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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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6/14

翌朝、閣下と朝食を食べました。昨夜のことは、二人とも何も言いませんでした

 目が覚めたら、椅子の上だった。


 昨夜、ドレスのままで回想しながら眠ってしまっていたらしい。

 レオナが気づいて毛布をかけてくれたようで、膝の上に薄い布がかかっていた。


 窓の外が白み始めている。


 体が少し固まっていたが、頭は妙にすっきりしていた。

 昨夜の帰路の馬車の中で、肩を借りて眠ったからかもしれない。


(……考えても仕方ないことを考えている)


 私は立ち上がって、着替えを始めた。



   *



 朝食の食堂に入ると、閣下はいつも通り先に来ていた。

 新聞を広げて、こちらを見ていない。


 いつも通りだった。


 昨夜のことなど、なかったかのようだ。

 私も「おはようございます」と言って、向かいの椅子に座った。

 閣下が「ああ」と返した。


 それだけだった。


 スープが運ばれてくる。閣下がページをめくる。私がスプーンを持つ。


 距離は一メートル。スキルが動く。


「(……よく眠れたか)」


 閣下の心の声が、静かに届いた。


 新聞から目を上げていない。表情も変わっていない。

 ただ心の中で、そう思っていた。


(……閣下も、気にしているんですか)


 私は「おかげさまで」と声に出さずに、スープを飲んだ。


「(顔色はいい。よかった)」


 続けて、聞こえた。


(見ていたんですか、顔色まで)

(新聞を読んでいたのでは)


 私は視線を上げないようにしながら、閣下の手元を横目で確認した。

 確かに新聞を持っているが、ページをめくる間隔が、読んでいるにしては短すぎる。


(……読んでいるふりをしながら、こちらを見ているのか)


 気づいてしまったら、スープが急においしくなった気がした。

 気のせいかもしれないが、少し笑いそうになったので、椀で顔を隠した。



   *



 朝食が終わると、閣下はいつも通り宰相府に出かけた。


 「仕事がある」という言葉もなく、立ち上がって一度だけこちらを見て、頷いて出ていった。

 代わりに、「(今日も、夕方に戻る)」が聞こえた。


 声に出せない言葉が、こちらには届く。

 少し不公平だと思いながら、私は食堂を出た。



   *



 部屋に戻ると、レオナが待ち構えていた。


「アメリア様」


 二人きりなので、「アメリア様」だ。


「昨夜のこと、聞いていいですか」


「……何をですか」


「全部です」


 レオナが椅子を引いて、私の向かいに座った。

 これは長い話になる、という気配がした。


「夜会で、何が聞こえましたか」


「誤作動が——」


「アメリア様」


 レオナが、穏やかだが有無を言わせない声で遮った。


「昨夜、『嬉しかった』と言いましたよね。誤作動で嬉しくなりますか」


 私は口を閉じた。


「聞こえたんでしょう。何て言ってましたか、閣下の心の声」


「……言いません」


「なぜですか」


「言葉にすると、現実になります」


「現実ですよ、もう」


「……」


「アメリア様」


 レオナが少し前のめりになった。


「馬車の中で、何があったか、マルタさんから聞いています」


「マルタさんから」


「馬車が屋敷に着いたとき、奥様が閣下の肩で眠っていたと。閣下がそのまま動かずにいたと」


 私は黙った。


「その間、何か聞こえましたか」


「……誤作動が」


「アメリア様」


「……」


「言ってください」


 レオナの目が、真剣だった。

 からかっているわけではなく、本当に心配している目だ。


 私は少し考えて、観念した。


「……『動けない。動きたくない』と聞こえました。『このままでいい』とも」


 レオナが静かに頷いた。


「それだけですか」


「屋敷に着いてから……『ずっとこうしていたかった』と」


 レオナが両手で顔を覆った。


「アメリア様」


「はい」


「それのどこが誤作動なんですか」


「……整合性がとれすぎていて、誤作動と言い張るのが難しくなってきました」


「やっと認めましたね」


 レオナが顔を上げた。その目が少し潤んでいた。


「嬉しいですよ、私は。アメリア様がやっと正直になってくださって」


「レオナ」


「はい」


「泣かないでください。私がどうしていいかわからなくなります」


「私が泣きたいんですよ」とレオナが言った。「男爵家でずっと、アメリア様が人の本音を聞きすぎて傷ついてきたのを、私は見てきましたから。閣下の心の声が本物なら、それは——」


「レオナ」


「はい」


「……わかっています」


 私はそう言って、窓の外の白薔薇を見た。


 わかっている。

 閣下の心の声は本物で、閣下は私のことを思っていて、私のために怒ってくれて、私の肩を借りていた間も、ずっとこうしていたかったと思っていた。


 わかっている。


(でも)


「……私には、どうすればいいかわからないんです」


 正直に言った。


「受け取り方が、わからない。誰かにこんなふうに思われることが、今まであまりなかったから」


「それは」とレオナが言った。「閣下も同じじゃないですかね」


「閣下が?」


「だって閣下も、誰かにこんなふうに接したことが、今まであまりなかったんじゃないかと思います。だからあんなに練習して、本読んで、花植えてるんじゃないですか」


 私は少し黙った。


「……そうかもしれないですね」


「お互い様じゃないですか」


「お互い様」


「はい」とレオナが言った。「だから焦らなくていいと思います。ただ——」


「ただ?」


「閣下の心の声を、いつまでも誤作動と呼ぶのは、そろそろやめてあげてください。閣下が可哀想です」


 昨日のレオナの言葉と同じだった。

 「閣下が可哀想」。


 私は「……考えます」と言った。

 レオナが「考えてください」と返した。



   *



 夜になって、廊下を歩いていたときのことだった。


 書斎の前を通った。

 扉は閉まっている。いつも通り、明かりが漏れている。


 仕事をしているのだろう。

 閣下が夕方に戻ってきてから、夕食を挟んで、また書斎に入った。


 私は前を向いて、通り過ぎようとした。


 でも足が、止まった。


 扉の前まで来たとき、スキルが動いた。


「(……おやすみ)」


 聞こえた。


 声に出していない言葉だった。

 心の中でだけ、そう思った言葉が、扉一枚を越えて届いた。


 閣下は、私が廊下を通ることを知っていたのだろうか。

 それとも、ただ夜になって、ふと思っただけなのか。


 どちらにしても——。


(……おやすみなさい、閣下)


 私は心の中で返した。

 声に出しても届かないとわかっていたが、返したかった。


 それから、自分の部屋に向かって歩き出した。


 廊下の窓から、庭が見えた。

 暗い中に、白薔薇の白が浮かんでいる。


 冬になっても咲く品種、とフリッツさんが言っていた。

 長く楽しんでほしい、という意味で選んだのだろう、とも。


(長く、か)


 私はしばらく窓の外を見ていた。


 長く、ここにいることを前提にして、冬も咲く花を植えた人が、扉の向こうで「おやすみ」と声に出さずに思っている。


 それが、どういうことなのかは——もうわかっている。


 わかっているのに、どうすればいいかわからない。


 でも、レオナの言った「お互い様」という言葉が、頭の中にあった。


(閣下も、わからないんですか)

(どうすればいいか)


 わからないもの同士が、同じ屋敷の中にいる。

 それだけは、確かなことだった。


 私は窓から離れて、部屋に戻った。

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