第20話 隣には、何かいる
大手全国紙の社会部に所属する中堅新聞記者、真一(33)の信条は「事実のみを語る」ことだった。
彼はこれまでの十年間、日々の取材の中で、人間の泥臭い欲望や、嘘にまみれた政治家の言い訳、そして数多くの未解決の失踪事件を追ってきた。
オカルト、幽霊、超常現象といった非科学的なものは一切信じない。
この世で最も恐ろしいのは、底知れぬ悪意を持った生きた人間であり、それ以外のものはすべてただのデータエラーと精神的妄想にすぎないと考えていた。
そんな現実主義者の真一が、その奇妙なウェブサイトの存在を知ったのは、三日前のことだった。
同じ社会部に所属する三年目の後輩記者が、「先輩、これ、ちょっと気味悪いサイトなんですけど」と、深夜のデスクから社内チャットツールで一つのURLを送ってきたのだ。
『URL:http://unseen-observer-1105.net』
怪しいスパムかと思いながらもクリックして開いたそのサイトは、個人が立ち上げたような、装飾の一切ない簡素なテキストサイトだった。
真っ白な背景に、黒い明朝体の文字が羅列されているだけ。
広告バナーもなければ、コメント欄もなく、管理者のプロフィールすらない。
ただ純粋な「観察日記」のような作りだった。
だが、真一はそのトップページに掲載されていた最新の記事のタイトルを見て、持っていたコーヒーカップをデスクに落としそうになった。
『十一月二日 真一の帰宅と夕食』
自分の名前。
真一は眉をひそめ、薄気味悪さを感じながらも、その短い記事をスクロールして読んだ。
『午後十時四十五分。彼は疲れ切った様子で、マンション近くのコンビニで買った発泡酒のロング缶二本と、割引シールの貼られた明太子スパゲティの入ったレジ袋を提げて、自室のドアを開けた。スパゲティを電子レンジで二分温める間、彼はネクタイを緩め、今日書き終えたばかりの行方不明事件の原稿の三行目にある「失跡」という誤字を、赤ペンで修正した。それから、無意識に左肩を三回叩いた』
真一の全身の毛穴が開き、一気に血の気が引いた。
昨夜の真一の行動と、一言一句違わず完璧に一致していた。
買った酒の銘柄も、弁当の種類も。
そして何より、誰にも見せていない自宅のデスクの上にある原稿の「誤字の修正」まで。
左肩を三回叩くのは、彼が考え事をする時の無意識の癖だった。
「……悪質なストーカーか? 探偵でも雇われたか?」
真一はすぐに後輩記者に電話をかけた。
こんなサイトをどこで見つけたのか問い詰め、IPアドレスをたどるためだ。
だが、後輩のスマートフォンからは、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という無機質なアナウンスが流れるだけだった。
翌日、後輩記者は会社に無断欠勤し、アパートにも戻らず、そのまま行方不明になった。
真一は警察に相談することも考えたが、実害がない段階では動いてくれないことは、社会部の記者として痛いほどわかっていた。
何より、「ネットに日記を書かれた」などという曖昧な被害届では警察は鼻で笑うだけだろう。
彼は自衛のために、徹底的な対抗策をとることにした。
自分の日常が監視されているなら、行動を完全にランダムにして、ストーカーを振り切るしかない。
翌日、真一は有給休暇を取り、自宅のマンションには帰らず、服もすべて捨てて量販店で新しいものを買い、県をまたいだ遠く離れた寂れたビジネスホテルに偽名でチェックインした。
食事も、あえて自分が絶対に選ばないような激辛のカップラーメンと、甘ったるいイチゴミルクを買った。
スマホの電源を切り、GPSの追跡も完全に絶った。
夜中。
ホテルの薄暗い四〇四号室で、真一は持ち込んだノートパソコンを開き、Tor(匿名化ツール)を使ってあのサイトにアクセスした。
これで、更新は止まっているはずだ。
ストーカーが自分を見失い、焦っている様子が記事に出るかもしれない。
だが。
サイトのトップページは、無慈悲にも更新されていた。
『十一月四日 逃亡する真一』
震える指で、記事の本文を読む。
『彼は今、自宅から五十キロ離れたビジネスホテルの四〇四号室にいる。偽名を使ったつもりだが、意味はない。彼は量販店で買った安物のグレーのスウェットを着て、慣れない激辛のカップラーメンを食べ、むせて咳き込んだ。イチゴミルクの甘さに顔をしかめている。彼の心拍数は異常に高く、部屋の隅にある小さな換気扇の音にすら怯えている。今、彼はノートパソコンの画面を見つめ、この記事を読み、絶望のあまり唇を強く噛み締めている。右の唇から、血が一滴にじんだ』
真一は、ハッとして口元を指で拭った。
指先には、赤い血がべっとりと付着していた。
「……なんで、だ」
真一は狂乱し、ホテルの部屋のクローゼット、ベッドの下、テレビの裏側をすべて引っ繰り返した。
盗聴器か、小型カメラが仕掛けられているはず。
だが、何も出ない。
それもそのはずだった。
記事の描写は、カメラや窓の外からの望遠レンズで捉えられるような「遠距離の視点」ではなかった。
咳き込む声、心拍数の上昇、唇からにじむ血の匂い。
この記事を書いている『書き手』は、真一から数メートルの距離ではなく、真一の吐息がかかるほどの『ゼロ距離』、すぐ隣に張り付いて、彼を撫で回すように観察していなければ絶対に書けない視点だった。
