第17話 フリマアプリ
都内の中堅広告代理店で働く美咲(27)の最大のストレス解消法は、深夜のネットショッピングだった。
日中の過酷な労働、理不尽なクライアントからの要求、職場のドロドロとした人間関係。
それらすべての煩わしさを忘れるために、スマホの画面に並ぶ美しい洋服やきらびやかなブランドバッグを次々とカートに入れ、顔認証で一瞬のうちに決済ボタンを押す。
その瞬間に脳内にドバッと分泌されるアドレナリンだけが、彼女のささやかな精神安定剤だった。
しかし、当然ながらその代償として、美咲の一人暮らしのワンルームマンションは、タグがついたまま着きれない服や、一度しか使っていないバッグ、履き心地の悪いヒールなどで常に溢れかえり、足の踏み場もなくなりつつあった。
そこで美咲がここ最近重宝していたのが、大手の「フリマアプリ」だった。
数回着ただけの服や、衝動買いして後悔した小物をスマホで撮影し、出品する。
売れたら近所のコンビニに持ち込んで、QRコードをかざし、匿名配送で送るだけだ。
本名も住所も相手に知られることは絶対にないし、面倒な対面でのやり取りも一切ない。
「売って現金化すれば、実質タダみたいなものだし」
そう都合よく自分を納得させながら、美咲は買い物の罪悪感をフリマアプリで相殺する日々を送っていた。
自分の不用品がお金に変わり、見知らぬ誰かの手に渡っていくプロセスは、部屋が片付くという物理的なスッキリ感以上の、ある種のデトックス効果があった。
システムが仲介してくれる、清潔で安全な人間関係。
それが美咲には心地よかった。
その土曜日の午後、美咲は久しぶりに大々的な「断捨離」を決行していた。
クローゼットの奥から引っ張り出したのは、一年前に買ったものの着る機会がなかったワインレッドのワンピース、少し傷のついたブランド物のショルダーバッグ、そして元彼から貰ってずっと放置していたシルバーのネックレス。
美咲はフローリングの床に白いラグマットを丁寧に敷き、窓からの自然光が一番綺麗に入るように角度を調整しながら、スマホのカメラでそれらのアイテムを撮影していった。
傷や汚れの箇所もアップで正直に撮影し、魅力的な紹介文を添えて、三つの商品を立て続けに出品する。
あとは売れるのを待つだけ。
美咲は大きく伸びをして、キッチンでコーヒーを淹れようと立ち上がった。
その時。
スマホが小気味良い通知音を連続で鳴らした。
『商品が購入されました! 発送の準備をしましょう』
画面を見ると、さっき出品したばかりの「ブランド物のショルダーバッグ」が即座に売れていた。
「えっ、早い。ラッキー」
美咲はコーヒーのお湯を沸かすのも忘れ、スマホの画面に見入った。
購入者のプロフィールを確認する。
ユーザー名は「User9934」。
プロフィール画像は初期設定のグレーの人型のままで、自己紹介文は白紙。
過去の取引評価は「ゼロ」だった。
いわゆる新規ユーザーか、あるいは捨て垢だ。
少しだけ嫌な予感がしたが、フリマアプリではよくあること。
システム上、クレジットカードでの支払いはすでに完了しており、美咲が金銭的な損をすることはない。
気にせず梱包の準備をしようとした時、再びピコンと通知音が鳴った。
『商品が購入されました!』
今度は、ワインレッドのワンピースだった。
購入者は、またしても「User9934」。
そして一分後、三度目の通知音が鳴り、残っていたシルバーのネックレスも売れた。
購入者はすべて同一人物、「User9934」だった。
美咲の総額五万円近い不用品が、出品からわずか十分で、一人の正体不明のユーザーに買い占められた。
「……なんか、ちょっと気持ち悪いな。転売ヤー?」
転売目的の業者だろうか。
だとしても、これほど手際よく、全くジャンルの違う三つの商品を即決で買っていくのは不自然だった。
しかし、売れてしまった以上、発送しないわけにはいかない。
無言キャンセルでペナルティを食らうのはごめんだ。
美咲は三つの商品をそれぞれ丁寧に緩衝材で包み、段ボールに詰め、宛名が暗号化されたQRコードを生成すると、その日のうちに近所のコンビニからすべて発送した。
匿名配送だから、相手に自分の住所がバレることは絶対にない。
バーコードを読み取る店員も住所を知らない。
完璧なシステム。
そう自分に言い聞かせ、美咲はその奇妙な購入者のことは忘れることにした。
二日後の月曜日の夜。
仕事から疲れ果てて帰宅した美咲のスマホに、『購入者が商品を受け取り、受取評価を行いました』という通知が届いた。
アプリを開くと、三つの商品すべてに、最高評価の「星5つ」がつけられていた。
コメント欄は真っ白で何も書かれていなかった。
無言の最高評価。
美咲も定型文の感謝のコメントを返し、取引は無事に完了した。
売上金がアカウントにチャージされ、美咲は完全に安心しきっていた。
それから、ちょうど一週間が経過した日曜日の夜。
美咲はベッドに寝転がりながら、またいつものようにフリマアプリのタイムラインを眺めていた。
これからの季節に着られそうな、ヴィンテージのトレンチコートを探していた。
画面をスクロールしていく手が、ふと、ピタリと止まった。
タイムラインに、見覚えのある商品が流れてきた。
