第2話 言葉が通じない
翌日。
「まつ」
呼ばれて、まつは足を止めた。
聞き覚えのある声だった。
できれば、こんなに早く聞き覚えのある声にはなってほしくなかった。
振り返る。
やはりいた。
昨日の唐人である。
鄭芝龍。
覚えにくい名前だと思ったのに、一晩経っても忘れていなかった。
「……何をしているんです?」
「待っていた」
「誰を?」
「お前」
まつは周囲を見た。
朝の港には、すでに大勢の人間が行き交っている。
荷を運ぶ者。
船へ向かう者。
商人。
漁師。
唐人。
その真ん中で、芝龍だけが妙に暇そうに立っていた。
「どうして私を?」
「聞きたいことがある」
「昨日も聞いていましたよね」
「今日もある」
「私は忙しいんです」
「そうか」
「そうです」
「では歩きながら聞く」
「……ついてくるんですか?」
「ああ」
芝龍は当然のように隣へ並んだ。
まつはため息をついた。
どうやらこの男には、遠慮という日本語から教える必要があるらしい。
「これ」
芝龍が指を差した。
「何と言う」
「桶」
「オケ」
「桶」
「オケ」
「それでいいです」
二人は歩く。
芝龍が今度は、軒先に積まれていた縄を指した。
「これは」
「縄」
「ナワ」
「はい」
魚。
「魚」
「サカナ」
米俵。
「米」
「コメ」
荷車。
「荷車」
「ニグルマ」
「違います。に・ぐるま」
「ニグルマ」
「……まあ、通じます」
芝龍は何度か繰り返した。
そして、もう一度は聞かなかった。
最初は面倒だと思っていたまつも、次第に気づいた。
この男。
覚えるのが速い。
「昨日は、どれくらい日本語が話せたんです?」
「少し」
「その『少し』が分からないんです」
芝龍が考える。
「高い」
「はい」
「安い」
「はい」
「買う」
「はい」
「売る」
「はい」
「銀」
「はい」
「いくら」
「……ずいぶん偏っていますね」
「困らない」
「困りますよ」
「昨日は困らなかった」
「私に話しかけたでしょう」
「あれは困った」
「ほら」
芝龍が黙った。
どうやら納得したらしい。
「では、何を覚えればいい」
「まず挨拶でしょう」
「挨拶」
「おはようございます」
「オハヨウゴザイマス」
「こんにちは」
「コンニチワ」
「ありがとうございます」
「アリガトウゴザイマス」
そこまで言って、芝龍が眉を寄せた。
「長い」
「そういうものです」
「もっと短いのは」
「ありません」
「面倒だな、日本語」
「人に教わっておいて、よくそんなことが言えますね」
まつは呆れた。
芝龍は笑っている。
「では、もう一つ」
「何です?」
芝龍が少し考えた。
「昨日、お前が言った」
「何を?」
「俺が、あの男にされたこと」
「騙された?」
「それ」
「騙す」
「ダマス」
「そうです」
「ダマス」
芝龍は二度繰り返した。
「これは覚える」
「どうしてです?」
「商売でよく使う」
「嫌な商売ですね」
「商売は、だいたいそんなものだ」
「そんなことを堂々と言わないでください」
しばらく歩くと、芝龍が今度は訊いた。
「信用」
「え?」
「信用。日本では何と言う」
今度は、まつが困った。
「信用は……信用でしょう」
「シンヨウ」
「人を信じるという意味です」
「信じる」
「はい」
「金を貸しても返すと思う」
「まあ、それも信用ですね」
「品を渡しても、あとで金を払うと思う」
「それもです」
「船を任せても、逃げないと思う」
「そうですね」
芝龍は頷いた。
「シンヨウ」
また繰り返す。
その言葉だけは、先ほどまでの桶や縄とは違い、何度も口の中で転がしていた。
「そんな言葉、何に使うんです?」
「商売」
「また商売ですか」
「ああ」
「本当にお金のことばかりですね」
「金は大事だ」
「昨日も聞きました」
「大事なことは何度言ってもいい」
まつは呆れながらも、少し気になった。
「そんなにお金を貯めて、何をするんです?」
「船を買う」
昨日と同じ答えだった。
「船が嫌いなのに?」
「嫌いだ」
「それなのに?」
「必要だから」
「何に?」
芝龍は港を見た。
ちょうど沖に一艘の船が見える。
「物を運ぶ」
「それだけ?」
「人も運ぶ」
