第1話 唐人の男
「その唐人、日本語が分からないふりをしていますよ」
港の一角が、しんとした。
言ってから、まつは少しだけ後悔した。
目の前にいた日本商人が、あからさまに嫌な顔をしたからである。
そして、もう一人。
話題にされた当の唐人も、こちらを見た。
若い男だった。
潮風に晒された衣は、決して上等とは言えない。
裕福な商人には見えなかったし、偉い役人にはもっと見えなかった。
それなのに妙に堂々としている。
怒ったのかと思った。
違った。
笑っている。
「お前」
たどたどしい日本語だった。
「なぜ、分かった」
まつは目を丸くした。
「……やっぱり日本語、分かるんじゃないですか」
「少し」
「十分分かっているでしょう」
「少しだ」
男は真顔で言った。
嘘だ。
まつは思った。
この唐人、絶対に嘘をついている。
平戸では、唐人を見ること自体は珍しくない。
海の向こうから来るのは唐人ばかりでもない。
肌の色も、髪の色も、着ているものも違う男たちが船から降りてくる。
聞いたこともない言葉が飛び交い、見たことのない品物が倉へ運ばれていく。
子供のころなら、まつも異国の船が入るたびに港まで見に来たものだ。
今ではいちいち驚かなくなった。
それでも、この男は少し変だった。
「まつ」
日本商人が低い声を出した。
「これは商いの話だ」
「分かっています」
「なら口を出すな」
「でも、さっきと言っている値が違います」
商人が黙った。
やはりそうなのだ。
まつは商人ではない。
だが、港町で暮らしていれば、嫌でも物の値段くらい耳に入る。
まして数字は、唐人相手だからといって別のものになるわけではない。
「さっきは、もっと高い値で買うと言っていたでしょう」
「それは――」
「それに、この人が日本語を分からないと思って、途中から値を変えましたよね」
「まつ」
今度の声には明らかに怒気があった。
しまった。
これは帰ってから叱られる。
頼まれた品を受け取りに来ただけなのに、どうして他人の商談に首を突っ込んでいるのだろう。
だが、もう遅い。
唐人の男が笑っていた。
「何がおかしいんです」
まつが言った。
「いや」
「笑っていますよね」
「お前、面白い」
「ちっとも褒められた気がしません」
男はまた笑った。
日本商人は笑っていなかった。
「おい」
唐人が商人へ向き直った。
急に表情が変わった。
「売らない」
「何?」
「これ」
男が荷を指した。
「売らない」
「待て。話はまだ終わっていない」
「終わった」
唐人は荷をまとめ始めた。
商人が慌てた。
「待てと言っているだろう」
「なぜ?」
「なぜって……」
唐人は手を止めた。
「いらないのだろう?」
「誰がそんなことを言った」
「安くしろ。安くしろ。ずっと言う」
男が指を一本立てた。
「なら、いらない」
もう一本。
「俺、売らない」
さらに一本。
「終わり」
ずいぶん単純な理屈だった。
まつは少し感心した。
日本語が拙いせいで、余計に強く聞こえる。
「いや、だから待て」
商人が男の腕を掴もうとした。
唐人は怒らなかった。
ただ一歩下がった。
「いくらなら売る」
商人が訊いた。
男の口元が、わずかに動いた。
まつは見逃さなかった。
笑った。
ほんの一瞬だけ。
――最初から、これを待っていたのだ。
「さっきの値」
唐人が言った。
「高すぎる」
「なら売らない」
「少しはまけろ」
「売らない」
「お前な」
「船、今日出ない」
唐人が港を指した。
まつもそちらを見る。
何艘もの船が停泊していた。
帆は畳まれている。
風が弱い。
「明日もいる」
男が続けた。
「明後日もいるかもしれない。急がない」
商人の顔が変わった。
今度はまつにも分かった。
急いでいるのは、唐人ではない。
この商人の方なのだ。
男はそれを最初から知っていた。
「……分かった」
商人が言った。
「最初の値だ」
「分かった」
あっさりしたものだった。
唐人は先ほどまでの押し問答がなかったかのように荷を置いた。
商人が苦々しい顔で代金を用意する。
男は受け取ると、その場で確認した。
一つ。
二つ。
三つ。
速い。
だが雑ではない。
確認を終えると、初めて満足そうに頷いた。
「毎度」
妙にきれいな日本語だった。
商人が眉を吊り上げた。
「お前、それだけは上手いな」
「大事だから」
まつは吹き出した。
商人がこちらを睨む。
「まつ」
「はい」
「用は済んだんだろう」
「はい」
「なら帰れ」
「はい」
これは完全に怒っている。
帰った方がいい。
