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七年かけて、君の国の言葉を覚えた  作者: SYO


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【中編】読めない日記

国境での仕事は思ったより長引き、帰城は二十日ではなく三十二日後になった。


その間のことを、私はすべて後から聞いた。侍女のリーネと、侍医と、グレーテ夫人と、母から。四人の話を重ね合わせると、こういうことになる。


私が発って五日目、ルシエラは咳をし始めた。


その冬は特別に寒く、王宮の東棟は暖炉の煙突が詰まりがちだった。ルシエラの部屋はその東棟の端、温室にいちばん近い部屋だった。彼女自身がそこを望んだのだという。


咳は日に日にひどくなった。十日目、ルシエラはリーネに「さむい」と言った。北の言葉で。


リーネは薪を増やしてもらうよう侍従に頼んだが、東棟の薪は月ごとに量が決まっていて、王太子妃の部屋とて例外ではない、と断られた。リーネはそれ以上食い下がれなかった。十七の娘だった。


その夜からリーネは、厨房のかまどの脇で温めた煉瓦を布に包み、何度も運んで、ルシエラの寝台の足元へ入れた。冷めるたびに取り替えに走った。他の二人の侍女は、夜は自分の部屋へ下がった。


煉瓦を入れてやると、ルシエラは毎回、リーネの手を両手で包んで、北の言葉で「ありがとう」と言った。ありがとう、ありがとう、と、何度も。


「妃殿下が、私の手の方を温めようとなさるんです」


それを話してくれたとき、リーネは、自分の手を見つめていた。


「ご自分の方が、ずっと冷たい手をしていらしたのに」


***


十一日目、リーネは王太后、つまり私の母のもとへ行った。


侍女が王太后に直に願い出るなど、本来はあってはならないことだ。リーネは、妃殿下のお部屋を西棟の暖かい部屋へ移していただけないかと、床に額をつけて頼んだ。


母は、こう答えたという。


「東棟の端がいいと言ったのは、妃自身でしょう。王太子の留守に、勝手に部屋替えなどできません。それに、あの方はもう四年も北で暮らしているのよ。いつまでも南の娘のつもりでは困るわ」


母は意地の悪い人ではない。少なくとも、自分ではそう信じている。その言葉にも、たぶん悪意はなかった。


悪意がないということは、時に、悪意よりも救いがない。


***


十二日目、侍医が呼ばれた。侍医は脈を取り、喉を見て、こう言った。


「南の方は、北の冬をことさら大げさに感じられるものです。滋養をとって、お休みになれば治ります」


その診立てを、グレーテ夫人も母も疑わなかった。ルシエラは、北の言葉でうまく反論することができなかった。


いや、反論しようとしたのだ、とリーネは言った。


熱に浮かされたルシエラは、途中から、ナシーラの言葉で何かを訴え始めた。必死に、何度も。自分の胸を叩き、湯を沸かす鍋を指さし、手で湯気が立ちのぼる形を作ってみせた。けれど王宮には、それを聞き取れる者がもう一人もいなかった。


グレーテ夫人は眉をひそめ、こう言ったという。


「王宮の内では、その言葉は使わぬお約束です、妃殿下」


ルシエラは、口を閉じた。


熱にうなされながら、それでも、口を閉じたのだ。


その夜、彼女はリーネに、書くものを持ってきてほしいと身振りで頼んだ。リーネが帳面とペンを渡すと、震える手で、長いあいだ何かを書いていた。北の言葉で医者に伝えるための文を作ろうとしていたのだろうか。それとも、別のことを書いていたのだろうか。


リーネには、その文字が読めなかった。


***


十九日目の夜、ルシエラは一人で温室へ行こうとして、回廊で倒れた。


リーネが見つけて部屋へ運んだとき、ルシエラは何度も温室の方角を指さしたという。レモンの木が凍えてしまう、と言いたかったのだろう、とリーネは思った。だから翌朝、リーネは自分の部屋の毛布を一枚持って温室へ行き、レモンの鉢を包んでやった。


