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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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7/14

フィリップさんが「閣下、最近穏やかになりましたね」と言って睨まれていました

 きっかけは、トーマスさんの一言だった。


 昼過ぎに厨房の前を通りがかったとき、料理長のトーマスさんが申し訳なさそうな顔でこちらを見た。


「奥様、少しよろしいですか」


「はい、何でしょう」


「閣下のことなのですが……お昼のお食事を、府でお抜きになることが多くて」


 私は立ち止まった。


「抜いている、というのは」


「毎日ではないのですが、仕事が立て込まれると、昼を召し上がらずにそのままお夕方まで、ということが」


「それは、体に悪いですね」


「ええ。以前から申し上げているのですが、閣下は『問題ない』とおっしゃって」


 トーマスさんが困った顔をしていた。

 長年仕えてきて、それでも改善できずにいるのだろう。


「お弁当をご用意して届けることはできないんですか」


「以前に一度、試みたのですが……閣下が『余計なことをするな』と」


(余計なことをするな、か)


 私は少し考えた。


「では、私が届けます」


 トーマスさんが目を丸くした。


「奥様が、ですか」


「お弁当を作ってくれますか。私が宰相府まで届けてきます。閣下が断ったとしても、私からなら多少は違うかもしれないので」


 トーマスさんがしばらく沈黙してから、はい、と言った。

 その顔が、少しだけ明るくなっていた。



   *



 話を聞いたレオナが「え!?」と声を上げた。


「宰相府に、奥様が直接行かれるんですか」


「はい。お弁当を届けるだけです」


「でも……閣下が怒りませんか」


「怒るかもしれません。でも昼を抜くのは体に悪いですから」


「そ、そうですけど」


 レオナが心配そうにしながらも、外出の支度を手伝ってくれた。


「もし何かあったらすぐ戻ってきてください」


「何かって、何がありますか」


「閣下に怒鳴られるとか」


「怒鳴るような方には見えないですけど」


「見えないだけで実はすごく怖い方かもしれないじゃないですか」


「その場合は、すぐ戻ります」


 レオナが「気をつけていってらっしゃいませ」と言った。

 どこか祈るような顔だった。



   *



 宰相府は、屋敷から馬車で十五分ほどの場所にある帝都の中心部に建っていた。


 石造りの重厚な建物で、屋敷よりもさらに格式が高い。

 正面の柱は白く、左右に衛兵が立っている。

 宰相夫人と名乗ると、衛兵が少し驚いた顔をしてから中に通してくれた。


(……閣下は毎日、こういう場所で仕事をしているのか)


 廊下を歩きながら、建物の雰囲気に少し圧倒された。

 前世でも官公庁の入ったビルに行ったことはあるが、石造りの回廊はまた違う重さがある。


 どこへ向かえばいいか迷っていると、廊下の向こうから足音が来た。


 金髪の、背の高い男性だった。

 年齢は三十前後くらい、几帳面そうな印象の整った顔立ちをしている。

 私に気づいて、足を止めた。


「……もしかして、宰相夫人でいらっしゃいますか」


「はい、アメリアと申します。閣下にお弁当を届けに参りました」


 男性が一瞬だけ目を見開いた。

 それからすぐに丁寧に頭を下げた。


「失礼いたしました。私はフィリップ・ヴォルフと申します。宰相閣下の副官を務めております」


「フィリップさん、ですか。よろしくお願いします」


「こちらこそ、お会いできて光栄です。閣下の執務室まで、ご案内いたします」


 フィリップさんが歩き出した。私は隣に並んだ。


「閣下から、奥様のことはお聞きしております」


「閣下から、ですか」


「はい。奥様が屋敷にいらした翌日から、閣下の様子が——」


 フィリップさんが少し言葉を選ぶような間を置いた。


「変わりました、と申しますか」


「どのように変わったのですか」


「それが……うまく言葉にしにくいのですが、穏やかになったと申しますか。表情が変わるわけではないのですが、府の空気が少し、やわらかくなりました」


 フィリップさんが苦笑した。


「府の職員が全員、気づいております」



   *



 閣下の執務室の扉の前で、フィリップさんがノックした。


「閣下、宰相夫人がお見えです」


「……入れ」


 扉の向こうから、短い返事が来た。


 フィリップさんが扉を開けて、私に中に入るよう促した。


 室内は書類の山が整然と並び、窓から帝都の街が見えた。

 閣下が机の前に座って、書類を見ている。

 視線を上げた。


「来たか」


「お昼を抜いていると聞いたので、お届けに参りました」


 私は弁当の包みを持ち上げた。


 閣下がしばらく私を見た。


「……トーマスが言ったのか」


「はい」


「……余計なことを」


「体のためです。受け取っていただけますか」


 閣下が少し間を置いてから、「置いておけ」と言った。

 断られなかった。


 私は机の端に弁当を置いた。


 そのとき、扉のそばにいたフィリップさんが口を開いた。


「……閣下」


「何だ」


「最近、穏やかになりましたね」


 室内の空気が、一瞬止まった。


 閣下がフィリップさんを見た。

 無表情だったが、目に圧があった。

 フィリップさんに向けられる目は、私に向けられるものより明らかに鋭い。


「……余計なことを言うな」


「申し訳ありません」


 フィリップさんが素直に謝った。

 でもその顔が、少しも反省していなかった。


 距離は二メートルほどあったが、スキルがかすかに届いた。


「(本当のことだが)」


 閣下の心の声が聞こえた。


(本当のことだと、思っているんですか)

