第16話 写真
中堅のグラフィックデザイン事務所で働く健一(32)の唯一の趣味であり、心の拠り所は、古いフルマニュアルのフィルムカメラで写真を撮ることだった。
すべてがデジタル化され、スマートフォンを使えば誰でも何千枚という完璧な写真が、失敗のノーリスクで撮れてしまう現代。
そんな時代だからこそ、ピント合わせも絞りもシャッタースピードもすべて手動で行い、現像から上がるまでどんな画が撮れているか全くわからないフィルムカメラの不便さは、健一にとって愛おしく、贅沢なものだった。
現像から上がってきたネガフィルムから漂う、ツンとした薬品の匂い。
デジタルでは表現しきれない、フィルム特有のザラついた粒子感。
そして、時折入り込む意図しない光の漏れ(ライトリーク)や、わずかなピントの甘さ。
それらの『不完全さ』こそが、写真にノスタルジーと生々しさを与え、記録を「記憶」へと昇華させてくれるのだと信じていた。
十一月の、芯から冷えるような雨が降る日曜日の午後。
健一は自宅マンションの薄暗い作業部屋で、現像から上がってきたばかりの三本のネガフィルムを、専用の高解像度フィルムスキャナーでパソコンに取り込む作業を黙々とこなしていた。
部屋には、スキャナーがウィーンと鳴らす低いモーター音と、雨粒が窓ガラスを叩く音だけが響いている。
今回デジタルデータへと変換しているのは、先月の終わりに大学時代の友人たち四人で、山梨県の山奥にあるキャンプ場へ行った時の記録だった。
紅葉が色づき始めた山並み、火を起こそうと悪戦苦闘するバーベキューの煙、酒を飲んで赤ら顔で笑う友人たち。
パソコンの高解像度4Kモニターに次々と映し出される思い出の断片を見ながら、健一は淹れたてのブラックコーヒーを啜り、口元を綻ばせた。
みんな三十代になり、少しお腹が出てきたり髪が薄くなったりしているが、集まれば学生時代のノリのままだ。
作業は順調に進んでいた。
だが、二本目のロールの中盤。
キャンプ場の古びたバンガローの正面で撮った「集合写真」のデータが画面に表示された時、健一の笑顔はピタリと凍りついた。
それは、カメラを三脚に固定し、セルフタイマーを使って撮った記念の一枚だった。
画面の中央には、肩を組んで満面の笑みを浮かべる健一と友人たち四人が、見事にピントが合った状態で写っている。
違和感の正体は、彼らの笑顔の『背後』にあった。
バンガローの裏手。
鬱蒼と茂る、昼間でも薄暗い杉林の奥。
木々の黒々とした幹と幹の間にぽっかりと空いた空間の中に、「白い染み」のようなものが、ぼんやりと写り込んでいた。
健一はコーヒーカップをデスクに置き、マウスのホイールを勢いよく回して、その部分を限界まで拡大した。
フィルム特有の粗い粒子が引き伸ばされ、モザイクのようにカクカクとした輪郭になる。
だが、それでもはっきりとわかった。
それは、現像時の液ムラや、光の漏れ、あるいはレンズについた汚れなどではない。
明らかに「人間の形」をしていた。
異常なほど背が高く、細長い。
全身に黒いボロ布、あるいは雨合羽のようなものを纏った人物。
顔の部分だけが、まるでそこだけ長時間露光で激しくブレたかのように、白く、のっぺりと上に向かって引き伸ばされている。
目も鼻も口もない、ただの白い卵のような頭部。
いわゆる「心霊写真」というやつだった。
健一の背筋を、巨大なナメクジが這い上がるような、ひどく冷たく粘り気のある悪寒が駆け抜けた。
テレビのオカルト番組やネットの掲示板で見るような、チープで作り物めいたものではない。
自分がシャッターを切り、友人たちが心底楽しそうに笑っているそのすぐ背後の暗がりに、こんな異質で理解不能なものが確かに立っていたという生々しい事実が、健一の胃を気持ち悪くかき回した。
(……いや、落ち着け。パレイドリア現象だ。ただの木の影と、立ち込めていた霧が偶然重なって、人間の形に見えているだけだ)
健一は必死に論理的な解釈を探した。
人間の脳は、三つの点があれば顔と認識してしまう錯覚機能を持っている。
シミュラクラ現象とも言う。
これも絶対にその類に違いない。
光と影の悪戯だ。
健一は深く息を吐き出し、強張った肩の力を抜いて、次のコマのデータをスキャンした。
先ほどの集合写真の、およそ十秒後に撮られた二枚目の写真。
セルフタイマーの設定を間違えて、連続でシャッターが切れてしまった時のものだった。
プログレスバーが満タンになり、画面に二枚目の画像が表示される。
友人たちのポーズは少し崩れ、「おい、まだ撮るのかよ」と笑い声が聞こえてきそうな、リラックスした自然な表情になっている。
健一は、祈るような気持ちで、マウスのカーソルを背後の杉林へと持っていき、画像を拡大した。
マウスを持つ手が、カタカタと震え出した。
白くブレたあの『人影』は、まだそこにいた。
いや。同じ場所にいたのではない。
一枚目の写真よりも、明らかにカメラに向かって『近づいて』いたのだ。
杉林の奥深くにあったはずの白い顔が、今はバンガローの壁際、友人たちの背後わずか三メートルほどの位置まで迫っている。
