庭に白薔薇が植えられていました。私の好きな花です。偶然ですよね
翌朝、庭に出たら、見慣れない株が並んでいた。
昨日までは確かになかった。
昨日の昼に書斎の窓を開けたとき、庭の様子を見ていたから間違いない。
白い花だった。
まだ蕾が多いが、一輪だけ開いているものがある。
五枚の花弁が、朝の光の中でわずかに透けていた。
白薔薇だった。
(……フリッツさんが植えたのか)
そう思いながら近づく。
十株ほど、等間隔に並んで植えられている。
土が新しい。昨日か、あるいは今朝の早い時間に植えられたものだ。
フリッツさんが庭の奥から顔を出した。
「奥様、おはようございます」
「おはようございます。この白薔薇は……」
「昨日の夕方に植えました」
フリッツさんが言った。
その顔が、少しだけ笑っていた。
「閣下からご指示がありまして。急ぎで、とのことでしたので」
「閣下から」
「はい。どの品種にするかも、閣下がご指定されました。白の、香りが強すぎないものを、と」
私は白薔薇を見た。
それから、フリッツさんを見た。
「……そうですか」
「気に入っていただけましたか」
「はい。とても」
フリッツさんが嬉しそうに頷いて、また庭の奥へ戻っていった。
私はしばらく、その場に立っていた。
昨日の夕方に指示が出た、ということは——昨日の昼に私が書斎に入って、メモを見た後ということになる。
(あのメモは、庭師に確認するための下準備だったのか)
「アメリアが好きな花——要確認」と書いてあった。
確認して、植えた。
一日で。
私はもう一度、白薔薇に目を向けた。
香りが強すぎないもの、という品種の指定まであった。
白い花が好きだ、とフリッツさんに話したときに「でも香りが強いと少し苦手で」と言ったことも、覚えていたのだろうか。
(……違う)
(偶然かもしれない)
(庭に白薔薇を植えるのは、特別なことではない)
私は踵を返して、屋敷の中へ戻った。
*
朝食の席で、閣下に聞いた。
聞かずにいられなかった、という方が正確かもしれない。
「閣下、庭に白薔薇が植えられていましたが」
閣下が新聞から目を上げた。
「庭師が勝手に植えた」
一言で返した。
また新聞に視線を戻した。
(庭師が、勝手に)
私はその返答をしばらく頭の中で転がした。
でも昨日、フリッツさんは「閣下からご指示がありまして」と言った。
閣下が指示して、閣下が品種を指定して——それを「庭師が勝手に」と言っている。
距離は一メートル。スキルが動いている。
「(好きと言っていたから。喜んでもらえるといいが)」
聞こえた。
私はスープのお代わりを注いでいた給仕の手元を、意味もなく見つめた。
(好きと言っていたから)
閣下が、そう思っている。
心の声が、そう言っていた。
(……いつ言ったんだろう、と思うかもしれない。でも私には心当たりがある)
この屋敷に来た初日、使用人一覧を受け取った後、午後にフリッツさんに挨拶をした。
白薔薇が得意だと話してくれたとき、私は「白薔薇、好きです。香りが強すぎなくて好きなんです」と言った。
そのとき閣下は屋敷にいなかったはずだ。
宰相府に出かけていた。
では——誰かから聞いた?
フリッツさんか、あるいは別の使用人か。
(それとも)
(まさか、最初の案内のとき……?)