(穏やかになったと、自覚があるんですか)


 私は弁当を置いた手をゆっくり引きながら、表情を保った。


 フィリップさんが私に向かって、声を潜めた。


「奥様のおかげだと思います、私は」


「フィリップ」


 閣下が静かに名前を呼んだ。

 低い声だった。


「はい、閣下」


「出ていけ」


「かしこまりました」


 フィリップさんが扉に向かいながら、私にだけ見えるように小さく頷いた。

 何かを伝えようとしているような、確信めいた頷きだった。



   *



 フィリップさんが出ていくと、執務室に静けさが戻った。


 私と閣下だけになった。


 机の上の書類、窓からの光、弁当の包み。

 閣下が弁当に視線を落として、また私を見た。


「……届けに来るために、ここまで来たのか」


「はい」


「わざわざ来なくていい」


「でも昼を抜くのは体に悪いです」


「問題ない」


「問題はあります」


 閣下が少し間を置いた。

 反論に慣れていないような間だった。


「……トーマスが何を作った」


「根菜のスープと、パンと、昨日の夕食で余った鶏肉の煮込みです。私も少し手伝いました」


「お前が作ったのか」


「トーマスさんと一緒に、少しだけ」


 また間があった。


「(……食べる)」


 心の声が聞こえた。


 声に出た言葉ではなかったが、意思はわかった。


「冷めないうちに召し上がってください」と私は言った。


「ああ」と閣下が返した。


 私は退室しようとして、振り返った。


「また来てもよろしいですか。毎日でなくていいので、抜きそうな日に」


 閣下がしばらく私を見た。


「……また来るか?」と聞いた。


「はい」


「(……来てほしい)」


 心の声が先に聞こえて、それから閣下が口を開いた。


「……好きにしろ」


「ありがとうございます」


 私は会釈をして、扉に向かった。


 扉に手をかけたとき、背後から視線を感じた。

 振り返らずに扉を開けた。


 廊下に出て、扉が閉まった。


 フィリップさんが廊下で待っていた。


「奥様、お帰りですか」


「はい。また来ることになりました」


「そうですか」


 フィリップさんが、穏やかに笑った。


「閣下が『また来るか』と聞いたということは——閣下としては、かなり素直な部類です」


「そうなんですか」


「はい。以前の閣下なら、断っていたと思います」


 廊下を並んで歩きながら、フィリップさんが言った。


「奥様、閣下のことをどうかよろしくお願いします。あの方は不器用なだけで、悪い方ではないので」


「……はい」


 私は頷いた。

 それは、もう知っていた。


 府の出口に向かう途中、廊下の窓から中庭が見えた。

 帝都の中心部にも、小さな花壇があって、白い花が植わっていた。


(白薔薇じゃないけど)

(白い花か)


 思ったとき、後ろからフィリップさんの声がした。


「あの花壇、先月まで別の花でした」


「そうなんですか」


「今月に入って、植え替えられました」


 フィリップさんが、さらりと言った。


「誰の指示かは、聞いていません。でも指示が出たのは、奥様がいらした翌週のことでした」


 私は立ち止まらなかった。

 立ち止まったら、顔を見られる気がした。


「そうですか」とだけ言って、廊下を歩き続けた。



   *



 馬車で屋敷に戻る途中、窓の外を見ながら今日のことを振り返った。


 フィリップさんという人がいた。

 よく見ている人だ、と思った。

 閣下の変化に気づいて、花壇のことも知っていて、私に教えてくれた。


(……閣下の周りには、ちゃんと人がいるんですね)


 そう思ったとき、少し安心した。


 屋敷に戻る前に、ひとつだけ思い出したことがあった。


 執務室を出るとき、振り返らなかった。

 でも扉が閉まる直前に、背後の気配が変わった気がした。


(何だったんだろう)


 レオナが屋敷の前で待っていた。


「お帰りなさいませ。どうでしたか、怒られましたか」


「怒られませんでした。また来ることになりました」


「え!? 閣下が許可したんですか」


「好きにしろ、と言っていただきました」


 レオナが目をぱちぱちさせた。


「フィリップさんという副官の方とも、お会いしました」


「どんな方でしたか」


「よく見ている方だな、と思いました」


「閣下の様子が変わったのは奥様のおかげとか、言ってきましたか」


「言ってきました。どうしてわかるんですか」


「だって言いそうじゃないですか、そういう方」


 レオナが笑いながら屋敷の中に戻った。


 私もついていきながら、さっきの「扉が閉まる直前の気配」を思い返した。


 そして気づいた。


 執務室の扉が閉まったとき——閣下の顔が、わずかに動いた気がした。

 口元が、ほんの少し。


(笑顔の練習の、成果だろうか)


 確認はできなかった。

 でも、そうだったかもしれない、と思った。


 そう思ったら、夕飯が少し楽しみになった。

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