【前編】物言わぬ妃
妻は、ほとんど口をきかない女だった。
少なくとも、あの日記を開くまでの私はそう思っていた。
ヴァルトリング王国の王太子である私、コンラート・ヴァルトリングのもとへ、南の群島国ナシーラから第三王女ルシエラが嫁いできたのは、私が二十二の秋だった。北の港を開くための条約の、いわば付属品として。海を隔てた国同士が手を結ぶとき、王女は署名よりも確かな印になる。
船から降りてきた彼女は、季節外れの薄い外套を着ていた。南の島には、凍える秋というものがないのだという。日に焼けた小麦色の頬と、黒い巻き毛。両腕に、小さな素焼きの鉢を大事そうに抱えていた。鉢には、膝丈ほどの細い苗木が植わっていた。
「それは何だ」
通訳を介して尋ねると、彼女は一言、何か答えた。通訳は少し困った顔をして、「レモンの木だそうです。故郷の庭から持ってきたと」と言った。
北の国でレモンが育つものか、と私は思った。思っただけで、口にはしなかった。口にする価値もないことだと思ったからだ。
それが、私が妻と交わした最初の会話で、そしてたぶん、いちばん長い会話のひとつだった。
埠頭の後ろで、出迎えの貴婦人たちが扇の陰で囁き合っていた。まあ、あんなに日に焼けて。漁師の娘のよう。鉢植えなんか抱えて、お輿入れの品はあれだけなのかしら。
彼女に、その言葉はわからなかったはずだ。北の言葉は、まだ挨拶くらいしか知らなかったのだから。
けれど彼女は、鉢を抱く腕に、ほんの少し力を込めたように見えた。言葉はわからなくとも、声の色はわかる。そういうことに、当時の私は思い至らなかった。
言い訳をするつもりはない。ただ、当時の私がどういう人間だったかは、書いておくべきだろう。
私は、王になるためだけに育てられた。物心ついたときから、私の一日は家庭教師と剣の師範と宰相の講義で埋まっていた。父は、私が泣くと黙って部屋を出ていく人だった。母は、私が転ぶと、転んだことよりも人に見られたことを叱る人だった。
だから私は、結婚というものを、条約の一条項以上のものだと考えたことがなかった。妻とは、王太子の隣の席に座り、世継ぎを産み、公式の場で微笑む役目の人間だ。その人間が何を好み、何を怖れ、何を話したがっているかなど、条項のどこにも書かれていない。
書かれていないものは、存在しないのと同じだった。
少なくとも、当時の私にとっては。
***
婚礼は、ひと月後に王都の大聖堂で挙げられた。
誓いの言葉を、ルシエラはヴァルトリングの言葉で述べた。ひと月のあいだ、通訳について練習したのだろう。一語一語、確かめるように、ゆっくりと。
ただ、「生涯」という言葉のところで、舌がわずかにもつれた。北の言葉の、喉の奥で擦る音が、南の舌にはうまく作れなかったのだ。
参列席の後ろの方で、誰かが小さく笑った。
一人が笑うと、つられて二人、三人と、さざ波のように忍び笑いが広がった。司祭が咳払いをして、それはすぐに静まった。
私は、隣に立つ花嫁の横顔を見た。彼女はまっすぐ前を向いたまま、最後まで誓いを言い終えた。声は震えていなかった。ただ、ヴェールを持つ指先が、白くなるほど強く握られていた。
私はそのとき、何を思ったのだったか。
たぶん、少し恥ずかしいと思ったのだ。笑われた花嫁ではなく、笑われる花嫁を迎えた、自分のことを。
***
婚礼が終わると、母である王太后はすぐに彼女へ礼法指南役をつけた。グレーテ・ハイムバッハ夫人。三代の王妃に仕えたという、背骨に鉄の棒が入っているような女だ。
夫人が最初に定めた決まりは、ひとつだった。
「王宮の内では、ナシーラの言葉を一切使わぬこと」
ヴァルトリングの王太子妃である以上、ヴァルトリングの言葉で話し、考え、祈るべきだ、と。理屈としては正しかった。私も、母も、その場にいた誰もが頷いた。
ルシエラだけが、ほんの少しだけ目を見開いた。それから、ゆっくりと頭を下げた。
通訳は翌月に国へ帰された。ナシーラから連れてきた侍女たちも、冬が来る前に一人残らず。代わりに、王宮の侍女が三人つけられた。その中で最も年若いのがリーネという娘で、私はその名を、後になって何度も口にすることになる。
リーネは粉屋の娘で、行儀見習いに上がってきたばかりの十四だった。王太子妃付きなど、本来なら回ってくるはずのない役目だ。年かさの侍女たちが、南の姫君のお世話など気が進まないと口をそろえたので、いちばん下の者に回ってきたのだと、ずっと後になってリーネ自身から聞いた。
仕えはじめて三日目に、リーネは妃殿下の茶器をひとつ割った。ナシーラから持ってきた、青い釉の小さな茶碗だった。輿入れの荷の中で、数少ない故郷の品のひとつだった。
