翌朝、閣下と朝食を食べました。昨夜のことは、二人とも何も言いませんでした
目が覚めたら、椅子の上だった。
昨夜、ドレスのままで回想しながら眠ってしまっていたらしい。
レオナが気づいて毛布をかけてくれたようで、膝の上に薄い布がかかっていた。
窓の外が白み始めている。
体が少し固まっていたが、頭は妙にすっきりしていた。
昨夜の帰路の馬車の中で、肩を借りて眠ったからかもしれない。
(……考えても仕方ないことを考えている)
私は立ち上がって、着替えを始めた。
*
朝食の食堂に入ると、閣下はいつも通り先に来ていた。
新聞を広げて、こちらを見ていない。
いつも通りだった。
昨夜のことなど、なかったかのようだ。
私も「おはようございます」と言って、向かいの椅子に座った。
閣下が「ああ」と返した。
それだけだった。
スープが運ばれてくる。閣下がページをめくる。私がスプーンを持つ。
距離は一メートル。スキルが動く。
「(……よく眠れたか)」
閣下の心の声が、静かに届いた。
新聞から目を上げていない。表情も変わっていない。
ただ心の中で、そう思っていた。
(……閣下も、気にしているんですか)
私は「おかげさまで」と声に出さずに、スープを飲んだ。
「(顔色はいい。よかった)」
続けて、聞こえた。
(見ていたんですか、顔色まで)
(新聞を読んでいたのでは)
私は視線を上げないようにしながら、閣下の手元を横目で確認した。
確かに新聞を持っているが、ページをめくる間隔が、読んでいるにしては短すぎる。
(……読んでいるふりをしながら、こちらを見ているのか)
気づいてしまったら、スープが急においしくなった気がした。
気のせいかもしれないが、少し笑いそうになったので、椀で顔を隠した。
*
朝食が終わると、閣下はいつも通り宰相府に出かけた。
「仕事がある」という言葉もなく、立ち上がって一度だけこちらを見て、頷いて出ていった。
代わりに、「(今日も、夕方に戻る)」が聞こえた。
声に出せない言葉が、こちらには届く。
少し不公平だと思いながら、私は食堂を出た。
*
部屋に戻ると、レオナが待ち構えていた。
「アメリア様」
二人きりなので、「アメリア様」だ。
「昨夜のこと、聞いていいですか」
「……何をですか」
「全部です」
レオナが椅子を引いて、私の向かいに座った。
これは長い話になる、という気配がした。
「夜会で、何が聞こえましたか」
「誤作動が——」
「アメリア様」
レオナが、穏やかだが有無を言わせない声で遮った。
「昨夜、『嬉しかった』と言いましたよね。誤作動で嬉しくなりますか」
私は口を閉じた。
「聞こえたんでしょう。何て言ってましたか、閣下の心の声」
「……言いません」
「なぜですか」
「言葉にすると、現実になります」
「現実ですよ、もう」
「……」
「アメリア様」
レオナが少し前のめりになった。
「馬車の中で、何があったか、マルタさんから聞いています」
「マルタさんから」
「馬車が屋敷に着いたとき、奥様が閣下の肩で眠っていたと。閣下がそのまま動かずにいたと」
私は黙った。
「その間、何か聞こえましたか」
「……誤作動が」
「アメリア様」
「……」
「言ってください」
レオナの目が、真剣だった。
からかっているわけではなく、本当に心配している目だ。
私は少し考えて、観念した。
「……『動けない。動きたくない』と聞こえました。『このままでいい』とも」
レオナが静かに頷いた。
「それだけですか」
「屋敷に着いてから……『ずっとこうしていたかった』と」
レオナが両手で顔を覆った。
「アメリア様」
「はい」
「それのどこが誤作動なんですか」
「……整合性がとれすぎていて、誤作動と言い張るのが難しくなってきました」
「やっと認めましたね」
レオナが顔を上げた。その目が少し潤んでいた。
「嬉しいですよ、私は。アメリア様がやっと正直になってくださって」
「レオナ」
「はい」
「泣かないでください。私がどうしていいかわからなくなります」
「私が泣きたいんですよ」とレオナが言った。「男爵家でずっと、アメリア様が人の本音を聞きすぎて傷ついてきたのを、私は見てきましたから。閣下の心の声が本物なら、それは——」
「レオナ」
「はい」
「……わかっています」
私はそう言って、窓の外の白薔薇を見た。
わかっている。
閣下の心の声は本物で、閣下は私のことを思っていて、私のために怒ってくれて、私の肩を借りていた間も、ずっとこうしていたかったと思っていた。
わかっている。
(でも)
「……私には、どうすればいいかわからないんです」
正直に言った。
「受け取り方が、わからない。誰かにこんなふうに思われることが、今まであまりなかったから」
「それは」とレオナが言った。「閣下も同じじゃないですかね」
「閣下が?」
「だって閣下も、誰かにこんなふうに接したことが、今まであまりなかったんじゃないかと思います。だからあんなに練習して、本読んで、花植えてるんじゃないですか」
私は少し黙った。
「……そうかもしれないですね」
「お互い様じゃないですか」
「お互い様」
「はい」とレオナが言った。「だから焦らなくていいと思います。ただ——」
「ただ?」
「閣下の心の声を、いつまでも誤作動と呼ぶのは、そろそろやめてあげてください。閣下が可哀想です」
昨日のレオナの言葉と同じだった。
「閣下が可哀想」。
私は「……考えます」と言った。
レオナが「考えてください」と返した。
*
夜になって、廊下を歩いていたときのことだった。
書斎の前を通った。
扉は閉まっている。いつも通り、明かりが漏れている。
仕事をしているのだろう。
閣下が夕方に戻ってきてから、夕食を挟んで、また書斎に入った。
私は前を向いて、通り過ぎようとした。
でも足が、止まった。
扉の前まで来たとき、スキルが動いた。
「(……おやすみ)」
聞こえた。
声に出していない言葉だった。
心の中でだけ、そう思った言葉が、扉一枚を越えて届いた。
閣下は、私が廊下を通ることを知っていたのだろうか。
それとも、ただ夜になって、ふと思っただけなのか。
どちらにしても——。
(……おやすみなさい、閣下)
私は心の中で返した。
声に出しても届かないとわかっていたが、返したかった。
それから、自分の部屋に向かって歩き出した。
廊下の窓から、庭が見えた。
暗い中に、白薔薇の白が浮かんでいる。
冬になっても咲く品種、とフリッツさんが言っていた。
長く楽しんでほしい、という意味で選んだのだろう、とも。
(長く、か)
私はしばらく窓の外を見ていた。
長く、ここにいることを前提にして、冬も咲く花を植えた人が、扉の向こうで「おやすみ」と声に出さずに思っている。
それが、どういうことなのかは——もうわかっている。
わかっているのに、どうすればいいかわからない。
でも、レオナの言った「お互い様」という言葉が、頭の中にあった。
(閣下も、わからないんですか)
(どうすればいいか)
わからないもの同士が、同じ屋敷の中にいる。
それだけは、確かなことだった。
私は窓から離れて、部屋に戻った。




