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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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冷酷宰相に嫁ぎました。

 私には、少し困ったスキルがある。


 他人の心の声が聞こえるのだ。


 声に出していない言葉が、近くにいるとぼんやりと耳に届く。

 相手が心の中で思っていること——本音、感情、その瞬間一番強く浮かんでいるもの——が、音になって流れ込んでくる。


 転生したときに神様から授かったスキルらしかった。

 前世は日本でOLをしていたアメリア……いや、その頃は別の名前だったけれど、今の私はアメリア・ローゼン。カルシア帝国の男爵家の娘で、二十歳だ。


 スキルを授かったとき、神様は「きっと役に立つよ」と言っていた。

 でも実際に使ってみると、人の本音というのは思ったより残酷で、思ったより生々しくて、聞きたくないことの方がずっと多かった。


 友人だと思っていた令嬢の「(アメリアっていつも地味ね)」。

 にこにこと挨拶してくる紳士の「(男爵家なんかと関わっても得がないな)」。

 父の友人が私に向けた「(ローゼン家の娘、もう少し器量が良ければなぁ)」。


 どれも、聞く前から薄々察していたことだった。

 それでも、ちゃんと聞こえてしまうのはつらかった。


 だから私は、なるべく人との距離を一・五メートル以上保つようにしていた。

 それがスキルの発動範囲だとわかったのは、転生から三年後のことだ。


 人と距離を置いて生きることに、だいぶ慣れていた。



   *



 そんな私が、カルシア帝国の宰相閣下に嫁ぐことになったのは、今年の春のことだった。


 皇帝陛下の勅命だった。

 「宰相に妻を持たせ、安定させたい」という、帝国の都合による政略結婚だ。

 なぜ男爵家の娘が選ばれたのかは、最後までよくわからなかった。


 父は「断れない」と申し訳なさそうにしていた。私も「断れない」と思っていたので、二人で同じ顔をして頷き合った。


 宰相閣下——エドヴァルト・シュヴァルツという名前の方——については、噂で聞いていた。


 冷酷無比。

 人を人とも思わない。

 帝国内で最も恐ろしい人物。


 宴席では表情ひとつ動かさず、部下を一瞥しただけで萎縮させ、交渉の場では相手が何も言えなくなるまで沈黙を使うのだという。


 私はその話を聞きながら「(まあ、どうにかなるだろう)」と思っていた。

 前世でも、感情の読めない上司の下で五年働いた経験がある。

 人の本音が聞こえるスキルがある分、むしろ有利かもしれない——そう考えていた。


 甘かった、と気づいたのは、屋敷の門をくぐった瞬間だ。



   *



 エドヴァルト邸は、帝都の北区にある大きな石造りの屋敷だった。


 整えられた石畳の前庭。左右に並ぶ白い柱。彫刻の施された重い扉。

 屋敷の格だけで、男爵家とは比べ物にならない。

 父の家が三つ入ってもまだ余りそうだ、と私は馬車の窓から眺めながら思った。


「奥様、到着です」


 隣でレオナが言った。

 レオナは私付きの侍女で、子どもの頃からずっと一緒にいる。この結婚に際して、一緒についてきてくれた。


「……そうですね」


「緊張してますか」


「少しだけ」


 嘘だった。かなりしていた。


 馬車が止まり、扉が開かれた。

 私はドレスの裾を持って、石畳に降り立った。


 屋敷の扉が、静かに開いた。



   *



 出迎えに出てきたのは、屋敷の使用人たちだと思っていた。


 違った。


 使用人が左右に整列した中央に、一人の男性が立っていた。

 黒い髪。長身。整った顔立ち。仕立てのいい濃紺の上着。

 表情は、ない。


 銀灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。


(この方が、閣下だ)


 本人だとわかったのは、背格好からではなく——その目から受ける圧からだった。

 温度を感じさせない、静かな目だった。


 一・五メートル。

 距離を測るのは癖になっている。

 今、私と閣下の距離は三メートルほどある。スキルは発動しない。


 私は深く頭を下げた。


「アメリア・ローゼンと申します。本日より、よろしくお願いいたします」


 閣下が、一言返した。


「来たか」


 それだけだった。


 それだけ言って、背を向けた。

 屋敷の中へ、長い廊下を歩いていく。


(あ、ついていけばいいのか)


