第1章 敗戦姫-第2話
巡洋艦黒姫の艦橋は、静かだった。
外縁宙域。恒星光は薄く、観測スクリーンに映る星々は針で穿ったように冷たい。慣熟航行の最中、緊張はあるが、まだ“戦場”の空気ではない。
その静けさを、淡々とした報告が破る。
「戦術シミュレーション、初期条件の設定完了。仮想敵、連邦巡洋艦二、駆逐艦四。配置は散開状態からの接触を想定」
通信士の声に続き、戦術表示が立体的に展開される。青が味方、赤が敵。黒姫を中心に、もう一隻の青点がやや離れて配置されている。
「各艦、同条件で独立評価を実施。武尊も並列で走らせています」
その一言に、艦橋の何人かが視線をわずかに動かした。
武尊。ベテラン揃いの巡洋艦だ。
だが、それ以上の言及はない。ここは黒姫の艦橋であり、判断を下すのはこの場の人間だ。
「では、砲術士。案を」
艦長席からの落ち着いた声。沙月の視線は正面スクリーンに向けられたままだ。
呼ばれた涼羽は一歩前に出る。
「はい。現状の戦力と弾数を踏まえ、敵前衛の駆逐艦を牽制しつつ進路を制限。巡洋艦の機動自由度を削ぎます」
指先で操作パネルを滑らせる。青の軌跡が、慎重に、しかし確実に敵を追い詰める形へと変化していく。
「その後、射撃解が安定した段階で巡洋艦へ集中攻撃。弾数は各艦二斉射分に制限されていますので、確実な命中条件を優先します」
無駄のない説明だった。
艦橋の空気が、それを裏付ける。誰も異論を挟まない。むしろ、当然の手順として受け入れている。
「弾数制限下では、無駄撃ちは許されません。確実性を優先し――」
「死にたいの?」
短い声が落ちた。
音量は小さい。だが、艦橋の空気を一瞬で切り裂くには十分だった。
視線が集まる。
雪乃は変わらず前方を見ている。
涼羽の眉が、ほんの僅かに動いた。
「……どういうことでしょう?」
「整うのを待っている」
淡々とした口調。感情の起伏はない。
「敵の進路を制限し、射撃解を安定させる。その間に——敵も整うわ」
涼羽は一拍置いた。
否定されたのは戦術ではない。前提だ。
「安定した射撃条件を確保するのは当然です」
声は冷静だった。だが、内側に芯の強さがある。
「この弾数で外せば、次はありません」
「だから待つ?」
雪乃がわずかに視線を動かす。
「命中率が上がるまで?」
「——はい」
即答だった。
それが正しいと、疑っていないからだ。
雪乃は数秒、何も言わなかった。
スクリーンに映る敵編成を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか。
「武尊を側面に回す」
唐突に言った。
操作もなく、頭の中で描いているように。
「敵の進路を歪める。駆逐艦はそちらに引き寄せられる」
赤の編成が、仮想的に動く。
「その瞬間、巡洋艦は回避行動に入る。姿勢が崩れる」
指で一点を示す。
「ここ」
上方からの進入軌道が描かれる。
「上面が開く」
静かに。
「その一瞬を撃つ」
艦橋が、静まり返った。
涼羽は、すぐには言葉を返さなかった。
頭の中で計算を走らせる。
敵の回避挙動。姿勢制御の遅延。露出する装甲帯。
——成立する。
理屈は、通っている。
だが。
「射撃解が安定しません」
声を抑えて言う。
「姿勢、角度、照準時間——どれも不足しています」
「十分よ」
「不十分です」
即座に返した。
「その条件での命中率は著しく低下します。再現性もありません」
わずかに、言葉に力が入る。
「それでは——賭けです」
沈黙。
誰も動かない。
雪乃は、ほんのわずかに首を振った。
「賭けではないわ」
静かに。
「機会よ」
その言葉は、涼羽の胸の奥に引っかかった。
だが、すぐに押し返す。
「機会に依存した射撃は戦術とは言えません」
「あなたは整えてから撃つ」
雪乃の声は変わらない。
「私は崩れた瞬間に撃つ」
それだけだった。
説明はない。
だが、断定だけがある。
涼羽は一瞬、言葉を失った。
——理屈は、分かる。
だが。
それを採用していいのか。
「……シミュレーションを実行します」
涼羽は視線を落とし、操作に移る。
議論では決着がつかない。ならば、結果で見るしかない。
「黒姫、武尊ともに同時進行。各案を並列評価」
表示が切り替わる。
時間が加速し、戦場が圧縮される。
数秒後。
結果が並ぶ。
涼羽の案。
成功率、高。戦闘時間、長。被弾リスク、低。
雪乃の案。
成功率、中。戦闘時間、極短。——戦果、突出。
