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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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11/14

宰相府に正式に訪問しました。閣下の同僚たちが全員ガタガタ震えていました

 宰相府への正式訪問は、七話の非公式なお弁当届けとは、まったく違う空気だった。


 あのときは昼休みに合わせて訪ねたから、廊下にいる官僚たちも半分は食事に出ていた。

 でも今日は午前中の執務時間。

 閣下に連れられて廊下を歩いていると、すれ違う官僚たちが全員、一拍遅れて固まった。


 それから小声でざわめく。


「……奥方様を?」

「宰相閣下が、ご自分で?」

「あの閣下が」


 聞こえている。

 スキルなしで普通に聞こえている。


 閣下は一切顔を動かさず、真っ直ぐ前を向いて歩いている。


「(……うるさい)」


 心の声だけが、平然と聞こえた。


 宰相府の廊下を歩くのは二回目だが、今日の方が緊張する。

 前回はフィリップさんに案内してもらったから、閣下の隣に立つ、という感覚がなかった。


 今日は、閣下の一歩右後ろを歩いている。


(これが宰相夫人の場所か、と思うと少し背筋が伸びた。)



   *



 執務室に入ると、フィリップさんが書類を抱えて立っていた。


 私を見て、一瞬目が大きくなった。


「……奥様、いらっしゃいませ」


「お邪魔します、フィリップさん」


「いえ、こちらこそ。閣下から今日は奥様をお連れするとは伺っていたのですが」


 フィリップさんが言いながら、ちらっと閣下を見た。


「(閣下が、ご自分で案内されている……)」


 心の声が聞こえた。感慨深げな声だった。


 閣下は「邪魔をするな」とだけ言ってフィリップさんを追い払い、私に執務室の椅子を示した。


「どこでも座っていい」


「……ありがとうございます」


 書類が山になっている大きな執務机。その脇に来客用と思われる小さな机と椅子がある。私はそちらに座った。


 閣下が執務机に向かった。書類を開く。仕事が始まった。


(……お邪魔ではないか)


 少し心配になったが、閣下が「来るか」と誘ってくれたのだから、来ていい、ということなのだろう。


 私は膝の上で手を組んで、部屋を観察し始めた。



   *



 前世でOLをしていたせいか、他人の仕事ぶりを見ると職業病が出る。


 書類の流れを目で追う。

 フィリップさんが運んでくる書類が積まれる場所が、二か所ある。

 閣下が処理した書類が置かれる場所は、一か所。


 でも——


(……あの山、分けた方が早くないですか)


 入ってくる書類の山をよく見ると、緊急度が混在しているように見える。急ぎの決裁が必要なものと、後回しにできるものが、同じ場所に積まれている。


 前世の職場では、赤・黄・青の三色ファイルで分けていた。

 それだけで処理速度が上がったと上司が言っていた。


(でも、余所の夫の仕事場でいきなり意見するのも……)


 私は口を閉じた。


 三十分が経過した。


 フィリップさんが書類を運んでくるたびに、入り口の山が高くなっていく。

 閣下の処理は速い。でも入ってくる量が多すぎる。


 また三十分。


(やっぱり、あの山が……)


「……何か言いたいことがあるか」


 閣下が書類から目を上げずに言った。


 私は驚いた。


「……見えていましたか」


「顔を見れば、大体わかる」


 何も言っていないのに。さすが宰相だ、と思った。


「……出過ぎたことかもしれないのですが」


「言え」


「あちらの書類の山、急ぎのものとそうでないものを分けると、少し処理が楽になるかもしれません。前の仕事でそうしていたので」


 閣下が手を止めた。


「入ってくる書類を、先に仕分けする、ということか」


「はい。緊急のものだけを先に処理して、残りは後に回す、という流れにすると——」


「……やってみる」


 閣下が一言で言った。


「(こんな発想があるのか)」


 心の声が続いた。

 否定でも呆れでもなく、純粋に驚いている声だった。


 そのとき、扉の向こうからフィリップさんが書類を持って入ってきた。

 閣下が「ヴォルフ、書類の仕分けを変える。今から説明する」と言った。


 フィリップさんが「……は?」と固まった。


「閣下が……人の意見を……」


 小声で言いかけて、フィリップさんが私を見た。


「奥様のご提案ですか」


「……はい」


「閣下が、受け入れた……」


 フィリップさんが書類を抱えたまましばらく動かなかった。


「ヴォルフ」と閣下が低く言った。


「は、はい!」



   *



 仕分けの方法を伝えたあと、私はまた来客用の椅子に戻った。


 午後になると、書類の流れが変わった。

 フィリップさんが入り口で仕分けをするようになって、閣下の机に届く書類の順序が変わった。


(……少し、速くなった気がする)


 外から見ているだけでも、処理のリズムが変わったのがわかった。


 夕方、フィリップさんが「今日はいつもより三件多く処理できました」と報告に来た。


「……そうか」と閣下が言った。


 閣下がちらっとこちらを見た。


「(……アメリアのおかげだ)」


 聞こえた声は、小さかった。

 でも確かに聞こえた。


(言ってくれればいいのに)


 私はそう思ったが、口には出さなかった。



   *



 帰り支度をして執務室を出ると、廊下にフィリップさんが立っていた。


「奥様、今日はありがとうございました」


「大したことではないです。前の仕事で、似たようなことをしていただけなので」


「いえ、本当に助かりました。私も前から気になっていたのですが、閣下に言い出せなくて」


 フィリップさんが苦笑した。


「……閣下は怖いですか、やはり」


「慣れてはいますが、却下されるのは怖いです」


 正直な人だな、と思った。


「奥様はどうやって言ったんですか」


「……勢いで」


 フィリップさんが少し笑った。


「奥様らしいですね」


「そうですか」


「はい、なんとなく」


 閣下が廊下に出てきた。

 フィリップさんが背筋を伸ばした。


「ヴォルフ。明日の書類を整理しておけ」


「はい。——閣下、奥様とご帰宅ですか」


「そうだ」


「(よかった)」というフィリップさんの心の声と、「(余計なことを言うな)」という閣下の心の声が同時に聞こえた。


 私は何も聞こえなかったふりをして、閣下の隣に並んだ。



   *



 帰りの馬車が屋敷に近づいたとき、閣下が口を開いた。


「……明日も来るか」


 窓の外を見たまま、静かに言った。


「(来てほしい)」が、ほぼ同時に聞こえた。


 私は少し間を置いてから答えた。


「……行っていいんですか」


「邪魔にはならなかった」


「それは、つまり」


「来てもいい、ということだ」


 閣下が窓から視線をこちらに移した。


 私と目が合った。

 一秒、閣下の銀灰色の瞳が、こちらをまっすぐ見た。


 それから「(……また業務が改善されるかもしれない)」という、どう考えても言い訳みたいな心の声が聞こえた。


(それは照れ隠しですね、絶対に)


「……明日も伺います」と私は言った。


 閣下が「ああ」と短く返した。


 馬車の窓の外に、夕暮れの帝都が流れていった。

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