第19話 忘れられた席
中堅商社の経理部で長年働く浩二(45)は、三ヶ月前に大々的に導入されたオフィスの「フリーアドレス制」を心の底から憎んでいた。
部署間の垣根をなくし、社員間のコミュニケーション活性化を図るという経営陣の薄っぺらい名目で、長年慣れ親しんだ固定のパーテーション付きデスクが完全に撤廃された。
毎朝出社した順に、カフェのようなオシャレな大テーブルや、窓際のカウンター席など、好きな空き席を選んで座るというシステム。
個人の荷物はすべて入り口の小さなロッカーに押し込まれ、社員たちは毎朝、ノートパソコンと文房具が入った半透明のプラスチックバスケットを抱えて、まるで遊牧民のようにフロアを放浪しなければならない。
十年以上、窓際の隅にある自分専用のデスクに書類を山のよう積み上げ、そこを誰にも干渉されない自分だけの「城」として築き上げてきた浩二にとって、毎朝自分の居場所を探さなければならないこのシステムは、とてつもない精神的苦痛だった。
若手社員たちはコーヒーサーバーの周りに集まり、流行りのドラマの話などをしながら和気あいあいと仕事をしているが、浩二のような無口で不器用な中年社員は完全に浮いてしまう。
自分が会社という巨大な組織の中で、どこにも根を下ろすことができない「交換可能な、ただの小さなパーツ」に成り下がったような、強烈な疎外感と虚無感があった。
そんな浩二が、広大なフロアの中でようやく見つけた、唯一の「安住の地」があった。
それは、フロアの一番奥、太いコンクリートの構造柱の陰に隠れるように配置された、壁際の小さなデスクだった。
窓からの自然光も届かず、天井のLED照明も太い柱に遮られて常に薄暗い。
清掃員のモップも届きにくいのか、床にはうっすらと埃が溜まっている。
おまけに天井の大型空調の冷風が直接叩きつけるように当たるため、真夏でもひどく肌寒いという最悪の悪条件の席だ。
だが、浩二にとって都合が良いことに、その席には「誰も座りたがらなかった」。
月末で社員が満席に近い日でも、なぜかその柱の陰のデスクだけは、ぽっかりと空席のまま残されていた。
浩二は誰にも邪魔されない、この陰気な席をすっかり気に入り、毎朝誰よりも早く出社しては、その「忘れられた席」を自らの特等席として占拠するようになった。
その席に座り始めて一週間が経過した頃から、浩二は身の回りで奇妙なことに気がつき始めた。
ある日の午後、エクセルの細かい数字と睨み合っていた浩二は、ふとデスクの天板の裏側――膝が当たる少し上の部分に、黄色い付箋が裏向きで貼り付けられているのを見つけた。
剥がして表を見ると、ミミズが這ったような細く震えたボールペンの字で、短い文章が書かれていた。
『今日は一段と寒い』
浩二は首を傾げた。
清掃員が貼り忘れたのか、あるいは以前ここをフリーアドレスで使った誰かのメモの剥がし忘れだろうか。
確かにこの席は、空調が直撃して異常に寒い。
浩二は気にも留めず、その付箋を丸めて足元のゴミ箱に捨てた。
だが、翌日の昼。
休憩から戻り、椅子に腰掛けた浩二は、今度はキーボードの裏側に、同じ黄色い付箋が貼られているのを見つけた。
『あいつら、ずっと笑ってる。うるさい』
浩二はハッとして、柱の陰からフロアの中央へと視線を向けた。
十メートルほど離れたウォーターサーバーの横で、若手社員のグループがスマホの画面を見せ合いながら、大声で楽しそうに談笑している。
タイミングが良すぎる。
まるで、ついさっき書かれたようなリアルタイムのメモだ。
浩二は周囲を見回した。誰かがイタズラで貼ったのか?
