書斎に「妻の喜ばせ方・完全版」という本がありました。付箋だらけでした
この屋敷に来て、四日が経った。
少しずつ、生活の輪郭が見えてきた。
閣下は毎朝、私より早く朝食の席につく。
食事中は新聞を読むか、書類に目を通している。
「おはよう」と言えるようになった以外、食卓での言葉は増えていない。
でも、私のスープが少なくなると、さりげなくお代わりを注ぐよう給仕に目で合図していることに気づいた。
スキルは関係ない。ただの観察だ。
朝食が終わると宰相府に向かい、戻るのは夕刻過ぎ。
夕食は別々のことも多いが、同席するときは静かに食べて「おやすみ」と言って自室に戻る。
「おやすみ」も、三日目から言えるようになった言葉だ。
(また練習したんだろうな、とは思っている)
思っているが、言わない。
確かめる術もないし、確かめる気もなかった。
とにかく、静かな屋敷だった。
そして静かなりに、居心地は悪くなかった。
前世のOL時代に「職場環境が合わない」と感じていた頃と比べれば、むしろ穏やかな部類に入る。あの頃は毎朝、通勤電車の中でため息をついていた。
今は、朝食の席で窓から庭が見える。
白薔薇の株が植わっているあたりに朝日が差し込む時間が、なんとなく好きになってきていた。
*
問題が起きたのは、四日目の昼過ぎのことだった。
正確には、問題というより——誘惑、と言うべきかもしれない。
廊下を歩いていたら、書斎の扉が数センチほど開いていた。
私は足を止めた。
書斎には入るな、と初日に言われている。
だから四日間、この扉の前を通るたびに視線を逸らしてきた。
でも今日は、扉の隙間から中が少し見えた。
本棚が、崩れかけていた。
積み重ねられた書類の山が、棚の端から今にも滑り落ちそうな角度で傾いている。
横倒しになった本が二冊、棚の前に落ちたまま放置されている。
机の上にも、書類が重なり合って地層のようになっていた。
(……あれは、いずれ崩れる)
前世のOL経験が、即座に判定を下した。
私は内側で葛藤した。
入るなと言われている。でも、あの状態を見てしまったら気になってしょうがない。
折よく、廊下の向こうから使用人の一人——たしかマルタさん、という中年の女性——が通りかかった。
「マルタさん、少しよろしいですか」
「はい、奥様」
「書斎の中が少し散らかっているようで……掃除をお手伝いしてもよいか、閣下に伺うことはできますか」
マルタさんが少し驚いた顔をしてから、「実は」と言った。
「三日ほど前に、閣下から申し伝えがありまして。奥様は屋敷の中をどこでもご自由にお使いいただいて構わないと」
「……三日前に?」
「はい。ただ、わざわざお伝えするほどのことでもないかと思いまして、申し上げていませんでした。ご不便をおかけして申し訳ございません」
三日前というのは、私が来た翌日のことだ。
(初日に「入るな」と言っていたのに)
(翌日には許可に変わっていた、ということか)
私はしばらくその情報を頭の中で転がした。
なぜ変わったのかは、わからない。
でも変わっていたのは、事実だ。
「……ありがとうございます。では、少し片付けてきます」
私は書斎の扉を、静かに押し開けた。
*
中に入ると、閉め切っていたためか少し空気がこもっていた。
まず窓を開けた。秋の風が入ってくる。
改めて室内を見回す。
本棚が三面に並び、机が中央にひとつ。
椅子は机用が一脚と、窓際に読書用らしい一脚。
本棚の本は、専門書が多い。帝国法典、財政に関する資料、外交の記録——閣下の仕事に関係する書籍ばかりだ。
整理の方針を決めてから取りかかる。
前世のOL時代に、デスク周りの整理は誰よりも得意だったと自負している。
まず崩れかけていた棚を直す。
本を一冊ずつ取り出して、判型別に並べ直す。
落ちていた二冊を拾い上げて、背表紙を確認してから適切な場所に戻す。
次に机の上の書類を、日付順に揃える。
重なっていた書類を一枚ずつ確認しながら、地層を解体していく。
黙々と作業を進めて、三十分ほどが経った頃だった。
本棚の一番端、他の本と少し離れた場所に、一冊だけ違う雰囲気の本があることに気づいた。
他が革張りの硬い専門書ばかりなのに、その一冊だけ布張りの柔らかい装丁をしている。
背表紙に印刷された文字を読んで、私は手を止めた。
良き夫のための
妻の喜ばせ方・完全版
著者名の下に小さく「元冷酷貴族・著」と書いてある。
(……良き、夫、のための)
私はその本を、慎重に取り出した。
表紙をめくると、すぐに付箋が貼られていた。
黄色い小さな付箋が、ページのあちこちから飛び出している。
一枚めくる。また付箋。めくる。また付箋。
数えてみたら、十七枚あった。
書き込みもある。
余白に、細かい字で何か書き込まれている。
読んでいいものかどうか迷った。
でも、もう手に持ってしまっている。
