閣下の心の声が今日も聞こえます。「笑い方を練習したい」って何ですか
翌朝、目が覚めた瞬間に決意を新たにした。
今日は、一・五メートルを守る。
昨日は緊張と慣れない環境のせいで、距離感の管理が甘くなっていた。
廊下の角で詰まったのも、閣下の部屋の前でうっかり立ち止まったのも、すべて準備が足りなかったからだ。
今日からは違う。
食事の席は斜め向かいを選ぶ。廊下では少し距離をあけて歩く。会話の際は一・五メートルより外から返事をする。
完璧な計画だった。
「おはようございます、奥様。朝食の準備ができています」
レオナが部屋の扉を開けながら言った。
「ありがとうございます。閣下はもう食堂に?」
「はい。先に来てらっしゃいます」
「……そうですか」
計画がいきなり試される。
私は気を引き締めて、廊下を歩いた。
*
食堂の扉を開けて、すぐに気づいた。
テーブルが、思っていたより小さかった。
昨日の案内の際に「食堂はここだ」とだけ言われて中を見ていなかった私は、豪奢な屋敷に広い食堂があると思い込んでいた。
違った。
使われているのは朝食用の小テーブルらしく、縦横が一メートルほどしかない。
椅子は向かい合わせに二脚。
閣下がすでに着席していた。
新聞を広げて、こちらを見ていない。
(向かい合わせしか、ない)
斜め向かいの計画は、テーブルの形状によって一瞬で崩れた。
「どうぞ」とレオナが私の椅子を引く。
座るしかなかった。
閣下と私の距離、およそ一メートル。
スキルが、静かに発動した。
「(……来た)」
閣下の声が聞こえた。
新聞から目を上げることなく、表情ひとつ変えていない。
でも心の中では、私が来たことを認識していた。
(……これも、誤作動だ)
私はそう思いながら、運ばれてきたスープに手をつけた。
「いただきます」
小さく言うと、閣下が新聞を少し下げてこちらを見た。
「……ああ」
それだけ言って、また新聞に視線を戻した。
食堂には、スプーンがスープに触れる音と、新聞のページをめくる音だけが漂った。
*
沈黙は、苦ではなかった。
前世でも無口な上司と二人きりで残業したことは何度もある。
黙って仕事をこなせる人間と同じ空間にいるのは、むしろ楽だ。
ただ、一メートルという距離は問題だった。
スキルが、断続的に拾ってくる。
「(……パンを、食べるか)」
閣下がパンに手を伸ばす前に心の声が来た。次の瞬間、本当に手が動いた。
誤作動にしては、行動と声が完璧に一致している。
「(スープの量、足りているか)」
閣下がちらっと私のスープ皿を見た。視線の動きが、声と一致した。
(……整合性が、ある)
昨夜も同じことを考えた。
幻聴なら、行動との一致がここまで精密になるはずがない。
でも。
だとしたら、閣下は朝から私のスープの量を気にしているということになる。
(それは、ない)
私は自分にそう言い聞かせながら、スープを飲んだ。
*
問題は、朝食の終わりに起きた。
閣下が新聞を畳んで立ち上がった。宰相府に向かう前に、テーブルの端に紙を置いた。
「これを」
私に向けて差し出しながら、一言だけ言った。
受け取ろうと手を伸ばしたとき、閣下の指先と私の指先が、一瞬だけ触れた。
その瞬間。
「(温かい)」
聞こえた。
ほんの一音節の、短い声だった。
でも、確かに聞こえた。
私は紙を受け取りながら、内心で盛大に動揺した。
(温かい、って)
(私の指が、温かいと思った、という……?)