 前世のOL経験が「とりあえず上司の後をついていけ」と判断した。

 私はレオナと顔を見合わせてから、閣下の後を追った。



   *



 廊下を歩きながら、屋敷の案内をしてもらった。


 といっても、閣下の言葉は最小限だ。

 「食堂はここだ」「書斎には入るな」「庭は自由に使っていい」——それだけを、前を向いたまま言う。


 後ろを振り返ることはない。私がついてきているかどうか確認することもない。


 廊下を歩く間、私はひたすら距離を測り続けていた。

 三メートル。二・五メートル。二メートル。


 案内が進むにつれて、廊下が狭くなる場所がある。

 角を曲がるとき、私と閣下の距離が縮まった。


 一・五メートル。


 スキルが、発動した。


 その瞬間、聞こえた。


「(……思ったより、ずっとかわいい)」


 私の足が、止まった。


 閣下は止まっていない。

 前を向いたまま、同じ歩調で廊下を進んでいる。

 表情はまったく動いていない。


「奥様?」


 後ろからレオナが囁いた。


「……なんでもないです」


 私は歩き出しながら、頭の中で今聞こえた声を繰り返した。


(かわいい)


 閣下の。

 冷酷と名高い、あの無表情の宰相閣下の。

 心の声が。


(……幻聴だ)


 私は即座に結論を出した。


 そうに決まっている。

 スキルが誤作動を起こしたのだ。今まで発動範囲の測定を間違えたことはなかったが、緊張しているから精度が落ちているのかもしれない。


 そう。幻聴だ。


 私は自分にそう言い聞かせながら、閣下の背中を追った。



   *



 屋敷の案内が終わった後、閣下は「仕事がある」と言って宰相府へ戻っていった。

 「夕食は用意させる。好きな時間に食べろ」とだけ言い残して。


 部屋に案内された私は、荷物の整理をしながらレオナと話した。


「奥様、どうでしたか」


「……静かな方でした」


「怖くなかったですか」


「怖いというより」


 私は少し考えてから、正直に答えた。


「よくわからない方でした」


 レオナが「ですよねぇ」と言いながら衣装箱を開けた。


「あの目、笑ってませんでしたもんね。使用人さんたちも、みんな緊張した顔してましたし」


「そうですね」


「奥様は平気そうでしたが」


「……平気ではなかったです。かなり緊張しました」


「あら」とレオナが言った。「じゃあ廊下の途中で止まったのは?」


 私は黙った。


「何か聞こえましたか」


「幻聴が」


「……幻聴って、奥様のスキルは誤作動しないじゃないですか」


「今日は緊張しているので」


「そういうことにしておきますね」とレオナが笑った。


 私も笑った。

 でも心の中では「(幻聴だ)」と繰り返していた。



   *



 夕食を終えて、部屋に戻る廊下を歩いていたときだった。


 閣下の部屋の前を通った。

 扉は閉まっている。中に明かりがある。仕事をしているのかもしれない。


 通り過ぎようとした、その瞬間。


 扉越しに、聞こえた。


「(今夜、ちゃんと食事が摂れているといいが)」


 私の足が、また止まった。


 今度は、距離を測る余裕があった。

 閉じた扉まで、一メートルほどだ。

 スキルは、扉越しでも発動する。


(これも……幻聴か)


 でも、今度は少し迷った。


 閣下は今夜、宰相府から戻ってきた後に一度もこちらに来ていない。

 夕食の席を同じにしなかったのも閣下の方からだ。


 なのに、心配している。


(私の食事を、心配している……?)


「奥様?」


 レオナが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「なんでもないです。部屋に戻りましょう」


 私はそう答えて、歩き出した。


 でも、頭の中がざわざわしていた。


 幻聴だ、と思いたかった。

 でも幻聴なら、なぜ私の食事のことを心配する内容なのだろう。

 私の都合のいい幻想を見るなら、もっと違う内容になるはずではないか。


(……いや、だめだ。考えすぎている)


 私は首を横に振って、部屋の扉を開けた。


 初日から、スキルが誤作動を起こしている。

 明日はちゃんと一・五メートルを保ちながら生活しよう。


 そう決めながら、ベッドに横になった。


 天井を見上げながら、私はもう一度、あの声を思い出した。


「(思ったより、ずっとかわいい)」


 ……幻聴だ。


 絶対に、幻聴だ。

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