一か所だけ、と思って書き込みを読んだ。
「妻の好みを把握することが大切——とあるが、どうやって聞き出せばいいのか。直接聞くのは難しい」
その横に赤い線が引いてあって、さらに余白に「さりげなく会話の中で引き出す、とのこと。難しい」と追記されていた。
(……閣下が)
(この本を読んで、そういうことを考えていた)
私の頭の中で、何かが静かに音を立てた。
使用人一覧。
朝のスープへの視線。
鏡の前での練習の形跡。
「おはよう」という言葉と「(言えた)」という声。
そしてこの本の、十七枚の付箋と、びっしりと書き込まれた余白。
(……全部、繋がっている)
繋がっている、と思った瞬間に、私は本を棚に戻した。
音を立てないように、元の位置に、元の向きで。
そしてできるだけ自然な顔を作って、掃除の続きに戻った。
(幻聴だ)
(本は、たまたまあっただけだ)
(書き込みの意味は、わからない)
わからないことにした。
今はそれが、一番安全だった。
*
机の上が片付いてきた頃、廊下から足音が聞こえた。
閣下の足音は、歩幅が広くて一定のリズムがある。
四日間で、なんとなく覚えてしまっていた。
(まずい)
咄嗟にそう思ったのは、「入るな」と言われていた記憶が反射的に戻ってきたからだ。
マルタさんから許可を聞いたとはいえ、閣下本人からは何も聞いていない。
扉が開いた。
閣下が入ってくる。私と目が合う。
一秒の沈黙があった。
「……掃除か」
閣下が言った。
書斎の中を一瞥する。片付いた本棚、揃えられた書類、開かれた窓。
「任せる」
それだけ言って、机の椅子に向かった。
スキルが拾う。
「(……見られていないといいが)」
聞こえた瞬間、私は本棚の背表紙を整える作業に視線を落とした。
顔が赤くなっていないことを祈りながら。
(見ました)
(全部ではないですが、見ました)
(でも言えません)
黙って本棚の埃を払い続けた。
閣下は机に着いて書類を広げ、ペンを取った。
二人とも無言のまま、それぞれの作業を続けた。
窓から風が入るたびに、書類の端がかすかに揺れる。
それを閣下が手で押さえる、という動作が何度か繰り返された。
あと十分もあれば作業が終わる、というところで、私は「失礼します」と声をかけた。
「片付けが終わりましたので」
「ああ」と閣下が言った。
「……助かった」
それだけ言って、書類に視線を戻した。
「(言えた)」という声が、遠くから聞こえた気がしたが、距離がすでに二メートル以上あったので確かではない。
私は書斎の扉を、静かに閉めた。
*
廊下に出て、二歩歩いたところで気づいた。
掃除の途中で机の上に積んでいた小物を、戻し忘れていた。
私は引き返して、扉を軽くノックした。
「失礼します。小物を置き忘れましたので」
「入れ」
扉を開けて机に近づく。
ペン立てと小さな文鎮を拾い上げた。
机の隅に、小さな紙が一枚、折りたたまれずに置かれているのが目に入った。
見るつもりはなかった。
でも、書かれていた文字が視界に飛び込んできた。
アメリアが好きな花——要確認
それだけ書いてあった。
閣下がこちらを見た。
私が紙を見ていることに気づいたのだろう。一瞬だけ間があった。
「……庭師に聞く予定だったものだ」
と、閣下が言った。
それ以上の説明はなかった。
「はい」と私は返した。
それ以上の返答も、できなかった。
小物を持って、書斎を出た。
扉を閉めて、廊下に立って、私はしばらく動けなかった。
(好きな花)
(わざわざ、メモに書いて、庭師に確認しようとしていた)
四日前、初日の屋敷の案内のとき、私が何気なく言ったのだ。
白い花が好きだ、と。フリッツさんに白薔薇の話を聞いたときに。
閣下は、あのとき廊下の少し先を歩いていた。
聞こえていた、のか。
(……幻聴だ)
私は深呼吸をした。
(幻聴だ。あのメモは、何か別の意味がある。庭の植え替えの参考にするためかもしれない。屋敷の趣味として、妻の好みを把握しておく必要があるというだけかもしれない)
いくつも理由を並べながら、自室に戻った。
レオナが「おかえりなさいませ。どうでしたか」と聞いてきた。
「……片付けが、思ったより大変でした」
「閣下の書斎ですよね。入れてもらえたんですか」
「マルタさんに確認したら、許可をいただいていたようです」
「へえ」とレオナが言った。「閣下、許可してたんですね。意外」
私も意外だと思った。
でも言わなかった。
「あと」とレオナが続けた。「何か聞こえましたか」
「誤作動が一つ」
「また誤作動ですか」
「また誤作動でした」
レオナが「そういうことにしておきますね」と言った。
私も「そうします」と返した。
本のことは、言わなかった。
メモのことも、言わなかった。
言葉にしてしまうと、幻聴でなくなってしまう気がしたから。




