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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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2/14

閣下の心の声が今日も聞こえます。「笑い方を練習したい」って何ですか

 翌朝、目が覚めた瞬間に決意を新たにした。


 今日は、一・五メートルを守る。


 昨日は緊張と慣れない環境のせいで、距離感の管理が甘くなっていた。

 廊下の角で詰まったのも、閣下の部屋の前でうっかり立ち止まったのも、すべて準備が足りなかったからだ。


 今日からは違う。

 食事の席は斜め向かいを選ぶ。廊下では少し距離をあけて歩く。会話の際は一・五メートルより外から返事をする。


 完璧な計画だった。


「おはようございます、奥様。朝食の準備ができています」


 レオナが部屋の扉を開けながら言った。


「ありがとうございます。閣下はもう食堂に?」


「はい。先に来てらっしゃいます」


「……そうですか」


 計画がいきなり試される。

 私は気を引き締めて、廊下を歩いた。



   *



 食堂の扉を開けて、すぐに気づいた。


 テーブルが、思っていたより小さかった。


 昨日の案内の際に「食堂はここだ」とだけ言われて中を見ていなかった私は、豪奢な屋敷に広い食堂があると思い込んでいた。

 違った。


 使われているのは朝食用の小テーブルらしく、縦横が一メートルほどしかない。

 椅子は向かい合わせに二脚。


 閣下がすでに着席していた。

 新聞を広げて、こちらを見ていない。


(向かい合わせしか、ない)


 斜め向かいの計画は、テーブルの形状によって一瞬で崩れた。


「どうぞ」とレオナが私の椅子を引く。


 座るしかなかった。


 閣下と私の距離、およそ一メートル。


 スキルが、静かに発動した。


「(……来た)」


 閣下の声が聞こえた。

 新聞から目を上げることなく、表情ひとつ変えていない。


 でも心の中では、私が来たことを認識していた。


(……これも、誤作動だ)


 私はそう思いながら、運ばれてきたスープに手をつけた。


「いただきます」


 小さく言うと、閣下が新聞を少し下げてこちらを見た。


「……ああ」


 それだけ言って、また新聞に視線を戻した。


 食堂には、スプーンがスープに触れる音と、新聞のページをめくる音だけが漂った。



   *



 沈黙は、苦ではなかった。


 前世でも無口な上司と二人きりで残業したことは何度もある。

 黙って仕事をこなせる人間と同じ空間にいるのは、むしろ楽だ。


 ただ、一メートルという距離は問題だった。


 スキルが、断続的に拾ってくる。


「(……パンを、食べるか)」


 閣下がパンに手を伸ばす前に心の声が来た。次の瞬間、本当に手が動いた。

 誤作動にしては、行動と声が完璧に一致している。


「(スープの量、足りているか)」


 閣下がちらっと私のスープ皿を見た。視線の動きが、声と一致した。


(……整合性が、ある)


 昨夜も同じことを考えた。

 幻聴なら、行動との一致がここまで精密になるはずがない。


 でも。


 だとしたら、閣下は朝から私のスープの量を気にしているということになる。


(それは、ない)


 私は自分にそう言い聞かせながら、スープを飲んだ。



   *



 問題は、朝食の終わりに起きた。


 閣下が新聞を畳んで立ち上がった。宰相府に向かう前に、テーブルの端に紙を置いた。


「これを」


 私に向けて差し出しながら、一言だけ言った。


 受け取ろうと手を伸ばしたとき、閣下の指先と私の指先が、一瞬だけ触れた。


 その瞬間。


「(温かい)」


 聞こえた。


 ほんの一音節の、短い声だった。

 でも、確かに聞こえた。


 私は紙を受け取りながら、内心で盛大に動揺した。


(温かい、って)

(私の指が、温かいと思った、という……?)

(いやでも、これは——)