距離が近くなったことで、輪郭が少しだけ鮮明になり、黒いボロ布だと思っていたものが、雨水でずぶ濡れになり、裾がボロボロに引き裂かれた季節外れの黒いロングコートであることがわかった。
そして、白くブレた顔。
よく見ると、ブレているのではない。
首が、左肩に向かってあり得ない角度――ほぼ直角に折れ曲がっているせいで、顔の形が歪んで、引き伸ばされたように見えていただけなのだ。
「……嘘だろ、おい」
健一は呻き声を上げ、キャスター付きの椅子から立ち上がった。
光の加減や錯覚ではない。
これは、十秒の間に物理的に距離を詰めてきた「何か」だ。
写真に写っている友人たちは全く気づいていない。
カメラに向かって無防備な笑顔を作っている彼らのすぐ背後に、首の折れた黒いコートの女が、足音一つ立てずに忍び寄っていた。
健一はパニックになりながら、スキャナーにセットされたネガフィルムを次々と送り、三枚目のデータをスキャンした。
スキャナーの低いモーター音が、今は死刑宣告のカウントダウンのように恐ろしく、耳障りに感じられた。
画像が表示される。
健一は、自分の喉からヒュッと空気が漏れる音を聞いた。
三枚目の写真。
それは、健一たち四人の顔がどアップで写っているだけの写真だった。
……違う。
四人の肩と肩の隙間。
ピントのボケた背景ではない。
カメラのレンズのすぐ目の前、健一自身の顔の真横。
首を直角に曲げた女の白い顔が、画角を覆い尽くすほどの超どアップで写り込んでいた。
白目のない、墨汁のように真っ黒に塗りつぶされた双眸が、レンズを飛び越えて、画面を見ている今の健一を真っ直ぐに見据えている。
健一はマウスを力任せに投げ出し、壁際まで後ずさった。
マウスが床に落ちて割れる音がした。
呼吸が荒くなる。
部屋の空気が、急激に、冷蔵庫の中に閉じ込められたように冷え込んでいるように思えた。
キャンプ場の写真は、これで終わり。
次のコマからは、キャンプから帰ってきた後、残りのフィルムを使い切るために、自宅のアパートで適当に日常風景を撮った写真のはず。
健一は震える足を引きずり、パソコンの前に戻った。
確かめなければならない。
あいつは、キャンプ場に置いてきたのか。
それとも。
四枚目のデータを取り込む。
表示されたのは、健一のアパートの玄関のドアの写真だった。
ドアチェーンがかかっている。
そのチェーンの隙間、ドアスコープの下あたりに。
首の折れた女が、玄関の『内側』に立っていた。
「ヒッ……!」
健一は両手で頭を抱えた。
ついてきている。
あいつは、健一と一緒にこのアパートまでついてきていた。
五枚目をスキャンする。
廊下からキッチンへ向かうアングルの写真。
女は、キッチンの換気扇の下に立っていた。
黒いコートから滴る水が、フローリングを黒く濡らしているのがわかる。
六枚目。
洗面所の鏡越しに撮った写真。
女は、健一の背後、バスルームのすりガラスの向こう側に立っていた。
七枚目、八枚目。
スキャンを進めるごとに、女はアパートの中を移動し、健一の生活空間を侵食してきていた。
そして。
最後の一枚。
フィルムの三十六枚目。
それは、昨日、健一が新しいレンズのテストのために、自分の座っている作業部屋のデスク周りを適当に撮った写真だった。
画面に、ジワジワと画像が浮かび上がる。
散らかったデスク。
灰皿。
コーヒーカップ。
そして、健一が今座っているこの椅子の、すぐ斜め後ろの空間。
女が、立っていた。
黒い濡れたコートから、腐った土と錆びた鉄のような強烈な悪臭が、画像からではなく、鼻腔をダイレクトに突き刺した。
全身の血が凍りついた。
これは、写真の中だけの存在ではない。
過去の記録でもない。
人間の肉眼では捉えられないだけで、あいつは常に健一の背後に存在し続けていた。
シャッターが開く、ほんの数百分の一秒の瞬間にしか、その姿をこの世界に定着させない怪異。
部屋の空調のモーター音が消えた。
外の雨音も消えた。
完全な静寂。
健一の右耳のすぐ横で、ピチャリ、と水滴がフローリングに落ちる音がした。
振り返ってはいけない。
絶対に。
だが、健一の手は、まるで何かに操られるように、デスクの上に置いてあったデジタル一眼レフカメラを掴んでいた。
震える指で電源を入れ、フラッシュを強制発光に設定する。
腕を後ろに回し、カメラのレンズを自分の背後に向けた。
肉眼では見えない。
液晶モニターにも暗闇しか映らない。
だが、このシャッターを切れば。フラッシュの強烈な光がすべてを暴き出せば。
嗚咽を漏らしながら、シャッターボタンを深く押し込んだ。
パシャッ!!
強烈な閃光が、部屋の暗闇を白昼のように照らし出した。
そのコンマ一秒の白飛びした世界の中。
健一の右肩に顎を乗せるようにして、首を直角に曲げた白い顔の女が、限界まで口を引き裂いて笑っているのがハッキリと見えた。
フラッシュの光が消え、再び部屋が暗闇に包まれた瞬間。
氷のように冷たく、骨張った濡れた両腕が、背後から健一の首に、ゆっくりと巻き付いた。




