閣下が発熱しました。「大丈夫だ」と言いながら顔が真っ赤でした
翌朝、食堂に来た閣下の顔色がおかしかった。
青白い、というのではない。むしろ逆で、頬にうっすら赤みが差している。
いつもは血色の薄い顔だから、その赤みが妙に目立った。
目の下に疲労の影もある。昨夜、遅くまで仕事をしていたのは廊下を通ったときに書斎の明かりで気づいていた。季節の変わり目で帝国内の予算審議が続いているとフィリップさんから聞いていたから、無理もない話だとは思っていたが。
閣下が席に着いて、スープに手をつけた。
(……顔色が悪い)
私はそう思いながら、様子を見た。
スプーンを持つ手が、いつもより少し鈍い。
「(……頭が、重い)」
心の声が聞こえた。
私は内心で「やはり」と思った。
「……閣下、顔色が優れないように見えますが」
「問題ない」
閣下が即座に返した。
「(問題がある)」という心の声が、ほぼ同時に聞こえた。
(問題があるとわかっていて「問題ない」と言うんですか)
私はスープを一口飲んでから、もう一度閣下を見た。
食事のペースが明らかに遅い。それでも箸を置こうとしない。
「今日も宰相府にいらっしゃるんですか」
「当然だ」
「(行かなければならない)」
(……「当然」と「行かなければならない」は、少し違う気がします)
心の声が正直すぎて、聞いているこちらが少し切なくなった。
行きたいのではなく、行かなければならないと思っている。それが閣下の「当然だ」だ。
私は何も言わずに朝食を終えた。
*
問題は昼前に起きた。
閣下が宰相府に発った後、私は屋敷のことを片付けていた。
庭師のフリッツさんと白薔薇の手入れについて話して、料理長のトーマスさんと週の献立を確認して——そこへフィリップさんが屋敷に来た。
珍しい。閣下が宰相府にいる昼間に、フィリップさんが屋敷に来ることは滅多にない。
「閣下が、戻られます」
「え?」
「執務中に熱が出たようで。三十七度八分です。私が医師を呼ぼうとしたのですが、『屋敷に戻る』と言って聞かなくて」
フィリップさんが少し疲れた顔で言った。
「医師には断固として首を横に振って、奥様のところに帰ると……」
(奥様のところに)
その言葉が、少しの間頭の中で繰り返された。
「……奥様のところ、と言ったんですか」
「はい。正確には『屋敷に戻る』とだけおっしゃったんですが、私にはそう聞こえました」
フィリップさんが少し笑った。照れくさそうな笑い方だった。
「わかりました。準備します」
私はそう言って、動き始めた。
*
薬草茶の作り方は、植物誌で読んでいた。
発熱に効くのはリンデンの花と生姜を合わせたものだ。屋敷の薬草庫に材料があるかどうか料理長に確認して、あったので自分で作ることにした。
料理長のトーマスさんが「お任せください」と腕まくりをしかけたが「私が作ります」と言った。なぜそう言ったのかは、自分でもうまく説明できない。ただ、自分の手で作りたかった。
閣下が馬車で戻ってきたのは、茶を淹れ終わった頃だった。
玄関で出迎えると、閣下が馬車から降りてきた。
表情は変わっていない。でも目の焦点がわずかに定まっていない。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
閣下が言った。頬が赤い。
(全然大丈夫ではないですよ)
「(……立っていられる)」
心の声が、ひどく強がっていた。
「部屋に参りましょう」
私がそう言うと、閣下が一拍置いてから頷いた。
素直に頷いたことに少し驚いた。普段なら「仕事がある」と言うところだ。
「(……アメリアが、心配そうな顔をしている)」
階段を上がりながら、心の声が聞こえた。
*
部屋に入ると、閣下が椅子に座ろうとした。
「ベッドに横になってください」
「仕事が——」
「今日はありません」
私は静かに、でもはっきりと言った。
閣下が私を見た。
普段の私はあまり強くは言わない。意見は言うが、最終的には閣下の判断に従うことが多い。
だから今日の言い方は、少し違ったのかもしれない。
「(……こんなに言われたことは、なかった)」
驚いたような、でも否定ではない声だった。
「(……こんなに心配してもらえるのか)」
それが続いた。
私の胸の奥が、少しだけ痛んだ。