「……奥様」


 背後からレオナの声がした。


「顔が、赤いですよ」


 私は咄嗟に紙で顔を半分隠した。


 閣下はすでに食堂の扉へ向かっていた。

 「仕事がある」と言い残して、出ていった。


 私はしばらく、紙を持ったまま椅子に座っていた。


 受け取った紙を見ると、屋敷の使用人の名前と担当区域が書かれた一覧だった。

 「屋敷のことで不明な点があれば、担当者に聞くといい」という意味だろう。


 気が利いている。

 無口なくせに、気が利いている。


「……誤作動が、酷いですね」


 私は小さく呟いた。


「ですよね」とレオナが言った。「で、今度は何て聞こえたんですか」


「教えません」


「なんで」


「誤作動なので」


 レオナが「そういうことにしておきますね」と言った。

 昨日も同じ言葉を言われた気がした。



   *



 昼間は、屋敷の中を把握することに費やした。


 一覧表を頼りに使用人に話しかけて回る。前世のOL時代に培った「初日に顔と名前を一致させる」習慣だ。

 料理長の名前はトーマスさんといい、背が低くて眉が濃かった。

 庭師のおじいさんはフリッツさんといい、白薔薇が得意だと言っていた。


 使用人たちは最初こそ緊張した顔をしていたが、話しかけるうちに少しずつほぐれてきた。

 「宰相夫人とは思えないほど気さくな方だ」と、廊下の角で誰かがこそっと言っているのが聞こえた。

 スキルではなく、普通に聞こえた声だったので、私は聞こえないふりをして通り過ぎた。


 夕方、閣下が宰相府から戻ってくる前に、レオナと一緒に洗面を済ませようと思って廊下を歩いた。


 洗面室の前を通ったとき、扉が少し開いていた。


 中に人はいない。

 でも、壁際の鏡が、いつもと違う角度になっていた。


(……?)


 私は少し立ち止まった。


 鏡台ではなく、壁に据え付けられた大きな姿見だ。

 本来は真正面を映す角度で固定されているはずなのに、今は少しだけ斜めを向いている。


 誰かが、自分で動かした跡だ。


 それだけなら気にしなかった。

 でも鏡の表面に、かすかな曇りがあった。

 息を吹きかけたときにできるような、近距離から向き合った人間の吐息の痕跡だ。


 最近使われた形跡が、ある。


(……誰が?)


 使用人なら、自分の部屋に鏡がある。わざわざここで長時間鏡を使う理由がない。


 では、誰が。


「奥様、どうかしましたか」


 後ろからレオナが覗き込んでくる。


「……いえ。鏡が、ずれていたので」


「本当ですね。誰かが使ったのかしら」


「そうですね」


 私は鏡を元の角度に戻しながら、頭の中で消去法をした。


 この屋敷に住んでいるのは、使用人と、閣下と、今日からの私だ。

 使用人には理由がない。

 私は今日初めてこの廊下に来た。


 では——。


(まさか、閣下が)

(この鏡で、何かを……?)


 思いかけて、私は首を振った。


 違う。それはない。

 冷酷無比の宰相閣下が、洗面室の姿見の前で何かをするなど、あり得ない。


 でも朝の心の声が頭の中でもう一度流れた。


「(……笑えたら、もう少し話しかけてもらえるだろうか)」


 あれも、聞こえていた。

 朝食の最中に、無表情のまま、心の中で。


(笑えたら、話しかけてもらえるかどうか、考えていた)

(そしてこの鏡が、今日の昼間に使われた痕跡がある)


 そこから先を、私は考えるのをやめた。


 幻聴だ。

 鏡は誰かが掃除のときにずらしただけだ。


 そう決めて、洗面を済ませて部屋に戻った。



   *



 その夜は、なかなか眠れなかった。


 天井を見ながら、今日聞こえた心の声を並べた。


「(来た)」「(スープの量、足りているか)」「(温かい)」「(笑えたら、もう少し話しかけてもらえるだろうか)」


 並べると、ひとつの像が浮かび上がってくる。


 朝食に私が来ることを待っていて。私のスープが足りているか気にして。指が触れた瞬間に温かいと思って。笑えるようになれば、もう少し話せるかもしれないと考えている。


 そういう人間の像が。


(幻聴が、人格を持ち始めている)


 私はそう思いながら目を閉じた。



   *



 翌朝。


 廊下で閣下と鉢合わせた。


 今日も宰相府に向かうところらしく、外出の装いをしている。

 私は反射的に距離を測った。二メートル。スキルは発動しない。


 このまますれ違えば問題ない。


 そう思って会釈をしかけたとき、閣下が口を開いた。


「おはよう」


 立ち止まって、そう言った。


「(言えた)」


 声と同時に、心の声が届いた。

 距離が、一・五メートルを切っていた。


 たった二文字。

 「おはよう」という、朝の挨拶。


 なのに、「言えた」という心の声が続いた。


(……言えた、って)

(練習、していたんですか)


 私は一瞬、言葉に詰まった。

 それから、ちゃんと返した。


「おはようございます、閣下」


 閣下が、軽く頷いた。

 それだけで、また歩き出した。


 私はその背中を見送りながら、胸の奥がじわっと痛むのを感じた。


 痛む、という表現が正しいかどうかはわからない。

 ただ、何かが——何か小さなものが——そこに刺さったような感覚だった。


(幻聴だとしても)


 私は心の中で呟いた。


(幻聴だとしても、あんな声を聞かされたら——)


 廊下の先で、レオナが「奥様、また顔が赤いですよ」と言った。


 今日も、始まってしまった。

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