第18話 着信履歴
中堅の不動産会社で法人向けの営業マンとして働く修平(30)にとって、スマートフォンは自らの命を削り、会社と自分を繋ぐ「冷たい首輪」のようなものだった。
神経質な顧客からの理不尽なクレーム、現場のトラブル、直属の上司からの思いつきの呼び出し。
深夜や休日、お盆や正月であっても関係なく鳴り響く着信音。
修平は数年前から、ポケットの中でスマホのバイブレーションが鳴るたびに、心臓が物理的に握り潰されるような強烈な動悸と、胃酸が逆流してくるような激しい吐き気を覚えるようになっていた。
いわゆる着信恐怖症に近い状態。
ひどい時には、スマホが鳴っていないのに太ももがブルブルと震えているように感じる「ファントム・バイブレーション・シンドローム(幻想振動症候群)」に一日に何度も襲われ、その度に怯えながら画面を確認する始末だった。
それでも、営業という仕事柄、電源を切ることなど絶対に許されない。
彼は毎晩、いつ鳴るかわからない黒い板を枕元のすぐ横に置き、少しの物音で目が覚めてしまう浅い眠りを繰り返す生活を送っていた。
修平にとって、朝起きて真っ先に確認する「着信履歴」の画面は、その日一日の自分の運命を決めるロシアンルーレットだった。
赤い文字で「不在着信」の表示があれば、そしてそれが気難しいクライアントからのものであれば、それが地獄の一日の始まりを意味するからだ。
その土曜日の朝、修平は酷い二日酔いの頭痛と、喉のひどい渇きで目を覚ました。
昨晩は花の金曜日だった。
一週間の過酷なノルマとストレス、媚びへつらうだけの愛想笑いをアルコールで強制的に麻痺させるため、深夜まで一人で安酒をあおり、泥酔して帰宅した。
服も着替えず、スーツのスラックスを履いたままベッドに倒れ込んでいた。
ひどく乾燥した口の中を舌で舐め回しながら、修平は鉛のように重い腕を伸ばし、枕元に裏返して置いてあったスマホを手に取った。
重い指先でロック画面をタップして点灯させる。
時刻は午前十時半を回っていた。
土曜日のこの時間なら、よほどのトラブルがない限り仕事の連絡は来ないはずだ。
しかし、画面の中央には、見慣れた、しかし最も見たくないポップアップ通知が表示されていた。
『不在着信 1件』
「……うわ、最悪だ。誰だよ土曜の朝から」
クレームの電話か。
それとも上司の気まぐれな呼び出しか。
修平は大きくため息をつき、憂鬱な気分で通話アプリを開き、赤い丸がついている「着信履歴」のタブをタップした。
表示された履歴の最上段。
一番新しい着信の記録。
そこには、クライアントの名前でも、上司の名前でもなく、ただ十一桁の電話番号だけがハイフン付きで表示されていた。
「……誰だこれ。登録してない番号?」
修平は目を細めた。
だが、その数字の羅列を見つめているうちに、修平の頭の中のアルコールの霞が、スーッと引いていき、背中に嫌な冷や汗がにじんでくる感覚があった。
見覚えがある、どころの騒ぎではない。
その「090」から始まる電話番号は、修平が仕事でもプライベートでも使っている、『修平自身のスマートフォン』の電話番号と、一文字の狂いもなく全く同じだった。
「は……? なんで自分の番号から?」
着信があった時刻は、昨夜――というか今日の未明、『午前三時十七分』となっていた。
どういうことだ。
自分のスマホから、自分のスマホに電話がかかってくることなどあり得るのか?
着信転送の設定ミスか?
いや、そんな設定はいじっていない。
修平は慌ててブラウザを開き、「自分の番号から着信」と検索した。
最近ニュースでよく聞く、海外の詐欺グループが発信元番号を偽装する「スプーフィング(なりすまし)」という手口があるらしい。
知恵袋やSNSの書き込みを見ると、「無視すれば問題ない」と書かれていた。
修平は少しだけ安堵の息を吐き、ベッドの上に上半身を起こした。
ズキズキと痛む頭を片手で押さえる。
詐欺だとしても、なぜわざわざ本人の番号を偽装するのか。
全く意味がわからないが、システム上のエラーか何かだろう。
そう自分を納得させようとした修平だったが、ふと嫌な胸騒ぎを覚えた。
昨夜、泥酔した自分が、無意識のうちに誰かに迷惑な電話をかけまくっていなかっただろうか。
上司に暴言を吐く電話をかけていたら、月曜日にはクビかもしれない。
それを確認するために、修平は画面をスワイプし、「発信履歴」のタブへと切り替えた。
画面が表示された瞬間。
修平の全身の毛穴が粟立ち、指先が一気に氷のように冷たくなった。
「……なんだ、これ。嘘だろ」
発信履歴の画面が、異様な状態になっていた。
午前二時ちょうどから、午前三時十五分までの間。
およそ一分間隔で、ずらりと並んだ五十件以上の発信記録。
そのすべての発信先が、着信履歴に残っていたのと同じ、『修平自身の電話番号』だった。
修平が泥酔して気を失っていた深夜の間に。
このスマホは、一分に一回のペースで、狂ったように自分自身に対して電話をかけ続けていた。
五十回も。
通話時間は、すべて「〇秒」と記録されている。
当然だ。
自分の番号にかけても通じるはずがない。
通常なら「ツーツー」と話し中になるか、即座に切断される仕様になっている。
誰がこんなことを?
いや、部屋には自分一人しかいない。
玄関のドアチェーンはかかっているのを確認した。
自分が寝ぼけて操作したのか?