巡洋艦一隻、即時撃沈。
涼羽は無言でデータを見つめた。
その横で、通信士が言う。
「武尊の結果、受信」
別ウィンドウが開く。
武尊の戦術は、涼羽案に近い。
だが機動はやや積極的。敵の圧力を分散しつつ、確実な射撃解を作る構成。
現実的な折衷案。
涼羽は、わずかに息を吐いた。
——やはり。
現場は極端を取らない。
それが正しい。
「……結論を述べます」
顔を上げる。
「皇少佐の案は、理論上成立します」
一度、認める。
だが。
「しかし、実戦においては採用できません」
はっきりと言った。
「再現性に欠け、リスクが高すぎます」
艦橋の空気が、わずかに緩む。
理解しやすい結論だった。
沙月が軽く頷く。
「記録してちょうだい。両案ともね」
それで終わりだった。
議論は打ち切られる。
誰も勝っていないし、誰も負けていない。
ただ。
涼羽の中に、微かな違和感だけが残った。
——理屈は、通っていた。
それでも。
あの断定。
あの迷いのなさ。
スクリーンを見つめる雪乃の横顔を、ちらりと見る。
何も語らない。
まるで、結果がどう出ようと変わらないかのように。
涼羽は視線を戻す。
データは正しい。
判断も正しい。
それでも。
胸の奥に、引っかかるものがあった。
まだ、言葉にならない何かが。
シミュレーション終了から、しばらく。
艦橋は、再び静けさを取り戻していた。
誰もが通常業務に戻っている。報告と応答、数値の確認。慣熟航行の一部として、何も特別なことは起きていない——はずだった。
だが、空気はわずかに違っていた。
言葉にするほどではない。
それでも、先ほどのやり取りが、まだ艦橋のどこかに残っている。
「予定進路まで、あと三分」
航海長 玲の声。
「重力井戸離脱、確認」
「各部、亜光速航行準備へ移行」
淡々とした指示が重なる。
スクリーン上の星図が、ゆっくりと変化する。航路が引き直され、目的宙域へ向かう細い線が強調される。
涼羽はコンソールに視線を落としたまま、操作を続けていた。
指先は正確だ。いつもと変わらない。
——変わらない、はずだ。
(……成立は、していた)
先ほどの結果が、頭の奥で反芻される。
皇少佐の戦術。
成功率は低い。だが、成立はしていた。
それだけなら、切り捨てられる。
問題は——
(あの断定)
“崩れる瞬間を撃つ”。
まるで、その瞬間が見えているかのような言い方だった。
涼羽は、無意識にスクリーンへ視線を上げる。
星々の配置。航路。速度ベクトル。
すべては数値で、予測可能で、制御可能なはずの世界。
そのはずなのに。
(……本当に、見えているのか?)
すぐに、否定する。
(あり得ない)
戦場は確率だ。変数の集合だ。
“瞬間”などという曖昧なものに依存していいはずがない。
「主機関、出力上昇。亜光速域へ移行シーケンス開始」
機関長 水野からの報告。
低く、重い振動が艦体を伝う。
わずかに遅れて、慣性制御がそれを打ち消す。体感はほとんどない。それでも、空間そのものが押し出されるような感覚だけが残る。
「進路、固定」
「外部センサー、感度調整」
艦橋の光が一段階落ちる。
亜光速航行用の表示モードへ移行したのだ。
星が、伸びる。
点だった光が、細い線へと変わり、流れていく。
時間と距離の感覚が、現実から切り離される瞬間。
涼羽は、その光景を見つめた。
高速域では、すべてが遅れる。
観測も、判断も、対応も。
だからこそ、先読みが必要になる。
——先読み。
(……あの人は、どこまで読んでいる?)
視線が、自然と艦橋前方へ向く。
皇少佐は、変わらずそこに立っていた。
何もしていないように見える。だが、視線は常にスクリーンの奥、さらにその先を見ている。
表情は動かない。
結果にも、議論にも、興味がないかのように。
それでも。
(……迷いがない)
涼羽はわずかに眉を寄せた。
自分は、計算する。
条件を揃え、確率を上げる。
それが正しいと知っている。
だが、あの人は違う。
最初から、別の前提で戦っている。
その違いが、まだ言葉にならない。
「亜光速航行、安定域に移行」
報告が入る。
振動が消え、艦内は再び静寂に包まれる。
外では、星が流れ続けている。
時間は確実に進んでいる。
そして——
戦場へ、近づいている。
涼羽は視線を戻し、コンソールに向き直った。
数値は正しい。手順も正しい。
それでも。
違和感だけが、消えずに残っていた。
<結城涼羽>




