図書室が「私たちの場所」になりつつあります。これは偶然ではないと思います
気づいたのは、三回目の雨の日だった。
一回目は偶然、二回目は偶然、三回目も偶然——と言い続けるのは、さすがに無理があった。
雨が降ると、閣下は図書室にいる。
一回目はそれを知らなかった。
二回目に「また雨だ」と思ったとき、頭の中に「閣下は今日も図書室だろうか」という考えが浮かんだ。浮かんでしまった。それで三階に向かったら、本当にいた。
三回目は、雨の音で目が覚めた朝に「今日は図書室に行こう」と思った。
その時点で、もう偶然ではない。
(私が、自分から行くようになっている)
そのことに気づいて、少し驚いた。
驚いたけれど、足は三階の階段を上っていた。
*
図書室の扉を開けると、閣下がいた。
今日もいた。
窓際の椅子に座って、帝国史の分厚い本を開いている。
私が入っていくと、閣下が顔を上げた。
「……来たか」
「雨なので」
「そうか」
それだけ言って、また本に目を落とした。
私はいつもの椅子に向かった。
先週から、なんとなく「私の椅子」になりつつある窓際の席だ。閣下の椅子との距離は、ちょうど一・五メートル。スキルが発動するかしないかの、ちょうど境界線だ。
座ろうとして、気づいた。
椅子の横の小さなサイドテーブルに、本が一冊置いてある。
私の本ではない。
でも前回まではそこに何も置いていなかった。
手に取ってみた。
薄い本で、表紙には「カルシア帝国の植物誌・下巻」と書いてある。
(……植物誌)
先週、閣下に「アメリアは何を読んでいる」と聞かれたとき、「植物の本が好きです」と答えた。
庭の白薔薇を見ていて、植物について知りたくなって、本棚から引っ張り出した上巻を持ってきていた。そう話した。
下巻、とは言っていない。
(でも下巻が置いてある)
一回で続きを読めるように、と思ってくれたのか。
それとも、別の理由があるのか。
「……あの」
私は本を手に持ったまま、閣下の方を向いた。
「これ、閣下が置いてくださったんですか」
一拍。
「そこに置いてあっただけだ」
閣下が本から目を上げずに言った。
「(読むかと思って)」
心の声が、少し遅れて聞こえた。
(読むかと思って、置いてくださったんじゃないですか)
(「そこに置いてあっただけ」は、どう考えても嘘ですよね)
私は笑いそうになるのを堪えながら、「ありがとうございます」と言った。
「礼を言う必要はない。そこに置いてあったんだから」
「……そうですね。ありがとうございます」
「だから——」
「ありがとうございます」
閣下が口を閉じた。
「(……なぜ三回言う)」という心の声が聞こえたが、聞こえなかったふりをして椅子に座った。
*
植物誌の下巻は、上巻より面白かった。
薬草の章で途切れていた記述が続きから書いてあって、読みながら「ここに繋がるのか」と思わず声が出そうになった。庭で見かけた白い小さな花の名前も出てきた。フリッツさんが「この花は虫除けになる」と言っていたのは、この成分のせいだったのか、とわかって一人で納得した。
閣下はずっと帝国史を読んでいる。
ページをめくる間隔が遅い。難しい内容なのか、それとも考えながら読んでいるのか。たまに眉がわずかに動く。読んだ内容について、何か思うことがあるときのような動き方だ。
「(……居心地がいい)」
しばらくして、聞こえた。
先週も同じ声が聞こえた。
今日も、聞こえた。
(先週だけではなかった)
私は植物誌のページに目を落としたまま、それをゆっくり受け取った。
居心地がいい、と思っている。
閣下が。
私と、同じ空間で本を読む時間を。
前世でも、こういう時間が好きだった。誰かと同じ空間にいるけれど、それぞれが自分のことをしている。言葉を交わさなくても、気を遣わなくても、ただそこにいるだけでいい。
図書館の自習室で、隣の席の人が勉強しているのを横に感じながら本を読んでいた時間に、少し似ている。
「一人でいる」より少しだけ温かい。
それが、この図書室にあった。
*