「はい」
「手紙も運ぶ」
「そうですね」
「話も運ぶ」
まつは芝龍を見た。
「話?」
「向こうで戦があった。米がない。銀がある。生糸が高い。役人が変わった。船が沈んだ」
芝龍は指を折った。
「船が来れば、分かる」
まつには、少し意外だった。
この男にとって船は、ただ品物を積む箱ではないらしい。
「そういう話も、お金になるんですか」
「なる」
「何でもお金にするんですね」
「知らない奴より、知っている奴の方が早く動ける」
芝龍は平然と言った。
「早く動いた奴が儲かる」
「では、あなたは何でも知りたいんですか?」
「できれば」
「欲張りですね」
「そうか?」
「そうです」
芝龍は少し考えた。
「悪いか?」
「さあ」
まつは笑った。
「まだ分かりません」
「今度は俺が教える」
芝龍が突然言った。
「何をです?」
「言葉」
「唐の?」
「福建の言葉」
「結構です」
「なぜ」
「使うところがありません」
「俺に使える」
「あなたとは日本語で話せています」
「まだ少しだ」
「自分で言うんですか」
芝龍は気にしない。
「何を覚えたい」
「何も」
「金」
「いりません」
「船」
「いりません」
「魚」
「それなら少し」
芝龍が何か言った。
聞いたことのない音だった。
まつが眉を寄せる。
「もう一度」
芝龍が繰り返す。
まつも真似した。
芝龍が首を横に振る。
「違う」
「どこがです?」
「全部」
「全部?」
腹が立った。
「もう一度お願いします」
芝龍が言う。
まつが繰り返す。
また首を振る。
「違う」
「同じでしょう」
「違う」
「どこが」
芝龍が説明しようとした。
しかし、日本語が足りない。
「ここ」
自分の口を指す。
「こう」
「分かりません」
「だから、こう」
「分かりませんって」
二人で何度も繰り返した。
通りかかった老人が、不思議そうな顔で二人を見ていった。
しばらくして、芝龍が腹を抱えて笑い始めた。
「何がおかしいんです!」
「お前、下手」
「初めてなんだから当然でしょう!」
「俺の日本語より下手」
「あなたも大概です!」
芝龍はますます笑った。
まつは本気で腹が立ってきた。
「もう教わりません」
「待て」
「嫌です」
「では簡単なの」
「もういいです」
「簡単だ」
芝龍が一つの言葉を口にした。
「何です、それ」
「食べる」
「食べる?」
「ああ」
「それなら使えそうですね」
まつはもう一度教わった。
やはり芝龍は首を振った。
「違う」
「もう帰ります」
「待て。今のは少し合ってた」
「少し?」
「少し」
「あなたの日本語と同じですね」
芝龍が黙った。
今度はまつが笑う番だった。
二人は港近くの小さな店の前まで来た。
食べ物の匂いが漂っている。
芝龍が鼻を動かした。
「腹減った」
「それはずいぶん上手な日本語ですね」
「昨日覚えた」
「誰に?」
「船の奴」
「なるほど」
芝龍が店を見る。
それから、まつを見る。
「食べる?」
「私が?」
「ああ」
「どうして?」
「日本語、教えた」
「それで?」
「飯、奢る」
まつは目を瞬いた。
「その言葉はどこで覚えたんです?」
「昨日」
「大事な言葉なんですか」
「大事だ」
「商売に?」
「いや」
芝龍は少し考えた。
「人に」
それは、今日初めて聞いた気がした。
この男の口から、金にも船にも関係しない言葉を。
「……では、ご馳走になります」
「ああ」
「でも、高いものを頼みますよ」
芝龍の顔が止まった。
まつは吹き出した。
「冗談です」
「冗談」
「そう。冗談」
「ジョウダン」
「覚えました?」
「ああ」
芝龍が頷く。
「金のかからない嘘」
「なんですか、その覚え方」
「違う?」
「……完全には違わないのが腹立たしいですね」
店に入る。
まつは適当な場所へ腰を下ろした。
芝龍は向かいに座る。
「そういえば」
まつは言った。
「昨日から思っていたんですが」
「何だ」
「あなた、誰かに雇われているんですか?」
芝龍の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、まつには分かった。
初めてだ。
