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『海王戦記――鄭芝龍、平戸より起つ』  作者: 鏑木


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第3話 銀一枚

銀は、どこへ持っていっても銀だ。


 だが、その価値まで同じとは限らない。


 鄭芝龍がそれを知ったのは、ずっと前のことだった。


 ある港では、一枚の銀で米が買えた。


 別の港では、同じほどの銀を出しても、それより少ない米しか手に入らなかった。


 ならば――。


 安いところで買って、高いところへ持っていけばいい。


 子供でも分かる理屈だ。


 ところが、実際にやる人間はそれほど多くない。


 海があるからだ。


 船がいる。


 船乗りがいる。


 風を待たなければならない。


 途中で船が沈むかもしれない。


 荷を奪われるかもしれない。


 港へ着いたころには値が下がっているかもしれない。


 役人に止められることもある。


 昨日まで通れた場所が、今日は通れないこともある。


 だから芝龍は思う。


 物の値段だけを見ていてはいけない。


 船の値段。


 人の値段。


 時間の値段。


 危険の値段。


 それを全部合わせて、それでも銀が残るのなら――。


 そこには商いがある。


「聞いてます?」


 まつの声で、芝龍は顔を上げた。


「聞いている」


「絶対に聞いていませんでした」


「聞いていた」


「では、私が今なんと言ったか言ってください」


 芝龍は考えた。


「……腹が減った」


「言ってません」


「では、眠い」


「それも言ってません」


「難しいな、日本語」


「日本語のせいにしないでください」


 まつが呆れた顔をする。


 二人は港の近くを歩いていた。


 あの日以来、芝龍はまつを見つけると話しかけるようになった。


 正確には、日本語を聞くようになった。


 最初のうちは、まつも面倒そうにしていた。


 最近では、半分諦めているらしい。


「芝龍」


「何だ」


「それです」


「何が」


「昨日教えたでしょう」


「何を」


「人に何かを頼むとき」


 芝龍は考えた。


「頼む」


「それじゃありません」


「お願いします」


「そう。それです」


「同じだろう」


「違います」


「意味は同じだ」


「聞いた人の気持ちが違います」


 芝龍は眉を寄せた。


 こういうところが日本語は難しい。


 意味が同じなのに、言い方を変えなければならない。


「商売なら?」


「なおさら必要です」


「安くしろ、では駄目か」


「駄目です」


「でも安くなれば同じだ」


「そういうところです」


 何が「そういうところ」なのか分からない。


 芝龍は諦めた。


「そういえば」


 まつが言った。


「李旦という人のこと、まだ探しているんですか」


「ああ」


 芝龍は即答した。


 第2話でその名を聞いてから、すでに何人かに尋ねていた。


 答えはだいたい同じだった。


 知らない。


 知っているが教えられない。


 知っていても、お前には関係ない。


 そして最も多かったのが、


 ――誰の紹介だ。


 という質問だった。


 紹介などない。


 そう答えると、そこで話が終わる。


「会えそうです?」


「まだ」


「やっぱり」


「なぜ嬉しそうなんだ」


「最初から言ったでしょう。そんな簡単に会える人じゃないって」


「簡単でないだけだ」


「同じじゃないですか」


「違う」


「どこが」


「まだ会っていないのと、会えないのは違う」


 まつが黙った。


 芝龍には、その違いの方が大きかった。


 まだなら、次がある。


 できないと決まったわけではない。


「李旦に会って、何をするんです?」


「まだ決めていない」


「決めてない?」


 まつが足を止めた。


「会いたいって、ずっと言っていたじゃないですか」


「ああ」


「何を頼むかも決めてないのに?」


「頼むとは限らない」


「では何をするんです」


「見る」


「何を?」


「李旦を」


 まつの顔に、また「この男は何を言っているんだ」という色が浮かんだ。


 最近、この顔をよく見る。


「大きな商いをしているんだろう」


「そう聞いています」


「船もある」


「たぶん」


「人もいる」


「いるでしょうね」


「なら、見る価値がある」


「見物ですか」


「違う」


 芝龍は首を振った。