鞭打ちか、暇を出されるか。そう思って床に這いつくばったリーネの前に、ルシエラはしゃがみこんだ。そして、散らばった欠片を一緒に拾い集めながら、何か言って、笑ったのだという。
言葉はわからなかった。けれど、怒っていないことだけはわかった。
ルシエラは、欠片のうちいちばん大きな一片を、リーネの手のひらに載せた。それから自分の胸を指さし、リーネの胸を指さして、もう一度笑った。
あなたとわたしで、半分ずつ。
リーネはそう受け取った。その欠片を、彼女は今も、小さな布袋に入れて持ち歩いている。
私と彼女は、寝室を別にした。王家の慣わしでもあったし、私も、それを不思議とは思わなかった。妻の部屋を訪ねるのは、世継ぎのための、決められた夜だけだった。そこでも言葉は、ほとんど交わされなかった。
訪ねるたびに、彼女の部屋の暖炉の火は小さかった。寒くないのかと、一度くらい聞けばよかったのだ。
故郷への手紙も、グレーテ夫人の定めに縛られた。
王太子妃の書簡は、外交文書に準じて書記局を通す。書記局で読めない文字の手紙は、送ることができない。だから、ナシーラの母君へ宛てる手紙も、ヴァルトリングの言葉で書かねばならない。
まだ挨拶くらいしか書けない言葉で、海の向こうの母親に、いったい何が伝えられただろう。
彼女が四年間に故郷へ送った手紙は、書記局の記録によれば、わずか三通だった。どれも数行の、子どもの手習いのような文面だったという。
元気です。北はさむいです。みなさん、やさしいです。
***
その年の初雪は、例年より早かった。
朝、執務室の窓の外が白く霞んでいるのに気づいて顔を上げると、中庭に、誰かが一人で立っていた。
ルシエラだった。
外套も羽織らず、室内履きのまま、両手を空に向けて広げていた。落ちてくる雪を、手のひらで受けていたのだ。ひとひら受けるたびに、じっと見つめて、それが溶けて消えるのを確かめていた。
南の島に、雪は降らない。
彼女は生まれて初めて、空から白いものが降ってくるのを見たのだ。
やがて彼女は、空を仰いだまま、くるりと一度回った。黒い巻き毛に雪が積もって、まだらに白くなった。口が大きく開いていた。笑っていたのか、歌っていたのか、窓越しではわからなかった。
すぐに、回廊からグレーテ夫人が早足で現れた。夫人は何か鋭く言い、ルシエラの腕をつかんで建物の中へ連れ戻した。ルシエラは振り返り、もう一度だけ空を見上げた。
私は、子どもじみたことをする、と思った。
そして、書類に目を戻した。
あの朝、彼女の手のひらで溶けていった雪のことを、私は何年も後に、彼女自身の文字で読むことになる。
***
一年目の冬、ルシエラは晩餐の席でほとんど話さなかった。
二年目も、三年目も、同じだった。
誰かに話しかけられれば、短く答える。「はい」「いいえ」「ありがとうございます」。どれも、北の言葉としては少し角の取れていない、硬い発音だった。
そのたびに、グレーテ夫人が小さく咳払いをする。
それで、ルシエラはまた黙る。
一度だけ、彼女が自分から話したことがある。
二年目の冬の晩餐だった。条約の更新のために、外務卿が港の話をしていた。南の海は冬でも凍らぬそうですな、と誰かが言った。
そのとき、ルシエラが、顔を上げた。
「ナシーラの、海では」
食卓の視線が、一斉に彼女に集まった。彼女は一瞬ひるんだが、言葉を続けた。
「ふゆに……イルカが、みなとの、なかまで、きます。たくさん。こどもたちが、いっしょに、およぎ……ます」
訛りの強い、たどたどしい北の言葉だった。単語の切れ目ごとに、息継ぎが挟まった。
一拍置いて、母が、扇で口元を隠して笑った。
「まあ。イルカと泳ぐのですって。お伽話のようね」
食卓に、笑いが広がった。悪意のある笑いではなかった、と、そこにいた誰もが言うだろう。微笑ましい異国の話に、皆が和んだだけなのだと。
グレーテ夫人が、咳払いをした。
ルシエラは、頬を赤くして、うつむいた。
私は何をしたか。何もしなかった。外務卿が気まずそうにしていたので、彼の方へ向き直って、港の浚渫工事の話を振った。食卓はすぐに元の話題へ戻った。
私は、その場をうまく収めたつもりでいた。
助けたのは、外務卿の方だった。
それ以来、ルシエラが晩餐の席で自分から口を開くことは、二度となかった。
その翌年の春、王宮の庭で花見の園遊会が開かれた。
客たちの挨拶がひととおり済んで、私が一人で池のほとりに立っていたとき、ルシエラが近づいてきた。手に、見慣れない白い巻貝を持っていた。
彼女は黙って、巻貝を私の耳元へ差し出した。耳に当ててみてほしい、という仕草だった。
私は眉をひそめた。客の目がある。王太子が、園遊会の真ん中で、妃に貝殻を耳に押し当てられている姿など、見せられるものではない。