こんなに心配してもらえるのか、という声だった。
まるで、そういうことに慣れていないような——当たり前だと思っていないような——声だった。
閣下がゆっくりと立ち上がって、ベッドに横になった。
しぶしぶ、という雰囲気ではあったが、従ってくれた。
「(……従ってしまった)」という心の声が小さく聞こえた。
でも、それでいい。今日は従ってもらわなければ困る。
*
薬草茶を持ってきて、枕元のテーブルに置いた。
「飲めそうですか」
「……飲める」
閣下が身を起こしてカップを受け取った。一口飲んで「苦い」と言った。
「発熱に効くものは大体苦いんです。でも飲むと楽になりますから」
「……そうか」
もう一口飲んで、また横になった。
私は濡らして絞った布を額に当てた。
その瞬間。
「(……冷たくて、気持ちいい)」
閣下の声が、ほっとしたように聞こえた。
「(アメリアの手だ)」
それが続いた。
私は手が止まりそうになるのをこらえながら、布を押さえていた。
(私の手だということに、気づいているんですか)
(布越しでも、わかるんですか)
頭の中で繰り返しながら、それ以上何も考えないようにした。
今は、看病に集中する。それだけだ。
*
しばらく、部屋の中は静かだった。
閣下が目を閉じている。眠ったかどうかはわからないが、呼吸が少し深くなった気がした。
私は椅子を引いて、枕元の近くに座った。
額の布が乾いたら替える。茶が冷めたらまた淹れる。それだけのつもりだった。
それだけのつもりだったのに、目が閣下から離れなかった。
(私は……心配している)
あ、と思った。
心配している、という感情に、改めて気づいた。
今朝の朝食で顔色がおかしいと思ったとき、心配だと思った。
フィリップさんが「熱が出た」と言ったとき、手が動いた。
薬草茶を作りながら、どうすれば楽になるかを考えていた。
全部、心配していたからだ。
(閣下のことが、心配だ)
それだけのことなのに、言葉にするといやに重かった。
前世も含めて、誰かを「心配だ」とここまで自覚したのは、久しぶりだった気がした。
人との距離を一・五メートルに保ち、本音を聞きすぎないようにして、傷つかないようにして生きていたら、いつの間にか誰かを心配する習慣も薄れていたのかもしれない。
でも今は、心配している。
(それは、どういうことかな)
答えは出なかった。
出なかったけれど、答えを探すのを急かす気持ちも、今日はなかった。
ただ閣下の顔を見ていた。
眠っているのか、うとうとしているのか。少し楽になったのか、目元の力が抜けている。
看病をするというのは、こういう時間なのか、と思った。
前世では風邪をひいても一人で寝ていることの方が多かった。誰かに看てもらったのがいつだったか、もう思い出せない。
でも今、こうして誰かの枕元に座っている。
それが、思いのほか——苦ではなかった。
*
額の布を替えようと手を伸ばしたとき、閣下が目を開けた。
「……アメリア」
「はい」
「まだいるのか」
「います」
閣下がしばらく天井を見た。
「(……いてくれるのか)」
小さく聞こえた。
「ここにいます」と私は言った。
閣下がこちらを見た。熱のせいか、目が普段より少しだけ柔らかかった。
「……無理をしなくていい」
「無理はしていません」
「仕事があるだろう」
「今日の分は終わりました」
嘘だったが、後で片付けるつもりだったので、あながち嘘でもない。
「……そうか」
閣下がまた天井に目を戻した。
しばらくして、またこちらを見た。
「……薬草茶」
「はい」
「苦かったが、効いている気がする」
「よかったです」
「(……アメリアが作ったからかもしれない)」
心の声が聞こえた。
そんなことはないと思うが、口には出さなかった。
代わりに「もう少ししたらまた淹れますね」と言うと、閣下が小さく頷いた。
それからゆっくりと目を閉じた。
眠る前に、一言だけ聞こえた。
「(……ありがとう)」
声に出す言葉ではなかった。
誰かに届けようとした言葉でもなかったかもしれない。
でも、聞こえた。
私は額の布を替えて、そのまま椅子に座り続けた。
閣下の呼吸が、少しずつ深く、穏やかになっていった。
窓の外に、昼の光がある。
静かな昼下がりだった。




