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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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8/14

レオナに「閣下のことが好きですか」と聞かれました。答えるのに時間がかかりました

 弁当を届けることが、いつの間にか習慣になっていた。


 最初の日から数えて五日が経った。

 毎日届けるわけではない。閣下が「今日は昼に戻る」と朝食の際に言った日は届けない。

 でも週に三回ほどは府に向かっていた。


 府の受付の衛兵も、私の顔を覚えてくれた。

 「宰相夫人のお越しです」と言う前に扉を開けてくれるようになった頃、フィリップさんが廊下で待ち構えるようになった。


「奥様、今日は根菜スープの日ですか」


「はい。それと焼き菓子を少し」


「閣下が喜びます」


「喜ぶかどうかは……」


「喜んでいます。言葉には出しませんが」


 フィリップさんがそう言って笑う。

 閣下が「余計なことを言うな」と睨む。

 私がその横で弁当を置く——というのが、定番の流れになってきた。


 閣下の執務室での時間は、毎回十分ほどだ。

 弁当を置いて、短く会話して、戻る。

 それだけだが、その十分の間の心の声が、毎回なかなか大変なことになっている。


「(来た)」「(今日は何を持ってきた)」「(冷めていないか)」——言葉にならない気遣いが、常に届いてくる。


 それを受け取りながら、私は少しずつ困っていた。


 本物だと認めた。

 閣下の心の声は本物で、閣下は私を思っている。


 でも、それに対して私はどう思っているのか。

 そこだけが、まだ自分の中でうまく整理できていなかった。



   *



 五日目の夕方、レオナが部屋に入ってきた。


「アメリア様、少しよろしいですか」


「何ですか」


「聞いていいですか、一つだけ」


 レオナの顔が、いつもより少し真剣だった。

 からかう前置きなしに、直接入ってくるときは、大事な話だ。


「……どうぞ」


「閣下のことが、好きですか」


 私は返事をしなかった。


 しばらく、窓の外の白薔薇を見ていた。

 夕暮れの光の中で、花が橙色に染まっている。


「……難しい質問ですね」


「難しくないと思います」


「難しいんです」


「なぜですか」


 私はしばらく黙った。


「……好き、という感情がどういうものか、自分でよくわからないんです」


「え?」


「嬉しいとか、安心するとか、側にいたいとか——そういう気持ちはあります。閣下が怒ってくれたとき、嬉しかった。馬車の中で眠ってしまったとき、起き上がりたくなかった。弁当を受け取ってもらえると、府から屋敷に帰る道が、少し軽い気がします」


「それ、全部好きじゃないですか」


「そうかもしれないですが」


「そうです」


「でも」


 私は膝の上に手を置いた。


「好きだとして、どうすればいいかわからない」


「受け取ればいいじゃないですか。閣下の気持ちを」


「それが——」


 言いかけて、止まった。


 どう言えばいいのか、うまくわからない。

 でもレオナは待っていた。急かさずに、ただ待っていた。


 私はゆっくり、言葉を選んだ。


「前世の話をしてもいいですか」


「聞きます」


「前世で——日本というところで生きていたころ、私はあまり目立たない人間でした。会社でも、友人関係でも、なんとなく空気のような存在で」


「そんなことは」


「あったんです」とやんわり遮った。「事実として、そうでした。誰かに特別扱いされるとか、誰かが私のために何かを、ということが、あまりなくて。好かれた記憶よりも、軽く扱われた記憶の方が多い」


 レオナが黙って聞いていた。


「同僚に『地味だね』と言われたことがあります。悪意があったわけじゃないと思います。でも、何人かから、折に触れてそういうことを言われて……自分でも、そういうものだと思うようになっていました。存在感がない、印象に残らない、特別ではない、と」


「……」


「この世界に転生してきてからも、同じでした。男爵家の娘で、器量も良くなくて、取り立てて目立つ部分もなくて。だから、政略結婚で宰相夫人になっても、閣下が本当に私を——」