「何だ、それは」
ルシエラは何か言いかけて、やめた。周りに人がいたからだ。グレーテ夫人も、遠くからこちらを見ていた。
彼女は巻貝を胸元に引き寄せて、小さく頭を下げた。そして、来たときと同じように、黙って去っていった。
南の貝殻を耳に当てると、波の音がするのだという。私がそれを知ったのは、彼女が死んで何年も経ってからだった。
私は、彼女の故郷の海の音を、聞きそびれたのだ。
***
私は、彼女を退屈な女だと思っていた。美しくはあるが、話題も機知もない。南の島の王女とは、こういうものなのだろう。そう決めつけて、晩餐の間は宰相や将軍とばかり話した。
彼女が何を考えているのか、知りたいと思ったことはなかった。
考えていることがある、と思ったことすら、なかったのだ。
***
三年目の夏、私の二十五の誕生日に、ルシエラが贈り物をよこした。
祝宴の後、侍従を通して届けられたのは、手のひらに載るほどの小さな硝子の瓶だった。中には、琥珀色の細い欠片が詰まっていた。
レモンの皮の砂糖漬けだった。
ナシーラから輿入れの荷に入れてきたものを、三年間、大切に取っておいたのだろう。瓶には、二つ折りの小さな紙片が結びつけてあった。開くと、北の文字で、大きく、ひとつひとつ確かめるように書かれていた。
おたんじょうび おめでとう ございます
子どもの手習いのような文字だった。
私はそれを読んで、「妃に礼を」と侍従に言い、瓶ごと渡した。祝いの品は山ほど届いていた。宝剣や、名馬や、異国の地図や、そういうものが。小瓶ひとつに、それ以上の注意を払う理由はなかった。
瓶がその後どうなったのか、私は知らない。
正確に言えば、知ったのは、ずっと後のことだ。
***
レモンの苗は、王宮の東の端にある古い温室に置かれた。もとは先々代の王妃が蘭を育てていた場所で、ほとんど使われていない。ルシエラは毎朝そこへ通い、苗に水をやり、ガラスの曇りを袖で拭った。
一度だけ、私はその姿を回廊の窓から見たことがある。
彼女は苗の前にしゃがみこみ、何かを話しかけていた。唇がよく動いていた。笑っているように見えた。晩餐の席では一度も見たことのない顔だった。
ナシーラの言葉だ、とすぐにわかった。王宮の内では使わぬ決まりの言葉。
だが温室は、厳密には王宮の「内」ではない。中庭を隔てた別棟だ。
私は、それを見なかったことにした。咎める気も、近づく気も起きなかった。ただ、ああ、あの女も笑うのか、と思った。
それだけだった。
その温室について、彼女が一度だけ願い出たことがある、と知ったのも、ずっと後のことだ。
一年目の冬の初め、ルシエラはグレーテ夫人を通して、温室に小さな鋳物の暖炉を置いてほしいと頼んだのだという。夜の冷え込みで、レモンが凍えてしまうから、と。
夫人はそれを侍従長に取り次ぎ、侍従長はそれを財務の役人に回し、役人は、使われていない別棟の暖房に薪を割く理由はない、と書類に一行書いて退けた。その書類は、王太子の決裁箱にも回ってきたはずだ。私は中身を読まずに、他の百枚と一緒に印を押したのだろう。
それから毎晩、ルシエラは厨房で湯を沸かしてもらい、重い陶の湯たんぽを自分で抱えて、中庭を渡って温室へ運んだ。鉢の根元に置いて、布をかぶせて、それから部屋へ戻った。四年間、冬が来るたびに、毎晩。
王太子妃が、自分で湯たんぽを運ぶ。
宮廷の誰も、それを見なかったことにした。私と同じように。
***
結婚して四年目の冬、北の国境で小競り合いがあった。
大した戦ではない。山岳の部族が関所の倉を荒らしただけのことだ。だが王太子が出向けば兵の士気が上がる、と将軍が言い、私は二十日ほどの予定で城を発つことになった。
出立の朝は、底冷えのする曇り空だった。雪が降る前の、低い灰色の空。
城門の前に家族が並んだ。母と、妹たちと、ルシエラ。
順に別れの挨拶を受けていくと、最後にルシエラの前に来た。
彼女は、何か言おうとした。
唇が開いて、息を吸う音がした。私を見上げる黒い瞳が、何かを決めたように光った。
そのとき、彼女のすぐ後ろで、グレーテ夫人が咳払いをした。
ルシエラは口を閉じた。そして、深く頭を下げた。
「……お気をつけて」
それだけ言って、彼女は列に戻った。
私は特に何も感じなかった。馬に乗り、門を出た。振り返りもしなかった。
もし振り返っていたら、と、今になって思う。
城門の前で、彼女はまだ顔を上げていなかったかもしれない。あるいは、もう一度だけ、口を開きかけていたかもしれない。どちらにしても、私はそれを見なかった。
あのとき彼女が言おうとしていた言葉を、私は七年の歳月を経て知ることになる。
(中編へ続く)