事実だけを信じてきた真一の論理的思考が、音を立てて崩壊していくのを感じた。
記事の異常性は、そこからさらにエスカレートした。
真一が放心状態で画面を見つめていると、ページが自動で更新され、記事の文末に新しい一行が追加された。
それは、過去形でも現在進行形でもない、「未来形」の記述だった。
『十一月五日、午前三時十七分。彼は交通事故に遭い、凄惨な死を迎える』
明日だ。
明日の未明。
真一は画面を睨みつけた。
「ふざけるな」と声に出して吐き捨てた。
予言のつもりか。
だとしたら、完全に裏をかいてやる。
自分は今、密室のホテルにいる。
外に一歩も出なければ、交通事故になど絶対に遭うはずがない。
車の走っていないベッドの上にいれば、その予言は物理的に外れる。
真一はドアの前に机や椅子、重いテレビ台を積み上げ、完全なバリケードを作った。
カーテンを固く閉め、部屋の明かりをすべて消し、ノートパソコンの液晶の光だけを頼りに、ベッドの中央で体育座りをして時間を待った。
時計の針が、十一月五日の午前三時を回った。
部屋には、真一の荒い呼吸音だけが響いている。
恐怖と疲労で意識が飛びそうになるのを必死に堪えながら、真一はサイトのページを下にスクロールした。
ページの最下部に、『関連リンク』という項目があることに、今更ながら気がついた。
真一は、すがるような思いでそのリンクをクリックした。
何か、ストーカーの正体に繋がるヒントがあるかもしれないと思った。
画面が切り替わる。
そこに表示されたのは、大量のニュース記事のアーカイブだった。
だが、それはただのニュースではない。
真一が社会部の記者として、これまでに目を通したことがある「未解決の行方不明事件」のリストだった。
『ファイル09:小春 自宅のクローゼット前で失踪』
『ファイル10:大輔(不動産営業) 深夜のマンションで失踪』
『ファイル11:拓也(商社マン) 地下通路にて失踪』
『ファイル12:翔一 音声入力中に失踪』
『ファイル13:誠 フードデリバリー受取時に失踪』
『ファイル14:理沙(アパレル店員) 洗面所にて失踪』
『ファイル15:木村(中間管理職) 終電の車内で失踪』
『ファイル16:健一 自宅での写真スキャン中に失踪』
『ファイル17:美咲(広告代理店) フリマアプリ利用中に失踪』
『ファイル18:修平(不動産営業) ベッドの上で失踪』
『ファイル19:浩二(経理) オフィスの片隅で失踪』
真一は、浩二の事件の記事を書いたのは自分自身だったことを思い出した。
「横領を苦にした失踪の可能性」などという適当な見出しをつけて報じたのだ。
だが、違った。
そして。
リストの一番最後、二十番目の項目として。
『ファイル20:真一(新聞記者) ホテルの四〇四号室にて失踪予定』
と、はっきりと刻まれていた。
真一の呼吸が止まった。
彼らは全員、これまでの十九日間で、この関東近郊で神隠しのように姿を消した男女のリストだった。
事件に共通点はないと警察は判断していた。
だが、違った。
彼らは皆、自分と同じように、日常のふとした瞬間にこの『得体の知れない何か』に目をつけられ、観察され、そして「向こう側」へと連れ去られていった犠牲者たちだった。
スマホ、カメラ、パソコン。
現代の便利なツールを通して、彼らは隣に潜んでいた。
パソコンの右下のデジタル時計が、『03:17』という数字を表示した。
その瞬間、ブラウザの画面が自動的にリロードされた。
トップページに、新しい記事がポップアップする。
『十一月五日 午前三時十七分 最後の記事』
真一は、ガチガチと歯を鳴らしながら、その一文を読んだ。
『彼は今、ホテルのベッドの上で、自分が助かったと安堵しかけている。バリケードを作り、外に出なければ「交通事故」には遭わないと思っているからだ』
『滑稽だ。人間はいつも自分の見えている世界しか信じない。彼は一つだけ、致命的な勘違いをしている』
『事故というのは、外で起きるものだけではない。例えば、彼が今見ているパソコンの画面。そのディスプレイの液晶の向こう側から、突然信じられないスピードで「冷たい手」が飛び出してきて、彼の顔面に激突することも、立派な衝突事故だ』
「……え?」
真一は、画面から顔を離そうとした。
だが、遅かった。
記事の最後の三行が、まるで血文字のように、真っ赤なフォントで画面に激しく打ち出されていく。
『彼は今、この記事を読み、絶望に目を見開いている』
『そして、彼はついに理解する』
『隣には、ずっと私がいたということに』
バキィィィィンッ!!!!
ノートパソコンの液晶画面が、内側から凄まじい力で粉砕された。
飛び散るガラスとプラスチックの破片とともに、暗闇に沈むモニターの奥底――デジタル空間の向こう側から、信じられないほど長く、青白く、腐った泥のような悪臭を放つ「両腕」が、ロケットのような速度で飛び出してきた。
その両手が、真一の顔面を鷲掴みにする。
真一が絶叫を上げるより早く、その青白い両手は、真一の首を激しい音とともにへし折りながら、彼の上半身を、割れたモニターのわずか数ミリの隙間の中へと、ズルリ、ズルリと、強引に引きずり込んでいった。
バリケードで完全に密室となった、誰もいなくなった四〇四号室のベッドの上で。
粉々に割れて明滅を繰り返すノートパソコンの残骸から、機械音声のような不気味な笑い声だけが、いつまでも響き続けていた。




