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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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12/14

閣下が図書室で本を読んでいました。隣に座っていいか聞いたら「好きにしろ」と言われました

 雨の日は、することがない。


 屋敷に来てひと月が経った。

 日課のようなものは少しずつできてきた。朝食を閣下と食べる。午前中は屋敷のことを把握したり、使用人と話したり。数日に一度、宰相府に顔を出す。夕食をまた閣下と食べる。


 でも雨が降ると、庭に出られない。

 宰相府に行くのも、今日は閣下が「来なくていい」と言った。忙しいらしい。


 レオナは午後から街の用事があると言って出かけた。


 私は一人で屋敷の中をぶらぶら歩いた。


 一階の食堂、応接室、小さなサロン。二階の寝室棟。

 三階には、まだあまり足を運んでいない。


 雨の音を聞きながら、階段を上がった。



   *



 三階の突き当たりに、図書室があった。


 屋敷の案内のとき「書斎には入るな」とは言われたが、図書室については何も言われていない。

 扉を開けると、本棚が四方の壁を埋めていた。天井まで届く棚に、背の高さも色もばらばらな本が並んでいる。


 窓が大きい。

 雨が窓ガラスを叩いている。その音が、部屋の中にひっそりと響いていた。


 そして。


 窓際の椅子に、閣下が座っていた。


(……いる)


 閣下も気づいた。本から目を上げて、こちらを見た。


 私は扉のところで固まった。


「失礼しました、邪魔をするつもりでは——」


「構わない」


 閣下が一言言って、また本に目を落とした。


 出ていくべきか。でも「構わない」と言われた。

 私は少し迷ってから、部屋に入った。


 本棚の前をゆっくり歩いて、背表紙を眺める。歴史書、地理書、植物図鑑、見たことのない国の言語で書かれた本。

 その中に、読んでみたい小説が一冊あった。


 手に取って、窓際に近い椅子に向かった。


 閣下から、一・五メートル。

 ちょうど、スキルが発動する境界線だ。


「……隣に座っていいですか」


 聞くと、閣下が顔を上げずに言った。


「好きにしろ」


 私は椅子に座った。



   *



 静かだった。


 雨の音だけが窓から届いて、あとは本のページをめくる音が時々する。


 お互い、何も言わなかった。


 でも一・五メートルの距離で、閣下の心の声は断続的に届いてきた。


「(……隣にいる)」


 最初に聞こえた声は、それだった。


 ただの事実の確認のような、静かな声だった。


 しばらく経って。


「(……いい)」


 それだけ。

 本を読みながら、そう思っている。


 また少し経って。


「(ずっとこうしていてもいい)」


 私はページをめくる手を止めそうになった。

 止まらなかったのは、ぎりぎりの自制心のおかげだ。


(ずっと、って)

(今日初めてここで鉢合わせただけなのに)

(ずっとこうしていてもいい、って)


 私は小説の文字を目で追いながら、内容がまったく頭に入らなかった。


 でも——変だな、と思った。


 落ち着いているのだ。


 普段、人と近い距離にいると、スキルのせいで疲れる。

 心の声を聞きたくない声が流れてくることもあるし、聞こえてくる声に対応しながら表情を保つのは体力を使う。


 でも今は、疲れない。


 閣下の心の声は、怖くない。



   *



 前世でも、こういう時間が好きだった。


 誰かと同じ空間にいるけれど、それぞれが自分のことをしている。

 言葉を交わさなくても、気を遣わなくても、ただそこにいるだけでいい時間。


 前職の昼休み、誰もいない給湯室で一人でお茶を飲んでいたこと。

 図書館の自習室で、隣の席の人が勉強しているのを横に感じながら本を読んでいたこと。


 「一人でいる」より少しだけ温かい時間。


 そんな時間が、この図書室にあった。


(……閣下は、ここで本をよく読むんだろうか)


 ふと思ったら、聞きたくなった。


「閣下は、どんな本を読むんですか」


 口に出てから、いきなりすぎたかな、と思った。


 でも閣下は本から顔を上げて、少し間を置いた後、答えた。


「帝国史だ」


「歴史書、ですか」


「古い時代の政治の記録がある。今とは違う制度で、今とは違う判断をしていた。それがどう機能して、どう失敗したか」


 閣下が静かに言った。

 普段より言葉が多い。


「読んでいると、今の仕事に使える判断の根拠が見つかることがある」


「勉強のために読んでいるんですね」


「……最初はそうだったが、今は面白いから読んでいる」


 少し間があった。


「(言いすぎたか)」


 心の声が聞こえた。


 でも、言いすぎていない。

 私は素直にそう思った。


「面白いんですね、歴史書が」


「退屈だと思うか」


「思いません。こういう時代だったら、こういう判断をしたのかな、と考えながら読む感じですか?」


「……そうだ」


 閣下が少し目を細めた。

 怒っているのではなく——どちらかといえば、意外そうな顔に見えた。


「(わかるのか)」


 短い心の声が聞こえた。



   *



 また少し、沈黙が続いた。


 今度は、さっきより柔らかい沈黙だった。


 雨がまだ降っている。

 窓ガラスに雨粒がぶつかって、細かい音を立てている。


 私の手の中の小説は、今度は少し読み進んだ。


「(……居心地がいい)」


 閣下の声が、静かに聞こえた。


 私も、そう思っていた。

 声には出さなかったけれど。


 しばらくして、閣下がページをめくった。


「アメリアは?」


 不意に名前を呼ばれた。


 私は本から顔を上げた。


「……はい?」


「何を読んでいる」


 窓の外で、雨が少し強くなった。

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