この男が質問にすぐ答えなかったのは。
「どうして?」
「船が欲しいと言っていたでしょう。でも、船は高いですよね」
「ああ」
「一人で買えるものじゃないでしょう?」
「今はな」
「今は?」
芝龍は笑った。
いつもの笑い方だった。
だが答えない。
「秘密ですか」
「まだ話すほどのことじゃない」
「何です、それ」
「話になったら話す」
まつには意味が分からなかった。
そのとき店の外から声がした。
中国の言葉だった。
まつには分からない。
だが芝龍には分かった。
彼の表情が変わった。
振り向く。
二人の唐人が通り過ぎていくところだった。
芝龍はその背中を目で追った。
「知っている人ですか?」
「いや」
「では、何を見ているんです」
「名前が出た」
「誰の?」
芝龍は少し間を置いた。
「李旦」
「り……?」
「李旦」
まつには聞き覚えがあった。
「ああ」
芝龍がすぐこちらを見る。
「知ってる?」
「名前くらいなら」
「どんな男だ」
「どんなって……」
まつは考えた。
自分のような者でも名前を聞いたことがある。
それだけで十分なのかもしれない。
「大きな商いをしている唐人だと聞いています」
「船を持ってる?」
「たくさん持っているんじゃないですか」
「どこにいる」
「知りませんよ」
「誰なら知ってる」
「だから知りませんって」
芝龍の目が変わっていた。
先ほどまで魚だの日本語だので笑っていた男とは思えない。
「そんなに気になるんですか」
「ああ」
「どうして?」
芝龍は少し考えた。
「船を持っているから」
「また船ですか」
「ああ」
「本当に船が好きなんですね」
「嫌いだ」
即答だった。
まつは笑った。
「では、どうしてそこまで」
芝龍は答えなかった。
店の外。
港の向こう。
その先にある海を見ている。
昨日と同じ目だった。
まつにはまだ、その目が何を見ているのか分からなかった。
船なのか。
金なのか。
海の向こうなのか。
あるいは、その全部なのか。
「まつ」
「何です?」
「李旦という男」
「はい」
「会えると思うか」
「私に訊かれても」
「会いたい」
「だったら会えばいいじゃないですか」
芝龍がこちらを見る。
「そうだな」
あまりにも簡単に言ったので、まつは嫌な予感がした。
「待ってください」
「何だ」
「まさか、今から行くつもりじゃありませんよね」
「場所を探す」
「やめた方がいいですよ」
「なぜ」
「大商人なんでしょう?」
「ああ」
「あなた、何者なんです?」
芝龍が黙った。
まつは続けた。
「紹介状は?」
「ない」
「お金は?」
「少し」
「立派な船は?」
「ない」
「人脈は?」
「これから」
「それで、会ってもらえると思います?」
芝龍は少し考えた。
「分からない」
「でしょう?」
「だから行く」
まつは言葉を失った。
この男。
本当に変だ。
分からないから止めるのではない。
分からないから確かめに行く。
どうやら、そういう人間らしい。
「まつ」
「何です」
「日本語で何と言う」
「何を?」
「会ったことのない人間に、会わせてほしいと言う言葉」
まつはしばらく考えた。
「……『お目にかかりたい』でしょうか」
「オメニカカリタイ」
「でも、それだけでは会わせてもらえないと思いますよ」
「そうか」
「はい」
「では」
芝龍は訊いた。
「会わせてもらえない人間に、どうしても会うことを何と言う?」
「そんな都合のいい日本語はありません」
芝龍は残念そうな顔をした。
まつは笑った。
その日。
鄭芝龍は新しい日本語をいくつも覚えた。
桶。
縄。
信用。
冗談。
奢る。
お目にかかりたい。
そしてもう一つ。
李旦。
それは日本語ではなかった。
けれど後になって考えれば――。
この日、芝龍が覚えたどんな言葉よりも、その名の方が彼の人生を大きく変えることになる。
もちろん。
このときの芝龍は、まだそれを知らない。
ただ、
「船を持っている男なら、会う価値がある」
その程度にしか考えていなかった。
そして田川まつもまた知らなかった。
昨日出会ったばかりのこの妙な唐人が、やがて船を一隻欲しがるどころでは済まなくなることを。
第2話 了