(いやでも、これは——)
「……奥様」
背後からレオナの声がした。
「顔が、赤いですよ」
私は咄嗟に紙で顔を半分隠した。
閣下はすでに食堂の扉へ向かっていた。
「仕事がある」と言い残して、出ていった。
私はしばらく、紙を持ったまま椅子に座っていた。
受け取った紙を見ると、屋敷の使用人の名前と担当区域が書かれた一覧だった。
「屋敷のことで不明な点があれば、担当者に聞くといい」という意味だろう。
気が利いている。
無口なくせに、気が利いている。
「……誤作動が、酷いですね」
私は小さく呟いた。
「ですよね」とレオナが言った。「で、今度は何て聞こえたんですか」
「教えません」
「なんで」
「誤作動なので」
レオナが「そういうことにしておきますね」と言った。
昨日も同じ言葉を言われた気がした。
*
昼間は、屋敷の中を把握することに費やした。
一覧表を頼りに使用人に話しかけて回る。前世のOL時代に培った「初日に顔と名前を一致させる」習慣だ。
料理長の名前はトーマスさんといい、背が低くて眉が濃かった。
庭師のおじいさんはフリッツさんといい、白薔薇が得意だと言っていた。
使用人たちは最初こそ緊張した顔をしていたが、話しかけるうちに少しずつほぐれてきた。
「宰相夫人とは思えないほど気さくな方だ」と、廊下の角で誰かがこそっと言っているのが聞こえた。
スキルではなく、普通に聞こえた声だったので、私は聞こえないふりをして通り過ぎた。
夕方、閣下が宰相府から戻ってくる前に、レオナと一緒に洗面を済ませようと思って廊下を歩いた。
洗面室の前を通ったとき、扉が少し開いていた。
中に人はいない。
でも、壁際の鏡が、いつもと違う角度になっていた。
(……?)
私は少し立ち止まった。
鏡台ではなく、壁に据え付けられた大きな姿見だ。
本来は真正面を映す角度で固定されているはずなのに、今は少しだけ斜めを向いている。
誰かが、自分で動かした跡だ。
それだけなら気にしなかった。
でも鏡の表面に、かすかな曇りがあった。
息を吹きかけたときにできるような、近距離から向き合った人間の吐息の痕跡だ。
最近使われた形跡が、ある。
(……誰が?)
使用人なら、自分の部屋に鏡がある。わざわざここで長時間鏡を使う理由がない。
では、誰が。
「奥様、どうかしましたか」
後ろからレオナが覗き込んでくる。
「……いえ。鏡が、ずれていたので」
「本当ですね。誰かが使ったのかしら」
「そうですね」
私は鏡を元の角度に戻しながら、頭の中で消去法をした。
この屋敷に住んでいるのは、使用人と、閣下と、今日からの私だ。
使用人には理由がない。
私は今日初めてこの廊下に来た。
では——。
(まさか、閣下が)
(この鏡で、何かを……?)
思いかけて、私は首を振った。
違う。それはない。
冷酷無比の宰相閣下が、洗面室の姿見の前で何かをするなど、あり得ない。
でも朝の心の声が頭の中でもう一度流れた。
「(……笑えたら、もう少し話しかけてもらえるだろうか)」
あれも、聞こえていた。
朝食の最中に、無表情のまま、心の中で。
(笑えたら、話しかけてもらえるかどうか、考えていた)
(そしてこの鏡が、今日の昼間に使われた痕跡がある)
そこから先を、私は考えるのをやめた。
幻聴だ。
鏡は誰かが掃除のときにずらしただけだ。
そう決めて、洗面を済ませて部屋に戻った。
*
その夜は、なかなか眠れなかった。
天井を見ながら、今日聞こえた心の声を並べた。
「(来た)」「(スープの量、足りているか)」「(温かい)」「(笑えたら、もう少し話しかけてもらえるだろうか)」
並べると、ひとつの像が浮かび上がってくる。
朝食に私が来ることを待っていて。私のスープが足りているか気にして。指が触れた瞬間に温かいと思って。笑えるようになれば、もう少し話せるかもしれないと考えている。
そういう人間の像が。
(幻聴が、人格を持ち始めている)
私はそう思いながら目を閉じた。
*
翌朝。
廊下で閣下と鉢合わせた。
今日も宰相府に向かうところらしく、外出の装いをしている。
私は反射的に距離を測った。二メートル。スキルは発動しない。
このまますれ違えば問題ない。
そう思って会釈をしかけたとき、閣下が口を開いた。
「おはよう」
立ち止まって、そう言った。
「(言えた)」
声と同時に、心の声が届いた。
距離が、一・五メートルを切っていた。
たった二文字。
「おはよう」という、朝の挨拶。
なのに、「言えた」という心の声が続いた。
(……言えた、って)
(練習、していたんですか)
私は一瞬、言葉に詰まった。
それから、ちゃんと返した。
「おはようございます、閣下」
閣下が、軽く頷いた。
それだけで、また歩き出した。
私はその背中を見送りながら、胸の奥がじわっと痛むのを感じた。
痛む、という表現が正しいかどうかはわからない。
ただ、何かが——何か小さなものが——そこに刺さったような感覚だった。
(幻聴だとしても)
私は心の中で呟いた。
(幻聴だとしても、あんな声を聞かされたら——)
廊下の先で、レオナが「奥様、また顔が赤いですよ」と言った。
今日も、始まってしまった。