図書室の習慣が定着してきた、と認めるのにさらに二回かかった。
四回目の雨の日。サイドテーブルに置いてあったのは旅行記だった。
いつ、誰に、どんな文脈で話したのか、私には心当たりがない。でも前世でいろんな場所に行ってみたかった、という話をした記憶はある——レオナとの会話の中で。閣下との会話の中ではない。
(閣下は、誰かから聞いたのか)
そう思ったら、なんとも言えない気持ちになった。
わざわざ聞いてくれた、ということだ。誰かに。私の好みを。
旅行記を手に取って「ありがとうございます」と言うと、閣下はまた「そこに置いてあっただけだ」と言った。
今回は二回しかお礼を言わなかった。二回目で閣下が少し間を置いたので、三回目を待っていたのかもしれない、と思ったがそれは考えすぎだろう。
五回目の雨の日。今度は私が先に来て、閣下を待った。
待った、という自覚が、あとからじわっと来た。
(……待っていたんだ、私)
自分でも気づかないうちに、誰かを待つ習慣ができていた。
それがどういうことか考えかけて、やめた。まだ、考えないでいたかった。
閣下が来て「来ていたのか」と言った。
「雨だったので」と答えたら「そうか」と言って椅子に座った。
いつもと同じやりとり。
でも閣下の「(来ていた)」という心の声は、どこかほっとした響きがあった。
(それも、今は考えないでいる)
私は旅行記の次のページを開いた。
*
六回目の雨の日。
今日も閣下が先に来ていた。
サイドテーブルに本が置いてある——と思ったら、今日は二冊あった。
一冊は私のぶん。もう一冊は、閣下の帝国史だ。
(……二冊)
(閣下の本も、ここに置いてある)
つまり閣下は、図書室に来るとき、最初から私の本も一緒に持ってきた、ということだ。
自分の本と並べて。当然のように。
「……閣下」
「そこに置いてあっただけだ」
私がまだ何も言っていないのに、先手を打ってきた。
(言ってないです、まだ何も)
「……ありがとうございます」
「だから——」
「ありがとうございます」
閣下がため息をついた。
「(……かわいいな)」
小さな声が聞こえた。
私は聞こえなかったことにして、椅子に座った。
顔が赤くなっているといけないので、しばらく本を開いたまま俯いていた。
そうしながら、頭の中では今日のことを整理していた。
雨の日は図書室で本を読む。
閣下もいる。
閣下が私の分の本を持ってきてくれる。
「そこに置いてあっただけだ」と言う。
私が「ありがとうございます」と繰り返す。
閣下がため息をつく。
これが習慣になっている。
(……いつからこうなったんだろう)
考えてみたが、境目がわからなかった。
自然に、気づいたら、こういう時間ができていた。
雨の日の図書室が、「私たちの場所」になりつつある。
そう思ったら、少し怖くなった。
怖い、というのは、嫌だということではなくて——こういう時間が続くと思い始めたら、なくなったときが怖い、という意味の怖さだ。
(考えすぎている)
私は本のページに目を戻した。
*
その日の午後、窓の外が急に暗くなった。
雨が強くなる前の空の色だ、と思っていたら、やはりしばらくして雨脚が激しくなった。窓ガラスが揺れるような大粒の雨で、図書室の中まで湿った空気が滲んでくる気がした。
私は本を読みながら「嵐になるかな」とぼんやり思っていた。
閣下も本のページをめくる手が止まって、一度窓の外を見た。また帝国史に目を戻す。
しばらくして、空が白く光った。
夕暮れより早い、昼間の光だ。
一拍遅れて——
ドン、と。
雷が、鳴った。
「——っ」
反射だった。
本が手から滑り落ちた。
気づいたときには、手が閣下の腕をつかんでいた。
右手と左手、両方で。
静寂。
雨の音だけが続いている。
私はゆっくりと現状を把握した。
つかんでいる。
閣下の腕を。
両手で。
しかも、かなりの力で。
「(……)」
心の声が聞こえた。
言葉ではなかった。
言葉になる前の何か——息を、止めたような。
全身が固まった。閣下も、私も。
窓の外で、また雨が降り続いている。