 そこで、言葉が詰まった。


「本当に私を、見ているとは思えない、と」


「アメリア様」


「はい」


「それ、全部思い込みです」


 レオナが静かに言った。


「地味と言った人たちの言葉は、その人たちの感想であって、アメリア様の事実じゃない。存在感がないと思われていたのなら、その人たちがちゃんと見ていなかっただけです」


「でも、複数人から——」


「複数人でも同じです」


 レオナが、はっきりと言った。


「私は子どもの頃からアメリア様の側にいました。地味じゃないです。ちゃんと見れば、ちゃんとわかる人です。わかっている人は、わかっています」


「レオナ……」


「閣下も、わかっています。だから本を読んで練習して、花を植えて、弁当を受け取っています」


 私は少し黙った。


「……それはそうかもしれないですが」


「まだ否定しますか」


「否定、というより」


 私は正直に言った。


「怖いんです。信じて、間違えたら、と思うと」


「間違える、というのは?」


「やっぱり違いました、という状況になったときに、立ち直れるかどうか自信がなくて」


 レオナがしばらく私を見た。

 それから、静かに言った。


「アメリア様」


「はい」


「怖いなら、ゆっくりでいいと思います。でも——」


「でも?」


「閣下も、怖いんだと思います。同じように」


 私は顔を上げた。


「アメリア様が『嫌いになられたら』と怖がるように、閣下も怖がっていると思います。それでも、本を読んで、花を植えて、弁当を食べています。怖いのに、動いているんです」


 私は何も言えなかった。


「怖いもの同士が、怖いまま、少しずつ動いている。それでいいんじゃないですか」


 六話のレオナの言葉と重なった。

 お互い様、と言っていた。


(そうか)

(怖いのは、私だけじゃないのか)


 窓の外の白薔薇が、夕闇の中に白く浮かびはじめていた。


「……好きです、たぶん」


 声に出して言ったのは、初めてだった。


「閣下のことが。好きかもしれません」


「かもしれない、じゃなくて?」


「……好きです」


 言い直したら、耳が熱くなった。


 レオナが「よかった」と言った。泣きそうな顔だった。


「泣かないでください」


「泣いてないです。目が潤んでいるだけです」


「同じです」


「違います」


 二人でしばらく、ふふ、と笑った。



   *



 夕食を終えて、部屋に戻ろうとしたときだった。


 廊下で閣下と鉢合わせた。


 閣下が私を見て、一瞬止まった。

 それから口を開いた。


「明日、二人で出かけないか」


 唐突だった。


 心の声より先に、言葉が来た。


(……練習した、のか)


 と思った。

 声に出す前に、心の声が来ることが多い閣下が、今日は言葉を先に出した。


「……どちらへ、ですか」


「帝都の花市場が、今週末まで出ている」


 花市場。


「(……好きそうだと思ったが)」


 少し遅れて、心の声が届いた。


(白い花が好きと言っていたから、か)

(そういうことを、覚えていて、考えていて、誘ってくれるんですか)


「……行きます」と私は言った。


「そうか」と閣下が返した。


「(……よかった)」


 短い声が、聞こえた。


 閣下がまた歩き出した。私も自分の部屋に向かった。


 廊下を歩きながら、さっきのレオナの言葉を思い返した。


 怖いのに、動いている。


 閣下も、そうなのかもしれない。

 練習して、言葉を先に出して、誘ってくれた。


(……私も、ちゃんと受け取らないといけないですね)


 部屋の扉を開けて、中に入った。

 レオナがまだ起きていて、私の顔を見た瞬間に全部わかったらしく、「どうしました?」と聞いてきた。


「明日、閣下と二人で出かけることになりました」


 レオナが「え!?」と声を上げた。


「どこへですか」


「花市場です」


「花市場!!」


 レオナが両手で口を押さえた。

 目が完全に潤んでいた。


「今度こそ泣いていますよ」


「泣いてないです」


「泣いています」


 レオナが「……おやすみなさいませ、アメリア様」と言って部屋を出ていった。

 扉が閉まる前に、廊下で小さく「やった」という声が聞こえた気がしたが、聞こえなかったことにした。

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