まつは頭を下げ、その場を離れた。
しばらく歩いたところで、
「おい」
後ろから声がした。
まつは振り返った。
さっきの唐人だった。
「何ですか」
「待て」
「どうしてです」
「話がある」
「私はありません」
そのまま歩く。
男がついてくる。
「何でついてくるんですか」
「同じ道」
「嘘でしょう」
「なぜ分かる」
「さっきから私の後ろを歩いているからです」
男が考えた。
「頭いいな」
「普通です」
また笑う。
本当によく笑う男だ。
「さっき」
男が言った。
「助かった」
まつは足を止めた。
意外だった。
もっと横柄な男だと思っていた。
「分かっていたんでしょう?」
「何が」
「あの人が値段を変えたこと」
「分かっていた」
「だったら、私は余計なことをしただけじゃないですか」
「そうだ」
まつは睨んだ。
「帰ります」
「待て」
「何ですか」
「でも、助かった」
「どっちなんです」
男が少し考えた。
日本語を探しているらしい。
「俺、分かっていた」
「はい」
「でも、お前が言った」
「はい」
「あいつ、困った」
男がにやりとした。
「だから助かった」
まつは呆れた。
「私を使ったんですか」
「使った?」
「……もういいです」
どうやら、その日本語はまだ知らないらしい。
まつは再び歩き出した。
男はやはりついてくる。
「あなた、唐のどこから来たんです」
仕方なく訊いた。
「福建」
「ふっけん」
「知らない?」
「名前くらいは」
「遠い」
「船で来たんでしょう」
「船で来た」
「船、好きなんですか」
男は嫌そうな顔をした。
「嫌い」
まつは思わず彼を見た。
「嫌い?」
「揺れる」
「……船に乗る人なのに?」
「船に乗る人間が、船を好きとは限らない」
もっともらしい。
「海は?」
「嫌い」
「それも?」
「濡れる。塩辛い。風がないと動かない。風が強すぎても動けない」
「ずいぶん嫌いなんですね」
「ああ」
「じゃあ、どうして海を渡ってきたんです?」
男が答えなかった。
日本語が分からなかったのだろうか。
そう思ったが、違った。
男は港を見ていた。
停泊する船。
荷を運ぶ男たち。
行き交う商人。
唐人。
日本人。
海の向こうから来た異国人。
そして、その間を動いていく金と品物。
「海の向こうには」
男が言った。
「ここにない物がある」
「はい」
「ここにある物を欲しがる人間がいる」
「はい」
「なら、運べば金になる」
まつはしばらく黙った。
情緒も何もない。
「結局、お金ですか」
「大事だ」
「そうでしょうけど」
「金があれば船が買える」
「船は嫌いなんでしょう?」
「嫌いだ」
「なのに買うんですか」
「ああ」
「変な人」
男が笑った。
「よく言われる」
「でしょうね」
二人はしばらく歩いた。
潮の匂いがした。
海鳥が鳴いている。
港では誰かが怒鳴っていた。
どこかで荷が落ちたらしく、大きな音がした。
男が反射的にそちらを見る。
「何を落としたんでしょうね」
「割れ物なら、持ち主が泣く」
「心配するところ、そこですか」
「他に何がある」
まつは、また少し笑った。
「お前」
唐人が言った。
「お前じゃありません」
「では?」
「何がです?」
「名前」
そういえば名乗っていなかった。
「田川まつ」
「たがわ」
「まつです」
「マツ」
少し発音が違った。
「ま、つ」
「マツ」
「まあ、それでいいです」
「まつ」
今度は少しましだった。
「あなたは?」
男が自分の胸を指した。
「鄭芝龍」
「てい……」
「鄭」
「てい」
「芝龍」
「しりゅう?」
男が何か言い直した。
まつには違いがよく分からなかった。
もう一度聞く。
「鄭芝龍?」
「そう」
まつは二度ほど繰り返してみた。
「覚えにくい名前ですね」
失礼だったかもしれない。
しかし男は怒らなかった。
むしろ楽しそうに笑った。
「そのうち、覚える」
「どうしてです?」
鄭芝龍は答えなかった。
本人にも理由などなかったのだろう。
ただ自信だけはあるらしい。
まつは肩をすくめた。
このとき彼女はまだ知らなかった。
その名を、自分が生涯忘れられなくなることを。
そしてその名が、やがて平戸よりも遥かに遠い海で、多くの人間に知られるようになることも。
もちろん。
鄭芝龍自身も、まだ知らなかった。
このころの彼が持っていたのは、大船団でも、官位でも、軍勢でもない。
少しばかりの荷物。
覚えたばかりの日本語。
そして――。
自分がまだ持っていないものの値段を考える癖だけだった。
第1話 了




