第15話 終電
中堅の専門商社で営業課長を務める木村(40)にとって、自分の人生はすでに消化試合に入っているように感じられた。
職場では、実績を詰め寄る冷酷な上司と、権利ばかりを主張して働かない部下たちの間で完全に板挟みになっている。
帰宅しても、妻とは必要なことしか口をきかず、思春期の娘には汚いものを見るような目で見られ、狭いマンションの中で木村の居場所はどこにもなかった。
誰からも必要とされず、誰の記憶にも残らない。
ただの透明人間のように、会社と家を往復するだけの毎日だった。
そんな木村にとって、唯一心休まる時間と場所があるとすれば、それは「金曜日の終電」の車内だった。
都心からベッドタウンへ向かう私鉄の最終電車。
車内には、酒の酸っぱい匂いと、安物の居酒屋の油の匂い、そして強烈な疲労の匂いが充満している。
乗客の九割は、木村と同じようなスーツ姿のくたびれた中年男たち。
彼らは皆、座席に深くもたれかかり、だらしなく口を開けていびきをかくか、死んだ魚のような目でスマホの光を見つめている。
この空間において、木村は「その他大勢の透明人間の一人」として、完全に風景に溶け込むことができた。
家にも職場にも着きたくない木村にとって、終電という「移動し続ける密室」だけが、唯一のシェルターだった。
そのささやかな安息のルールが壊れ始めたのは、一ヶ月前の金曜日のことだった。
いつものように三両目の車両に乗り込み、隅の席に腰を下ろした木村は、向かいの七人掛けシートの端に座る一人の『女性』の存在に気づいた。
最初は、ただの偶然だと思った。
だが、翌週の金曜日も、その次の金曜日も、彼女は全く同じ車両の、全く同じ席に座っていた。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。
肩まで伸びた黒髪に、季節外れの薄手で白いカーディガンを羽織り、膝の上に黒いハンドバッグをきちんと揃えて置いている。
異常なのは、彼女の「姿勢」だった。
終電の車内は、疲労と睡魔の巣窟だ。
揺れる車内で、誰もが首をカクンカクンと折ったり、隣の人間に寄りかかったりしている。
しかし、その女性は違った。
背筋を定規のように真っ直ぐに伸ばし、両手を膝の上で重ねたまま、微動だにしない。
スマホを見るわけでもなく、本を読むわけでもなく、ただ前方の宙の一点を、焦点の合わない目で見つめ続けている。
木村は、週を追うごとに彼女の存在が気になって仕方なくなった。
金曜の終電という同じタイミング。
狂いなく同じ座席。
そして、生きている人間味の一切ない姿勢。
さらに奇妙なことがあった。
木村の降りる駅はこの私鉄の「終点」なのだが、木村が電車を降りる時、彼女はいつも座席に座ったままだった。
終点に着けば、車掌が車内を見回り、寝ている乗客を叩き起こして降ろすはずだ。
彼女は一体どこまで行くのだろうか。
折り返しの車庫にまで入っていくのだろうか。
そして、迎えた四週目の金曜日。
その日、職場で面倒なクレーム処理を押し付けられ、極限まで神経がすり減っていた。
アルコールも少し入っており、自暴自棄に近い精神状態だった。
終電の三両目。
木村が乗り込むと、やはり彼女は「いつもの席」に座っていた。
白いカーディガン、膝の上の黒いバッグ。
微動だにしない真っ直ぐな姿勢。
電車が走り出し、車内は単調なレール音と、酔っ払いのいびきに包まれる。
ガタン、ゴトンという揺れに合わせて、木村の頭の中で何かが軋むような音がした。
(……確かめてやる)
どうせ自分は透明人間だ。
失うものなど何もない。
木村は半ばヤケクソのような衝動に駆られ、立ち上がった。
揺れる車内を歩き、女性の真正面、わずか一メートルの距離に立つ。
近づくにつれて、車内の冷房の温度が数段下がったように感じられた。
薄暗い蛍光灯の下で、彼女の顔がハッキリと見える。
木村は、息を呑んだ。
肌は、陶器のように真っ白で、血の気が全くない。まるで蝋細工のようだった。
そして何より木村を恐怖させたのは、彼女の「目」だった。
大きく見開かれた両目は、表面が完全に乾ききっているように見えた。
瞳孔は真っ黒に開ききり、光の反射が一切ない。
彼女は、木村が目の前に立っても、視線を合わせようとしなかった。
いや、何も見ていないのだ。
木村は、顔から冷や汗が吹き出すのを感じながら、彼女の顔を凝視し続けた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
彼女は、ただの一度も『瞬き』をしなかった。
生理現象としてあり得ない。
これほど乾いた車内で、三十秒間も目を開けっ放しにしていれば、涙がにじみ、まぶたが閉じるはず。
彼女のまぶたは、接着剤で固定されたようにピクリとも動かなかった。
「……あの。大丈夫、ですか」
木村の口から、無意識のうちに声が漏れた。
反応はない。
呼吸をしているのかすら怪しい。
死んでいる?