五十回も、一分おきに正確に?
修平は震える親指で、画面を下へスクロールし、異常な発信履歴の最後――つまり、午前三時十六分の記録を見た。
そこにあった記録だけが、他の「〇秒」とは異なっていた。
『発信:自分の番号 午前三時十六分 通話時間:四十五秒』
繋がっている。
自分のスマホから自分のスマホに発信し、それが『何者か』に繋がり、四十五秒間も通話状態になっていた。
「あり得ない……絶対にあり得ない。バグだ、絶対に端末のバグだ」
修平はパニックになり、スマホをベッドに放り投げようとした。
だが、その時、画面の右上に小さな赤いアイコンが点灯しているのに気づいた。
『留守番電話メッセージが1件あります』
午前三時十七分の不在着信。
その直後に、相手――つまり「自分自身の番号」は、留守番電話センターにアクセスし、メッセージを残していた。
聞きたくない。
聞いてはいけない。
本能が強烈な警鐘を鳴らし、今すぐスマホを窓から投げ捨てろと叫んでいた。
だが、見えない恐怖から逃れるには、自分の身に何が起きているのかを知るしかなかった。
修平はゴクリと唾を飲み込み、震える指で留守番電話の再生ボタンをタップした。
スピーカーから、ザァァ……という微かなホワイトノイズが流れ始めた。
修平は息を殺し、耳をすませた。
五秒ほどの沈黙。
やがて、スピーカーから聞こえてきたのは。
『……グゥゥ……スゥゥ……』
人間の、低く、重い寝息の音だった。
修平は、その寝息のリズムと、鼻の奥が少し鳴るような独特の癖に、ひどく聞き覚えがあった。
間違いない。
修平自身のいびきだ。
録音されているのは、修平が深い眠りに落ちている時の音だった。
そして、修平はさらなる恐怖に気づいた。
いびきの背後で、遠くの方から「カラン……」と空き缶が風で転がるような音が聞こえた。
それは、修平のマンションのすぐ横を通る県道で、昨夜確かに聞いた音と同じだった。
これは、昨夜、この部屋で録音されたものだ。
だが、スマホのマイクは、口元の音だけを拾っているわけではなかった。
『ズチャ……ネチャ……ペチャリ……』
修平のいびきのすぐ裏側で。
何かが、濡れた生肉を咀嚼しているような、ひどく水気を含んだ生々しい音が聞こえてきた。
その「ネチャ」という音は、明らかにスマホのマイクの『ゼロ距離』で鳴っていた。
マイクの穴を舌で直接舐め回しているような、鼓膜にへばりつく音。
つまり。
昨夜、修平が泥酔してベッドで無防備にいびきをかいて眠っていた時。
修平のすぐ枕元に『何か』が立っていた。
その『何か』は、修平のスマホを手に取り、修平の寝顔を至近距離で見下ろしながら、一分間に一回、狂ったように自分自身の番号に発信ボタンを押し続けていた。
そして、なぜか通話が繋がった四十五秒の後、留守番電話に自分の気味の悪い咀嚼音と、修平の寝息をわざわざ録音して残していった。
『……みぃ……つぅ……けたぁ……』
留守番電話の最後の三秒。
人間の声帯を無理やり引き伸ばして、水の中で喋っているような、低く、湿ったくぐもった声が、マイクを舐めるような距離で囁いた。
ピッ。
電子音が鳴り、メッセージの再生が自動的に終了した。
修平はスマホを握りしめたまま、ベッドの上で石のように固まっていた。
背中を大量の冷や汗が流れ落ち、着替えていないカッターシャツがじっとりと肌に張り付いている。
部屋の中は、完全な静寂に包まれていた。
明るい土曜日の午前。
窓のカーテンの隙間からは外の陽射しが入り、車の音が微かに聞こえる。
修平の心は、完全な暗闇の密室に閉じ込められていた。
逃げなければ。
今すぐこの部屋を出て、人がいる明るい場所へ行かなければ。
修平がベッドから跳ね起きようと、足に力を入れた瞬間だった。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
手の中のスマホが、突然、狂ったような激しいバイブレーションと共に鳴り響いた。
着信音。
ファントム・バイブレーションではない。
物理的な激しい振動が手のひらを叩いている。
修平は悲鳴を上げそうになりながら、画面を見た。
黒い背景に、白い文字で、発信元の番号が表示されている。
『着信:自分の番号』
リアルタイムの着信。
今、この瞬間。
あり得ない。
スマホは今、修平の手の中にある。
発信などしていない。
ブーッ、ブーッ。
黒い板が、手の中でまるで生き物のように蠢き、修平に電話に出ることを促している。
修平の親指が、自分の意志とは無関係に、金縛りにあったように緑色の通話ボタンへと吸い寄せられていった。
ピ。
通話が、繋がった。
修平は、ガタガタと震える手で、スマホをゆっくりと右耳に押し当てた。
スピーカーから聞こえてきたのは、あの留守番電話と同じ。
『ズチャ……ネチャ……』
ひどく濡れた、何かを舐め回すような生々しい咀嚼音だった。
修平は恐怖で目を限界まで見開き、部屋の中を狂ったように見回した。
誰もいない。
誰もいないはずだ。
だが。
修平は、絶望的な事実に気づいてしまった。
右耳に押し当てたスマホのスピーカーから聞こえる『ズチャ……』という咀嚼音。
それと、全く同じ音が。
ほんのコンマ数秒だけ「早く」。
修平が今座っているベッドの、マットレスの『真下』の暗がりから、ダイレクトに響いてきていることに。