「どうして、そんなものを持てるのか見る」


 まつはしばらく黙った。


「盗むんですか?」


「なぜそうなる」


「言い方が悪いんですよ」


「日本語は難しい」


「だから日本語のせいにしないでください」


 そのときだった。


 道の向こうから、男が一人歩いてきた。


 芝龍は顔を知っていた。


 昨日、李旦について尋ねた唐人の一人だ。


 男も芝龍に気づいた。


 露骨に嫌そうな顔をした。


「またお前か」


 今度は唐の言葉だった。


 まつが芝龍を見る。


 当然、彼女には分からない。


「李旦殿に会いたい」


 芝龍も同じ言葉で返した。


「昨日言っただろう」


「聞いた」


「なら諦めろ」


「嫌だ」


 男がため息をつく。


「お前のような若造が、一日に何人来ると思っている」


「何人だ」


「そういう意味じゃない」


「では何人だ」


「……面倒な奴だな」


 芝龍は笑った。


「よく言われる」


 男は芝龍を無視して行こうとした。


「待ってくれ」


 芝龍が呼び止める。


「今度は何だ」


「一つ教えてくれ」


「嫌だ」


「李旦殿のことではない」


 男の足が止まった。


「何だ」


 芝龍は懐から銀を取り出した。


 大きなものではない。


 男に見せる。


「これで、何が買える?」


 唐人が眉を寄せた。


「何の話だ」


「ここでだ」


「米でも酒でも買えばいいだろう」


「福建なら?」


 男の表情が少し変わった。


「何?」


「同じ銀で、福建なら何が買える」


「お前、福建から来たんじゃないのか」


「来た」


「なら知っているだろう」


「知っている。でも、お前の答えを聞きたい」


 男はしばらく芝龍を見た。


「何を考えている」


「商売」


「お前が?」


「ああ」


「船も持っていないのに?」


「だから聞いている」


 男が鼻で笑った。


「船がなければ、海の商いはできん」


「船を持っている奴に運ばせればいい」


「金がいる」


「荷を持っている奴と組めばいい」


「信用がいる」


 芝龍は少し笑った。


 昨日覚えた日本語が頭に浮かんだ。


 信用。


 やはり大事な言葉だった。


「では、信用を手に入れればいい」


 男が呆れた。


「簡単に言うな」


「難しいのか」


「船を買うより難しい」


「そうか」


 芝龍は銀をしまった。


「なら、それを先に買う」


「信用は買えん」


「そうなのか?」


「当たり前だ」


「金を貸して、返す。荷を預かって、届ける。約束した値で売る」


 芝龍は指を折った。


「それを何度もやれば、手に入るんじゃないのか」


 男が黙った。


「それは買うとは言わん」


「俺には同じだ」


「……お前、名前は?」


 初めて訊かれた。


「鄭芝龍」


「鄭……」


 男は少し考えた。


「泉州の方か」


「そうだ」


「なるほどな」


 何がなるほどなのかは言わなかった。


 男は歩き出した。


「待て」


「まだ何かあるのか」


「李旦殿には」


「会わせん」


「そうか」


「だが」


 男が一度だけ振り返った。


「船と荷の話なら、港にいる連中へ聞け。李旦殿の名を出すより、その方がまだ相手にされる」


「ありがとう」


「礼を言うなら、もう追いかけてくるな」


「それは約束できない」


「……本当に面倒な奴だ」


 男は去っていった。


「何を話していたんです?」


 まつが訊いた。


「商売」


「ずいぶん長い商売ですね」


「李旦には会わせないと言われた」


「やっぱり」


「でも、一つ教えてくれた」


「何を?」


「李旦に会う方法」


「会わせないと言われたんでしょう?」


「ああ」


「では、どうしてそうなるんです」


「本人は気づいていない」


 まつが首を傾げた。


「どういうことです?」


「俺には何もないから会えない」


「……はい」


「なら、何か持てばいい」


「何を?」


 芝龍は答えなかった。


 まだ自分でも分からない。


 船か。


 荷か。


 銀か。


 それとも信用か。


 ただ、一つだけ分かった。


 李旦のような男に、


 ――会ってください。


 と頼むだけでは駄目なのだ。


 向こうから、


 ――会ってみよう。


 と思わせなければならない。


 その日の夕方。


 芝龍は港に座って、船を眺めていた。


 何艘あるのか数える。


 一。


 二。


 三。


 唐船。


 日本の船。


 沖には別の帆も見える。