しかし、浩二が席を外していたのはトイレに行っていたたった五分。
その間にわざわざこんな陰気な席まで来て、メモを残していく物好きなどいるだろうか。
それに、この「忘れられた席」は、フロアの他の人間からは柱の完全な死角になっており、浩二の方からはフロアが見渡せるが、フロアからは浩二の姿は全く見えない構造になっている。
気味が悪くなり、浩二はその付箋も破り捨てた。
しかし、不気味な付箋はそれからも毎日、少しずつ内容をエスカレートさせながら浩二の席に出現し続けた。
『コーヒーこぼしたね』
『右肩が痛い』
『ため息が多い』
それらはすべて、浩二がその日、その席でとった行動や身体の不調を、寸分の狂いもなく正確に描写したものだった。
誰かに見られている。
いや、見られているのではない。
「極めて近い距離」から観察されているような、ねっとりとした視線を感じるようになった。
それから数日後。浩二の身の回りで、さらに不可解で決定的な現象が起き始めた。
他人が、浩二の存在を『認識しなくなってきた』のだ。
最初は、通路ですれ違った時のことだった。資料を見ながら歩いてきた若い女性社員が、避ける素振りも全く見せずに、浩二の右肩に強く激突した。
浩二がバランスを崩して壁に手をつき、持っていたクリアファイルを床にぶちまけたというのに、女性社員は「あっ」とも言わず、振り返りもせず、謝罪すらなく。
まるで『何もない空間をただ通り抜けた』かのように、そのまま歩き去っていった。
会議室でも同じだった。
週に一度の経理部の定例会議。
浩二が手元の資料について発言しようと「あの、ここの数字ですが」と少し大きめの声を出した瞬間。
隣に座っていた課長が、浩二の言葉を完全に上書きするように「よし、じゃあ次の議題に行こうか」と場を仕切り始めた。
他の出席者たちも、浩二が口を開いたことなど全く気づいていないかのように、課長の言葉にウンウンと頷いている。
浩二の言葉は、まるで真空の宇宙空間に放たれたように、誰の鼓膜にも届いていないようだった。
「……おい。聞いてる? 私はここにいるぞ!」
浩二は声を荒らげたが、やはり誰一人として浩二の方を見ない。
自分が透明人間になってしまったような、強烈な恐怖と孤独感が浩二を襲った。
浩二は会議室を逃げ出し、あの「忘れられた席」へと小走りで急いで戻った。
柱の陰の、冷え切った薄暗いデスク。
不思議なことに、浩二はこの不気味で陰気な席に座っている時だけは、自分の身体にしっかりと重力があり、世界に物理的に存在しているという『実体感』を確かめることができた。
フロアの明るい場所にいると、自分の輪郭がどんどん薄れ、空気に溶けて幽霊になっていくような感覚に陥る。
浩二は震える手でパソコンのマウスを握り、ふと視線を下げた。
マウスパッドのすぐ横に。
また、新しい黄色い付箋が貼られていた。
『もうすぐだね。かわってあげる』
浩二の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
かわってあげる? 誰が。
何を。
その時。
浩二は、自分の両足が、床から一ミリほど「浮いている」ことに気がついた。
いや、足だけではない。
お尻も、背中も、ワーキングチェアのクッションに全く触れていない。
物理的に体が浮遊しているのではない。
浩二の肉体の実体感が、この世界から急速に失われようとしている。
必死に立ち上がろうと太ももに力を入れるが、筋肉が全く反応しない。
まるで、自分より重い『別の何か』が、浩二の身体の上にピタリと重なって座り、力ずくで浩二を椅子に押さえつけているような、強烈な圧迫感と冷たさがあった。
浩二は恐怖で歯の根をガチガチと鳴らしながら、目の前のパソコンのモニターを見た。
スリープ状態になり、真っ黒になった液晶画面。
そこには、鏡のように、椅子に座る浩二の顔が反射して映っている。
だが。
画面に映る浩二の顔は、二重写しのように激しくブレていた。
浩二の顔の、数センチ上にズレた位置。
浩二の肉体にぴったりと重なるようにして、全く別の『男』の顔が映り込んでいた。
頬が異常にこけ、目の周りがどす黒く窪んだ、病的なまでに青白い顔の男。
その男は、浩二と全く同じ姿勢で椅子に座り、浩二と全く同じように、黒いモニターの反射を見つめていた。
この席は、空席ではなかった。
誰も座りたがらなかったのではない。
すでに、この『見えない男』がずっとここに座っていたのだ。
浩二は、この忘れられた席に座り続けることで、付箋を通して少しずつ、少しずつ、この男に自分の「存在」と「居場所」を明け渡していたのだ。
「や……やめろ……! 俺の席だ……!」
浩二は叫ぼうとしたが、喉からはヒューという空気の漏れる音しか出なかった。
声帯のコントロールすら、すでに自分のものではなくなっている。
モニターの中の青白い男が、ゆっくりと口角を上げ、不気味に微笑んだ。
男が、キーボードに手を伸ばす。
すると、現実の浩二の両手が、男の動きに完全に同期して、勝手に持ち上がり、キーボードのホームポジションに置かれた。
浩二の意識が、肉体からズルリと引き剥がされるような強烈な吐き気が襲う。
目の前が急速に暗転していく。
意識がブラックアウトする直前、浩二はフロアの方を見た。
ウォーターサーバーの横で談笑していた若手社員の一人が、ふとこちらを振り返った。
そして、浩二の顔を見て、「お疲れ様です! お茶飲みます?」と、今日初めて、明るく自然な挨拶をしてきた。
だが、その挨拶を受けたのは浩二ではない。
浩二の肉体を完全に手に入れ、浩二の顔で愛想よく笑い返した、あの『青白い男』だった。
浩二の視界は、ついに完全に闇に飲まれた。
……。
どれくらいの時間が経ったのか。
浩二の意識は、薄暗く、ひどく冷たい空間で目を覚ました。
目の前には、見覚えのある太いコンクリートの柱の壁がある。
物理的な体がない。
ただ、視点だけがそこに固定されていた。
浩二は自分が今、「デスクの天板の裏側」、膝が当たる位置の暗がりに這いつくばるように張り付いていることに気がついた。
頭上から、カタカタという軽快なタイピングの音が聞こえる。
フロアからは、若手社員と談笑する「浩二」の明るい笑い声が響いてきた。
強烈な孤独と永遠の冷たさの中で、浩二は、自分が今や、この忘れられた席に座る次の「身代わり」を永遠に待ち続けるだけの、名もなき怪異になってしまったことを悟った。
震える幻覚の手を伸ばし、浩二は虚空から一枚の黄色い付箋を引き剥がした。
そして、次にこの席に座る孤独な誰かに向けて、震える字で書き記す。
『今日は一段と寒い』