戻って、「包んできました」と身振りで伝えると、ルシエラは熱で潤んだ目で、うれしそうに笑った。


そして、今日で二十日目だ、と指を折って数えてみせた。殿下の帰られる日だ、と。


その日、私は帰らなかった。国境からの早馬が、帰城の遅れを告げただけだった。


その晩、ルシエラの容態が急に変わった。


息が浅くなり、熱が下がらず、侍医がもう一度呼ばれたが、侍医は宴の席に出ていて、来たのは夜明け近くだった。


夜明けの少し前、ルシエラは目を開けた。


廊下を、誰かが歩く足音がしていた。夜番の衛兵の、重い長靴の音だった。


ルシエラはその音の方へ顔を向けて、ふっと笑ったのだという。


熱に乾いた唇で、何か一言、言った。


ナシーラの言葉だった。


それが、最後だった。


***


私が城に戻ったのは、その九日後だ。


葬儀はすでに済んでいた。王太子の帰りを待つには、遺体の傷みが早すぎる、という理由で。


母は、私の顔を見るなり言った。


「気の毒なことでした。南の方は、やはり北の冬には耐えられないのね」


その言葉に、私は頷いた。


頷いてしまったのだ。


悲しくなかったわけではない。妻を亡くしたのだ。けれどその悲しみは、親しくない遠縁の訃報を聞いたときと、たぶん同じくらいの重さだった。


葬儀の様子は、リーネが話してくれた。


王家の慣わしどおりの、北の神殿の葬礼だった。北の祈りの言葉が唱えられ、北の聖歌が歌われた。ナシーラの弔いがどういうものなのか、知っている者はいなかったし、知ろうとする者もいなかった。


棺が閉じられる前に、リーネは誰にも見られないよう、妃殿下の組んだ手の中に、レモンの葉を一枚、そっと差し入れたのだという。温室の木から、いちばん青くて大きな葉を選んで。


「せめて、故郷の匂いのするものを、と思って」


それしかできませんでした、とリーネは言った。


それだけでも、王宮じゅうの誰より多くのことをしたのだと、私は言えなかった。


***


ナシーラの王家へは、私の名で訃報を送った。外務の書記官が文案を作り、私は目を通して署名した。妃殿下は北の厳しい冬に御体を損なわれ、手厚い看護の甲斐もなく、と書かれていた。


手厚い看護。


私はその文言を、直させなかった。


ひと月半ののち、ナシーラから返書が届いた。国王名義の正式な弔意の書簡は、北の言葉で書かれていた。


その書簡に、もう一通、小さな封書が添えられていた。宛名は、王太子殿下。差出人は、ナシーラの王妃、つまりルシエラの母君だった。


中の手紙は、すべてナシーラの文字で書かれていた。


書記局の誰にも読めなかった。


私は、それも木箱にしまった。


***


帰城の翌日、私は王家の墓所へ行った。真新しい石に、彼女の名が刻まれていた。北の綴りで。


その前に立って、私は何か言おうとした。祈りの言葉でも、別れの言葉でも。


何も出てこなかった。


彼女に向けて言いたいことが、私にはひとつもなかった。四年間、一度も話したいと思ったことがなかったのだから、当然だった。


四年も共に暮らして、私は彼女の声を、ほとんど覚えていなかった。


***


ルシエラの部屋を片づけることになったのは、春になってからだった。


母は侍女たちに任せればいいと言った。けれど私は、なぜか自分で立ち会うと言った。理由は自分でもわからなかった。罪悪感という言葉は、その頃の私の辞書にはまだなかったと思う。


部屋は、驚くほど物が少なかった。


婚礼のときに王家から贈った宝飾品は、箱に入ったまま、ほとんど手つかずで棚に並んでいた。衣装も最低限。故郷から持ってきたらしい品は、あの白い巻貝がひとつと、色褪せた布の小袋がひとつ。小袋の中には、乾いたレモンの種が十粒ほど入っていた。


文机の引き出しの奥から、小さな紙片が何枚も出てきた。


どれにも、北の文字で、同じ言葉が書かれていた。


おたんじょうび おめでとう ございます


綴りを間違えて線で消したもの。文字が傾いて書き直したもの。インクが滲んだもの。十枚以上あった。そのいちばん下に、ひとつだけ、きれいに書けたものの下書きらしい紙があった。


あの硝子瓶に結ばれていた紙片と、同じ文字だった。


私は、瓶をどうしたのだったか。侍従に渡して、それきりだ。中身を口にしたのかどうかすら、覚えていない。


私は紙片を束ねて、自分の上着の内側にしまった。なぜそうしたのかも、やはりわからなかった。


***


そして、寝台の下の木箱から、帳面が出てきた。


一冊ではなかった。十一冊。どれも安物の、王宮の書記局で使う罫線入りの帳面だった。リーネに聞くと、ルシエラは書記局から余り物を分けてもらっていたのだという。王太子妃が、余り物を。


私はそのうちの一冊を開いた。


びっしりと、文字が並んでいた。


読めなかった。


細く、丸く、ところどころに点や鉤のような印がつく、見慣れない文字。ナシーラの文字だった。四年分、日付らしき数字のついた記録が、ほとんど毎日、余白もないほど書き込まれていた。


物言わぬ妃。話題も機知もない女。


その女が、四年間、毎日、帳面一頁を埋めるほどの何かを書いていた。


私は帳面を閉じた。手が少し震えていた。


***


翻訳させよう、と私は考えた。だが、そう簡単ではなかった。


ナシーラとの交易は、条約が結ばれてまだ日が浅い。王宮の書記局にも、外務の役所にも、ナシーラの文字を読める者はいなかった。ルシエラについてきた通訳は、とうに国へ帰っている。ナシーラ本国に送れば読める者はいるだろう。だが、亡き王女の日記を、その母国に送り返すのか。そこに何が書かれているかもわからないのに。