木村の脳裏に、最悪の想像がよぎった。
座ったまま、何らかの原因で硬直して死んでいるのではないか。
その時、車内アナウンスが響いた。
『間もなく、終点、終点です。お忘れ物のないよう……』
電車が減速を始める。
木村はパニックに陥り、彼女から後ずさった。
「しゃ、車掌……車掌を呼ばないと……!」
木村は脱兎のごとく駆け出し、隣の車両へと繋がる重い貫通扉を開け、先頭車両の乗務員室へと走った。
終点に到着し、ドアが開く。
木村は乗務員室から出てきた若い車掌の腕を乱暴に掴んだ。
「三両目だ! 三両目の席に、女の人が座ってて……死んでるかもしれない! 瞬き一つしないんだ!」
「はあ? ちょっとお客さん、酔っ払ってるんですか? 離してくださいよ」
車掌はあからさまに迷惑そうな顔をして、木村の腕を振り払った。
「嘘じゃない! 早く来てくれ!」
木村は半狂乱になりながら、車掌を強引に引きずって三両目へと戻った。
寝過ごした乗客たちが、けだるそうにホームへと降りていく中、木村は彼女が座っていた席を指差した。
「そこだ! その席に……!」
木村の叫び声が、喉の奥で詰まった。
誰もいない……。
白いカーディガンの女性が座っていた座席には、誰もいなかった。
黒いハンドバッグも残されていない。
ただ、くたびれたえんじ色のモケット(座席の布地)が広がっているだけ。
「……誰もいないじゃないですか。お客さん、あんまりふざけたことしてると警察呼びますよ」
車掌は冷たく言い放ち、他の乗客の忘れ物確認へと戻っていった。
木村は、誰もいない座席の前に立ち尽くした。
幻覚だったのか?
自分がストレスでおかしくなってしまったのか?
だが、あの目の焦点の合わない狂気と、周囲の空気が凍りつくような冷たさは、絶対に幻覚などではなかった。
一週間後。
また金曜日がやってきた。
木村は、今週こそ早く帰ろうと思っていたが、結局部下のミスの尻拭いで終電に飛び込む羽目になった。
ホームを走り、発車ベルが鳴り響く中、滑り込むように乗ったのは、あの「三両目」だった。
激しい息切れを繰り返しながら、木村は車内を見渡した。
金曜の終電。
いつものように、疲労困憊したサラリーマンたちが座席を埋め尽くしている。
木村は、恐る恐る「あの席」へと視線を向けた。
……誰もいない。
白いカーディガンの女性の姿はない。
木村は心底ホッとして、深く息を吐き出した。
やはり、先週のあれは疲労が見せた幻覚だったのか。
自分は疲れているだけだ。
土日は少し長めに眠ろう……。
木村は、空いているその角の席へと歩を進めた。
だが、席まであと数メートルに近づいた時。
木村の足が、床に縫い付けられたようにピタリと止まった。
席には、誰も座っていなかった。
いや。
『人間』は、座っていなかった。
その座席には。
灰色の、安っぽいプラスチックで作られた、服を着ていない「マネキン」が、ちょこんと座らされていた。
「……なんだ、これ」
悪質なイタズラか?
誰かがゴミを置き去りにしたのか。
木村が訝しげに近づき、そのマネキンの『顔』を見た瞬間。
木村の心臓が、恐怖で停止した。
灰色のプラスチックの顔。
それは、どう見ても、木村自身の顔だった。
無精髭の生え方、目の下のたるみ、薄くなった頭頂部。
木村の顔を3Dプリンターでスキャンし、精密に、しかし生気を完全に抜いて作り上げたような、不気味なほど精巧な『木村の顔面』だった。
そのマネキンの顔は、恐怖で口を限界まで大きく引き裂き、声なき絶叫を上げているような表情で固まっていた。
「ヒッ……!!」
木村は悲鳴を上げ、後ずさりして床に尻餅をついた。
意味がわからない。
誰がこんなものを。何のために。
木村は助けを求めようと、周囲の乗客たちを見た。
寝ているサラリーマン、スマホを見ている若者。
誰でもいい、この異常な状況に気づいてくれ。
だが。
次の瞬間、木村は自らの目が狂ってしまったのだと錯覚した。
車内にいる、三十人近い乗客全員が。
寝ていたサラリーマンも、スマホを見ていた若者も、イヤホンをしていたOLも。
全員が、背筋を定規のように真っ直ぐに伸ばし、首だけをカクンと不自然な角度に曲げて、床に這いつくばる『木村』を一斉に見下ろしていたのだ。
三十人の乗客全員が、あの白いカーディガンの女性と全く同じ、限界まで見開かれた、瞬きを一切しない真っ黒な瞳で、木村を無表情に見つめている。
「あ……あぁっ……!」
木村は声にならない悲鳴を上げながら、後ずさりで逃げようとした。
だが、乗客たちは誰も動かない。
ただ、木村を監視するように、無数の冷たい視線を浴びせ続けるだけ。
電車が、ゴォォォという轟音を立てて、長い地下トンネルへと突入した。
窓の外の光が完全に消え、車内の白々しい蛍光灯だけが、木村と、無数の瞬きしない目玉たちを照らし出している。
木村は、自分がすでに「こちらの世界」の人間ではなくなってしまったことを悟った。
座席の上の「自分の顔をしたマネキン」を見つめたまま、ただ涙がこぼれた。