美咲が一週間前に売った、あの「ブランド物のショルダーバッグ」。
傷の位置も、ハンドルのわずかな擦れ具合も、間違いなく美咲のものだった。
「……やっぱり転売ヤーだったんだ。ムカつく。私が売った値段より一万円も高いし」
安く買って高く売る。
フリマアプリではよくあるセコい手口。
美咲は腹立たしさを感じながら、どんな説明文を書いているのか確認するために、その商品ページをタップした。
しかし、価格や文章を見るよりも先に、美咲の視線は『商品の写真』に釘付けになった。
美咲が出品した時、写真は白いラグマットの上で撮ったものを使った。
転売するなら、手間を省くためにその写真をそのまま無断転載するのが普通だ。
だが、そのページに掲載されている写真は、明らかに新たに撮り直されたものだった。
ショルダーバッグが置かれているのは、使い込まれたウォールナット材の『ダイニングテーブル』の上。
そのテーブルには、端の方に、アイロンの熱で焦がしてしまった半月型のシミがある。
そしてバッグの横には、美咲が愛用しているお気に入りの北欧ブランドのマグカップが、見切れて写り込んでいる。
美咲は、スマホを持つ手をガタガタと震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。
自分の部屋のリビング。
そこにある、ウォールナット材のダイニングテーブル。
アイロンの焦げ跡。
出しっぱなしになっている北欧ブランドのマグカップ。
写真の背景と、現実の風景が、完全に一致していた。
「……え?」
意味がわからない。
この写真は、間違いなく『今の美咲の部屋』で撮られたものだ。
だが、美咲はテーブルの上でこのバッグの写真を撮ったことなど一度もない。
出品した時は、確実に床のラグマットの上だった。
出品者の名前を確認する。
「User9934」
あの時の購入者。
美咲はパニックになりながら、震える指で「User9934」の出品リストを開いた。
そこには、三つの商品が並んでいた。
二つ目。
ワインレッドのワンピース。
サムネイル写真をタップする。
ワンピースは、白いクローゼットの扉にハンガーで掛けられている。
その背景には、サーモンピンクのベッドシーツと、乱れた掛け布団の端が写り込んでいる。
美咲のクローゼットと、今美咲が寝転がっているこのベッドだ。
三つ目。
シルバーのネックレス。
写真は、マクロ撮影に近いドアップだった。
ネックレスが置かれているのは、真っ白な枕の上。
枕には、長い黒髪が数本落ちている。
そして、写真の右上、ピントがボケた背景の暗がりに。
仰向けに寝ている『人間の顔』の下半分が、わずかに写り込んでいた。
よだれを垂らしそうになって眠る、美咲自身の、無防備な寝顔だった。
「ヒィッ……!!」
美咲はスマホをベッドに放り投げ、壁際まで後ずさった。
全身の血が凍りつき、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく暴れた。
胃液が逆流しそうだ。
匿名配送。
相手に住所はバレない。
システムは完璧だ。
それは正しい。
バレていなかった。
相手は、住所を知ってここに来たのではない。
あの時、美咲が近所のコンビニから段ボールを発送した直後から。
いや、もしかするともっと前から。
『それ』は、すでにこの部屋の中にいて、美咲と一緒に生活していた。
だから、匿名配送の荷物が届くはずがない。
商品は、ずっとこの部屋の中にあった。
コンビニの店員はただの空の箱を受け取っただけなのかもしれない。
『それ』は、美咲が寝静まった深夜に、美咲の部屋の中で商品を並べ、美咲のスマホかカメラを使って写真を撮り、フリマアプリに再出品して遊んでいた。
出品された時間を確認すると、どれも「午前三時十七分」だった。
美咲が完全に熟睡している時間帯。
部屋の空気が、急激に冷たく、生臭いものに変わっていくのを感じた。
腐った泥と、下水と、古い血が混ざったような強烈な悪臭。
美咲は震える手で、ベッドに放り投げたスマホを再び手に取った。
警察に電話しなければ。
今すぐここから逃げなければ。
スマホの画面をオンにする。
フリマアプリの画面が開いたままだ。
その時。
画面の上部に、新しい通知がポップアップした。
『User9934が新しい商品を出品しました(一秒前)』
美咲の呼吸が止まった。
指が勝手に、その通知をタップしていた。
新しい出品ページが開く。
商品名は「中古のスマートフォン」。
価格は、三百円。
そして、掲載されている一枚の写真。
それは、高い位置から見下ろすようなアングルで撮られていた。
写真に写っていたのは、壁際に追い詰められ、パニックに陥った表情で自分のスマートフォンを両手で握りしめている、美咲自身の姿だった。
部屋の背景、美咲が今着ているスウェットの服、乱れた髪。
すべてが、今の状況と完全に一致している。
美咲は、ゆっくりと、錆びついた機械のようにギシギシと首を動かし、自分の頭上を見上げた。
天井の隅。
エアコンの送風口のすぐ横の暗がりに。
長い黒髪をだらりと垂らし、首を直角に曲げた青白い顔の女が、四つん這いで天井に張り付きながら、片手に握った黒いスマートフォンをこちらに向けていた。