初日の廊下の案内のとき、「庭は自由に使っていい」と言われて、私は「白い花が好きなので嬉しいです」とこぼした。
あのとき閣下は前を向いて歩いていた。
振り返りもせず、返事もしなかった。
聞いていないと思っていた。
(聞いていたのか)
スープが冷めていることに気づいた。
ずっと手を止めていた。
私はスプーンを動かしながら、頭の中で答え合わせをした。
初日に聞いていた。
メモに書いた。
フリッツさんに品種まで指定して、一日で植えさせた。
全部、繋がっている。
(……幻聴が)
(幻聴が、現実と繋がり始めた)
「奥様、どうかされましたか」
正面から、閣下の声がした。
閣下が新聞を畳んで、こちらを見ていた。
表情は変わらない。でも、視線がまっすぐこちらに向いている。
「……いえ。白薔薇が綺麗だと思っていました」
「そうか」
閣下が短く返して、立ち上がった。
「仕事がある」
いつもの言葉で、食堂を出ていった。
「(喜んでもらえたなら、よかった)」
扉が閉まる直前に、聞こえた。
*
レオナには、白薔薇のことだけ話した。
「閣下が庭師に指示して植えさせたみたいです」
「え! 閣下が?」
「フリッツさんに確認したので、間違いないです」
レオナが目を丸くして、それからにやりとした。
「で、何て聞こえましたか、心の声」
「誤作動が一つ」
「また誤作動ですか」
「また誤作動でした」
「奥様」とレオナが言った。「さすがに誤作動が多すぎませんか」
「……多いとは思っています」
「思ってるなら——」
「でも」と私は遮った。「誤作動じゃないとしたら、困ります」
レオナが少し黙った。
「困る、とは?」
「私が、どうすればいいかわからなくなります」
自分でも、うまく言葉にできない感覚だった。
幻聴なら、受け流せる。ただ聞こえた声として、処理できる。
でも本当のことなら、私はどう受け取ればいいのか。
前世から数えても、誰かに「かわいい」と思われた経験が——少なくとも本音で——あったかどうか、怪しいのだ。
「奥様は」とレオナが静かに言った。「自分が誰かに好かれるはずがない、と思っているんですか」
「……そういうわけでは」
「そういうわけに聞こえます」
私は返す言葉がなかった。
レオナが「まあ、焦らなくていいですよ」と言った。「ただ、あんまり長く幻聴にしておくと、閣下が可哀想な気もしますけど」
「閣下が?」
「だって閣下は、ちゃんとやってるじゃないですか。本読んで、練習して、花植えて。それを全部幻聴にされたら、報われないですよ」
私は白薔薇の方角を、窓越しに見た。
(……そうかもしれない)
*
昼過ぎ、庭に出た。
白薔薇の株のそばに、小さな腰掛けを持ち出して座った。
秋晴れで、風が穏やかだ。
近くで見ると、蕾がいくつかほころびかけているのがわかった。
もう少しで、全部咲く。
「ご機嫌ですね」
フリッツさんが隣に来て、花の様子を確認しながら言った。
「白薔薇ですか」
「はい」
「この品種は、寒い時期でも咲くんです。冬になってもここにいてくれますよ」
「そうなんですね」
「閣下も、そういう品種を選ばれました。長く楽しんでほしい、ということじゃないかと思います」
フリッツさんが何気なく言って、また作業に戻った。
私は白薔薇を見ながら、その言葉をゆっくり反芻した。
長く楽しんでほしい。
閣下が、そう考えて品種を選んだ。
冬になっても、ここで咲いている花を見ていてほしい、ということか。
(それは——)
(長く、ここにいてほしい、ということか)
考えすぎかもしれない。
でも、そう思えてしまった。
*
夕刻、閣下が宰相府から戻った。
私は廊下でちょうど鉢合わせた。
「閣下、白薔薇をありがとうございます」
口から出た言葉は、想像より素直だった。
閣下が止まった。
一秒ほど間があった。
「庭師が——」
「フリッツさんに確認しました」
言ったら、閣下が黙った。
珍しく、返す言葉を探しているような間だった。
「……庭の彩りに必要だと思ったまでだ」
そう言った。
それ以上は何も言わなかった。
距離は一メートルを切っていた。
「(怖い)」
聞こえた。
ただの一言が、聞こえた。
私は「これからも、よろしくお願いします」と返して、そのまま廊下を進んだ。
閣下も、自室の方へ歩いていった。
二人の足音が、それぞれ別の方向に遠ざかっていく。
*
部屋に戻ってから、私はしばらく窓の外を見ていた。
暗くなった庭の中に、白薔薇の白がかすかに浮かんでいる。
(怖い、って)
あの心の声が、頭の中で繰り返されていた。
怖い、という感情だ。
何が怖いのか、その一言だけではわからない。
でも確かに、閣下は何かを怖がっていた。
今日の流れを振り返る。
私が「ありがとうございます」と言った。閣下が「庭師が——」と言いかけた。確認済みだと伝えた。閣下が言い訳を変えた。
そのやりとりの中のどこかで、「怖い」という感情が湧いた。
(……ばれた、と思ったのか)
(それとも)
(私が、どう反応するかが、怖かったのか)
考えていたら、頭が少し痛くなってきた。
私は幻聴だと言い続けてきた。
でも今夜は、少しだけ正直に認めてみた。
たぶん、幻聴ではない。
閣下の心の声は、本物だ。
では、あの「怖い」も、本物だ。
(怖いんですか、閣下)
(私に、何かを知られるのが)
(それとも——何か別のことが)
答えは、わからなかった。
でも、「怖い」という言葉がこんなにも頭に残るということは——私も、何かを怖がり始めているのかもしれない、とは思った。
窓の外で、白薔薇が夜風に揺れた。