――もし、ヴァルトリング王家への恨みが書き連ねられていたら。


外交の顔をした私が、そう囁いた。


帳面は、木箱に戻された。


***


その年の夏、私はグレーテ夫人を呼んだ。


ルシエラの最後の冬のことを、改めて聞きたかったのだ。


夫人は背筋を伸ばして、淡々と語った。妃殿下は勤勉でいらした。礼法の飲み込みは遅かったが、決まりはよく守られた。ナシーラの言葉の禁を破られたのは、熱に浮かされたあの数日だけで、それも私がお諫めすると、すぐにおやめになった。


「なぜ、そこまで言葉を禁じた」


私が問うと、夫人は少しも迷わずに答えた。


「妃殿下がヴァルトリングの言葉を、一日も早くお身につけになるためです。逃げ場があれば、人は覚えません」


「では、彼女は北の言葉を覚えたのか」


「いいえ」夫人は、わずかに口元を歪めた。「最後まで、あの訛りはお抜けになりませんでした。ですから人前では、あまりお話しにならないよう申し上げておりました。王太子妃が訛った言葉で話しては、殿下のお恥になります」


私の、恥。


母国の言葉を禁じられ、覚えかけの言葉は恥だと言われ、だから彼女は黙っていたのだ。


晩餐の席で。出立の朝の城門で。熱にうなされた寝台の上で。


話すことがなかったのではない。話すことを、許されていなかったのだ。


あのイルカの晩餐を、私は思い出していた。


あれは、四年間で彼女がたった一度、自分から開いた扉だった。その扉を、食卓じゅうの笑い声が閉ざした。私は、閉ざされるのを黙って見ていた。いや、見てすらいなかった。外務卿の顔色の方を見ていたのだから。


私はその日のうちに、グレーテ夫人の任を解いた。母は抗議したが、私は聞かなかった。


けれど、夫人を罷免したところで、何ひとつ取り戻せはしなかった。


***


その秋、私はリーネを呼んだ。


ルシエラの最後の言葉を、覚えているかと尋ねた。


リーネは、泣きそうな顔で頷いた。忘れられるはずがありません、と言った。そして、ゆっくりと、音だけを真似てみせた。


「……ヴェニタ」


意味はわからない、とリーネは言った。けれど妃殿下は、廊下の足音の方を見て、笑ってそうおっしゃいました。とても、うれしそうに。


ヴェニタ。


私はその音を、何度も口の中で転がした。


意味を知りたい、と思った。


生まれて初めて、あの女が何を言おうとしていたのか、知りたいと思った。


リーネは下がる前に、扉の前で一度だけ振り返った。


「殿下。妃殿下は、本当は、たくさんお話しになる方でした」


「……なぜ、わかる」


「私にだけは、ときどき、温室で北の言葉を練習なさっていましたから。まちがえると、ご自分で笑っておられました。とても、楽しそうに」


リーネは深く頭を下げて、出ていった。


四年間、彼女の声を聞いていたのは、十四で王宮に上がった粉屋の娘、ただ一人だったのだ。


***


翌年の春、私は北の港町クラウエンへ行った。表向きは、新しい埠頭の視察として。


港には、条約のおかげでナシーラの交易船が月に二度入るようになっていた。その船に乗ってきて、そのまま港に住みついたという老水夫がいる、と港湾長が教えてくれた。


ジャコモという名の、片目の老人だった。酒場の二階に間借りして、網の繕いで暮らしていた。


私は身分を隠して、彼にナシーラの言葉を教えてほしいと頼んだ。


ジャコモは私の手をじろりと見て、言った。


「網も握ったことのない手だ。貴族の旦那が、何のために南の言葉を習う」


「妻が、ナシーラの人だった」


「……だった、か」


老人はそれ以上は聞かなかった。代わりに、酒の代金と、週に一度の授業料を要求した。


私は払った。


そして帰り際、どうしても我慢できずに、ひとつだけ尋ねた。


「ヴェニタ、というのは、どういう意味だ」


ジャコモは片方だけの目で、長いあいだ私を見ていた。それから、網を繕う手を止めずに言った。


「来た、着いた、戻った。そのへんだ。だがな、旦那。島の言葉はひとつの言葉にいくつも顔がある。誰が、誰に、どんな顔で言ったかで、まるで別の意味になる」


「教えてくれ。どういう顔のときに、どういう意味になる」


「それは、あんたが自分で覚えて、自分でわかれ」


老人は、それきり口をつぐんだ。


来た。着いた。


夜明け前の寝台で、熱に浮かされた女が、足音の方を見て笑って言う「来た」。


それは、迎えが来た、という意味ではないのか。


死が、来た、と。


私は、その考えを振り払うことができなかった。


そうして、私の七年が始まった。


(後編へ続く)

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