 船が着くたび、人が降りる。


 荷が降りる。


 銀が動く。


 話が動く。


 同じ品物でも、海を一つ越えれば値が変わる。


 同じ銀でも、場所によって買える物が変わる。


 では――。


 人間はどうなのだろう。


 芝龍は自分の手を見た。


 今の自分には値がない。


 船もない。


 大きな荷もない。


 名もない。


 誰かの紹介状もない。


 李旦の門を叩いても、


 ――帰れ。


 それで終わる程度の人間だ。


 ならば。


 自分の値を上げればいい。


「何してるんです?」


 いつの間にか、まつが後ろに立っていた。


「考えていた」


「珍しいですね」


「俺を何だと思ってる」


「よく笑う唐人」


「ひどいな」


 まつが隣に腰を下ろした。


「何を考えていたんです?」


 芝龍は少し迷った。


「銀のこと」


「やっぱりお金じゃないですか」


「違う」


「何が違うんです?」


 芝龍は銀を一つ取り出した。


「これ」


「はい」


「銀一枚だ」


「そうですね」


「でも、場所が変われば、買える物が変わる」


「そうでしょうね」


「なら」


 芝龍は銀を握った。


「人間も同じかもしれない」


「人間?」


「ここでは、俺は何でもない」


 まつは黙って聞いている。


「でも、違う場所なら、違う値がつくかもしれない」


「人に値段をつけるんですか」


「例えばだ」


「嫌な例えですね」


「では何と言う」


 芝龍は日本語を探した。


 うまく出てこない。


「人間の……」


「価値?」


「それだ」


「価値」


「ああ」


 芝龍はその言葉を繰り返した。


「カチ」


「価値」


「覚えた」


「また変な言葉から覚えますね」


「大事だ」


「何に?」


「生きるのに」


 まつが芝龍を見た。


 先ほどまでとは少し違う顔だった。


「芝龍」


「何だ」


「自分の価値って、自分で決めるものなんですか?」


 芝龍は答えようとして、やめた。


 分からなかった。


 だから正直に言った。


「知らない」


「知らないんですか」


「ああ」


「珍しい」


「何が」


「あなたが『知らない』って言うの」


「知らないことは多い」


「そうは見えません」


「だから聞く」


 まつが笑った。


「誰に?」


「知っていそうな奴に」


「それで李旦?」


「ああ」


 芝龍は海へ視線を戻した。


「俺が知らないことを、あの男はたくさん知っている」


「会ってくれるといいですね」


「会わせる」


「誰が?」


「向こうから」


 まつが眉を寄せた。


「また変なことを考えてるでしょう」


「まだ考えてない」


「これから?」


「ああ」


 芝龍は立ち上がった。


「どこへ行くんです?」


「港」


「今も港でしょう」


「船のところ」


「何をするんです」


「仕事を探す」


「仕事?」


「ああ」


 李旦に会えないなら。


 李旦の周りにいる人間へ近づけばいい。


 船に乗れないなら。


 船に乗る人間の役に立てばいい。


 銀が足りないなら。


 銀以外のものを売ればいい。


 芝龍は歩き出した。


「芝龍」


 まつが呼んだ。


「何だ」


「一つ忘れています」


「何を」


「仕事を頼むときの日本語」


 芝龍は考えた。


 そして思い出した。


「お願いします」


「そうです」


「面倒だな」


「大事なんでしょう?」


「何が」


「信用」


 芝龍は足を止めた。


 振り返る。


 まつは笑っていた。


 芝龍も笑った。


「そうだった」


 銀一枚で買えるものには限りがある。


 だが、銀一枚しか持たない人間にできることまで、一つとは限らない。


 この日から鄭芝龍は、港にいる人間たちへ自分を売り始めた。


 荷を運ぶ。


 値を聞く。


 言葉を覚える。


 船乗りの話を聞く。


 誰が誰と商っているのかを見る。


 そして、一度聞いた値段は忘れない。


 人の名前は忘れることがあった。


 だが。


 どの港で、何が、いくらだったか。


 それだけは、不思議なほど頭から消えなかった。


 やがて、その力を必要とする男が現れる。


 平戸の海で、大きな商いを動かしている男。


 李旦。


 だが、二人が顔を合わせるまでには――。


 もう一つ、小さな商いが必要だった。


 第3話 了

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