
その時。
毛布の隙間、わずかに露出していた鏡の左下の端、ほんの数センチのガラス面。
理沙の『背後の風景』が、映り込んでいるのが見えた。
理沙は、背後を振り返る勇気がなかった。
ただ、その数センチの鏡の隙間を、凍りついたように見つめた。
鏡の中に映る、洗面所の入り口の暗がり。
そこに、理沙が一番お気に入りだったハイブランドの赤いワンピースを着て、完璧なメイクを施した『女』が立っていた。
理沙と全く同じ顔をしたその女は、鏡越しに理沙の顔を見つめ、口を限界まで大きく引き裂いて笑っている。
理沙の背中に、氷のように冷たく、ひどく骨張った手が置かれた。
『もういいよ』
背後から、理沙と全く同じ、しかしひどく湿った声が耳元で囁いた。
『ここから先は、あなたの代わり、私が生きてあげるから』
理沙が絶叫を上げる前に、冷たい両手が理沙の首に深く、力強く食い込んだ。




