宰相府に正式に訪問しました。閣下の同僚たちが全員ガタガタ震えていました
宰相府への正式訪問は、七話の非公式なお弁当届けとは、まったく違う空気だった。
あのときは昼休みに合わせて訪ねたから、廊下にいる官僚たちも半分は食事に出ていた。
でも今日は午前中の執務時間。
閣下に連れられて廊下を歩いていると、すれ違う官僚たちが全員、一拍遅れて固まった。
それから小声でざわめく。
「……奥方様を?」
「宰相閣下が、ご自分で?」
「あの閣下が」
聞こえている。
スキルなしで普通に聞こえている。
閣下は一切顔を動かさず、真っ直ぐ前を向いて歩いている。
「(……うるさい)」
心の声だけが、平然と聞こえた。
宰相府の廊下を歩くのは二回目だが、今日の方が緊張する。
前回はフィリップさんに案内してもらったから、閣下の隣に立つ、という感覚がなかった。
今日は、閣下の一歩右後ろを歩いている。
(これが宰相夫人の場所か、と思うと少し背筋が伸びた。)
*
執務室に入ると、フィリップさんが書類を抱えて立っていた。
私を見て、一瞬目が大きくなった。
「……奥様、いらっしゃいませ」
「お邪魔します、フィリップさん」
「いえ、こちらこそ。閣下から今日は奥様をお連れするとは伺っていたのですが」
フィリップさんが言いながら、ちらっと閣下を見た。
「(閣下が、ご自分で案内されている……)」
心の声が聞こえた。感慨深げな声だった。
閣下は「邪魔をするな」とだけ言ってフィリップさんを追い払い、私に執務室の椅子を示した。
「どこでも座っていい」
「……ありがとうございます」
書類が山になっている大きな執務机。その脇に来客用と思われる小さな机と椅子がある。私はそちらに座った。
閣下が執務机に向かった。書類を開く。仕事が始まった。
(……お邪魔ではないか)
少し心配になったが、閣下が「来るか」と誘ってくれたのだから、来ていい、ということなのだろう。
私は膝の上で手を組んで、部屋を観察し始めた。
*
前世でOLをしていたせいか、他人の仕事ぶりを見ると職業病が出る。
書類の流れを目で追う。
フィリップさんが運んでくる書類が積まれる場所が、二か所ある。
閣下が処理した書類が置かれる場所は、一か所。
でも——
(……あの山、分けた方が早くないですか)
入ってくる書類の山をよく見ると、緊急度が混在しているように見える。急ぎの決裁が必要なものと、後回しにできるものが、同じ場所に積まれている。
前世の職場では、赤・黄・青の三色ファイルで分けていた。
それだけで処理速度が上がったと上司が言っていた。
(でも、余所の夫の仕事場でいきなり意見するのも……)
私は口を閉じた。
三十分が経過した。
フィリップさんが書類を運んでくるたびに、入り口の山が高くなっていく。
閣下の処理は速い。でも入ってくる量が多すぎる。
また三十分。
(やっぱり、あの山が……)
「……何か言いたいことがあるか」
閣下が書類から目を上げずに言った。
私は驚いた。
「……見えていましたか」
「顔を見れば、大体わかる」
何も言っていないのに。さすが宰相だ、と思った。
「……出過ぎたことかもしれないのですが」
「言え」
「あちらの書類の山、急ぎのものとそうでないものを分けると、少し処理が楽になるかもしれません。前の仕事でそうしていたので」
閣下が手を止めた。
「入ってくる書類を、先に仕分けする、ということか」
「はい。緊急のものだけを先に処理して、残りは後に回す、という流れにすると——」
「……やってみる」
閣下が一言で言った。
「(こんな発想があるのか)」
心の声が続いた。
否定でも呆れでもなく、純粋に驚いている声だった。
そのとき、扉の向こうからフィリップさんが書類を持って入ってきた。
閣下が「ヴォルフ、書類の仕分けを変える。今から説明する」と言った。
フィリップさんが「……は?」と固まった。
「閣下が……人の意見を……」
小声で言いかけて、フィリップさんが私を見た。
「奥様のご提案ですか」
「……はい」
「閣下が、受け入れた……」
フィリップさんが書類を抱えたまましばらく動かなかった。
「ヴォルフ」と閣下が低く言った。
「は、はい!」
*
仕分けの方法を伝えたあと、私はまた来客用の椅子に戻った。
午後になると、書類の流れが変わった。
フィリップさんが入り口で仕分けをするようになって、閣下の机に届く書類の順序が変わった。
(……少し、速くなった気がする)
外から見ているだけでも、処理のリズムが変わったのがわかった。
夕方、フィリップさんが「今日はいつもより三件多く処理できました」と報告に来た。
「……そうか」と閣下が言った。
閣下がちらっとこちらを見た。
「(……アメリアのおかげだ)」
聞こえた声は、小さかった。
でも確かに聞こえた。
(言ってくれればいいのに)
私はそう思ったが、口には出さなかった。
*
帰り支度をして執務室を出ると、廊下にフィリップさんが立っていた。
「奥様、今日はありがとうございました」
「大したことではないです。前の仕事で、似たようなことをしていただけなので」
「いえ、本当に助かりました。私も前から気になっていたのですが、閣下に言い出せなくて」
フィリップさんが苦笑した。
「……閣下は怖いですか、やはり」
「慣れてはいますが、却下されるのは怖いです」
正直な人だな、と思った。
「奥様はどうやって言ったんですか」
「……勢いで」
フィリップさんが少し笑った。
「奥様らしいですね」
「そうですか」
「はい、なんとなく」
閣下が廊下に出てきた。
フィリップさんが背筋を伸ばした。
「ヴォルフ。明日の書類を整理しておけ」
「はい。——閣下、奥様とご帰宅ですか」
「そうだ」
「(よかった)」というフィリップさんの心の声と、「(余計なことを言うな)」という閣下の心の声が同時に聞こえた。
私は何も聞こえなかったふりをして、閣下の隣に並んだ。
*
帰りの馬車が屋敷に近づいたとき、閣下が口を開いた。
「……明日も来るか」
窓の外を見たまま、静かに言った。
「(来てほしい)」が、ほぼ同時に聞こえた。
私は少し間を置いてから答えた。
「……行っていいんですか」
「邪魔にはならなかった」
「それは、つまり」
「来てもいい、ということだ」
閣下が窓から視線をこちらに移した。
私と目が合った。
一秒、閣下の銀灰色の瞳が、こちらをまっすぐ見た。
それから「(……また業務が改善されるかもしれない)」という、どう考えても言い訳みたいな心の声が聞こえた。
(それは照れ隠しですね、絶対に)
「……明日も伺います」と私は言った。
閣下が「ああ」と短く返した。
馬車の窓の外に、夕暮れの帝都が流れていった。




