望郷の獣
白銀に染まる村を、狼達と子供達が互いを温め合うように眠っている。時は深夜。外はしんしんと雪が振りしきり、とても静かな時間が流れていた。白銀守之神もまた、彼らを凍えさせないように、共に同じ小屋で身体を休めている。
土地神となり、眠るという事が必要でなくなったその身ではあるが、ここ数日の夜はこうしてゆったりとした時間を過ごしていた。
以前はどうしていただろうか。ただの狼として、一介の獣として野山を駆け抜けていた時代。母の懐で兄弟達と眠っていた頃の淡い記憶。子供達と過ごす夜は、その古い古い、大切な思い出を想起をさせてくる。
「…………。」
白銀は、内心で自嘲してしまう。
土地神の任を請け負った自らが、今さら望郷にも似た思いに心が満たされたのが、少し可笑しかったから。
だが、一房の尾の毛を抱きかかえて眠る、まだ幼い子供を見つめる。その胸中には紛れもない慈しみかあり、義務感ではない保護欲の発露を実感していた。
土地神へと至るための修練に明け暮れた彼は、子を残すことは無かったが、もし自らの血肉を分けた子供がいたとしたら似たような心持ちになったのだろうかとも考える。先代の土地神に見出され、自らも選択した土地神への昇華だが、また違う可能性もあったのかもなと、彼は子供たちを見守り考えた。
その心持ちの変化は、間違いなく態度に表れていた。彼と狼達、そして子供達の距離は間違いなく近づいていた。
やがて、冬は明け。森の木々が緑を取り戻し春が訪れた。子供達の中で幾人かが、他の人里に出向き田畑の勉強をしてくると申し出たり、大工仕事に弟子入りし、技術を学び戻ってくるのだと里を旅立った。里の力を取り戻す為に、子供達はその戦い方を選んだのだ。
里に残った者は、秋穂を中心として野山の恵みを中心に食いつなぎ、見様見真似で畑を作り、日々を懸命に生きた。彼等の帰る場所を守るのだと、皆が助け合い幼い力で毎日を戦っていた。
狼達もそれを良く助けていた。旅立つ者達の道中を見送り、そして里に戻れば直ぐ様山の中を良く駆け、里の子供達と共に山の川の恵みを持ち帰り共に生きるという事を、実践してみせていた。
そんな折、一組の狼の夫婦が出来た。若い狼達の中でも、特に聡明な者と狩りの達者な二匹が子宝に恵まれた。四匹産まれたその小さな命。だが、その内一つは産声を上げることはなかった。
死産、まだ若く初めての出産を終えた二匹の心に大きな、とても大きな影を落とした。里の子供達も、狼達も新しい命の誕生を喜び、そして目を開ける事の出来なかった命を悼んだ。それは白銀も例外ではない。土地神となり、幾回もの誕生と別れを見届けた彼ですら、その悲しみは推し量るには余りある。
巡る命の話を、白銀は子供達と狼達に伝えた。世界は、大きな循環の螺旋の中にあるのだと。東の空から大鴉が毎日飛び立ち、西の空へと帰っていくように。世界は常に廻り、その中に生きる全ての命もまた、誕生と終焉の巡りの中にある。子供達の親、生まれることの出来なかった子狼。そして、あの夜白銀の爪牙に散った賊。全て命としては等しく、土に還れば新たな命の糧になる。そうして、昨日よりも少しだけ良くなる筈の今日に向けて、世界は今を巡り回るのだと。
そんな話を、まるで夜の昔話のように白銀は、子供達に、狼達に伝えていた。
特に秋穂は、その話を真剣に聞いていた。巫女と任命された彼女の責任感が、白銀の言葉を聞き逃さないようにと、その姿勢を維持させたのだろう。子供達は、その子狼の亡骸を、自分達の親と同じ場所に埋めても良いかと申し出てくれた。その子の親になれなかった二匹に対して秋穂達は真摯に言葉を掛けた。二匹は何を思ったのだろう。黙して頷くような動きを見せて、その亡骸を子供達に明け渡した彼らの瞳に悲しみと、それを分かち合う家族への慈しみがあったのだと思う。
葬送は、狼達の遠吠えと呼応するような子供達の唄で成された。空に響き山に溶けていく失った者への祈りは、子供達にとってもようやくあの夜唐突に訪れた親達との別れの機会ともなったのだった。
時は巡りそうして、3度目の冬を迎える時、田畑の勉強に出て、少し逞しくなった子供達が帰ってきた。世話になった農家から得た知識は、直ぐに他の子達に伝播し冬の寒さが厳しくなる中、来年の田畑の支度をドンドン進める様は頼もしく、間違いなく里に大きな活気をもたらしてくれた。
その頃になると、産まれた3匹の子狼も立派に育ち里に残る二匹と、山に帰り狼として自然の中で生きる事を選んだ一匹に別れた。山に帰っていくその姿を子供達と狼達は見えなくなるまで見送った。
秋穂もこの時より、巫女としての修練が本格化した。畑が軌道に乗り余力が生まれたのが大きいが、そろそろ白銀も土地神の責務に注力したいという理由もあった。
そういったあれやこれやで、里そのものがかなり本格的に動き始めたそんな中、一人の旅人が里を訪れた。
西の都から旅立ち、書物を書きながら各地を巡る旅をしているのだという。彼は最初こそ人と狼。そして土地神である白銀がここまで共同体として共生していることに大変驚いていたが、彼としても刺激的な滞在だったのだろう。多くの事を伝え語っていた。
彼は一ヶ月ほど里に滞在し、そろそろ里を去るという時。里に残っていた子狼の一匹が、彼の旅路を共にしたいと白銀に申し出た。山に戻り、狼として過ごすも里に残って家族を守って過ごすのも、価値も意味も大きくあるとその狼は十分に理解していた。だが、外の世界というものを知った彼の好奇心はもう、抑える事など誰にも出来なかった。ここで白銀はむしろ止めたいと考えたのだ。山の外。庇護下の外に戻ってくる宛もない旅路に不安が勝ったのだ。そんな白銀に対して、止めてはいけないと言ったのが秋穂だった。
彼女は、以前話した白銀の循環の話を持ち出して
「巡り廻るのが命であるならば、留まり淀むのではなく、旅立ち広がるのもまた命ではありませんか?」
それは当に、白銀が過去に北の御仁から言われた言葉とほぼ同じであった。結局ぐうの音も出ずに旅立ちを許可した時、その子狼はとても喜び瞳の輝きは満天の星空もかくありきといった程であった。
しかし旅人と狼の物語は、ここでは語るまい。だが、彼等の旅路は多くの出会いと別れ、そして艱難辛苦を乗り越え栄光と共にあった。その話を白銀達が知るのは随分と先になるのだから。
さて、この頃になると、旅人という外部の刺激を受けた事によるものか、秋穂も村の顔役としてかなり板についてきた。田畑の管理に蔵の管理、共同体故の個々人の衝突などまだ少女と呼べる歳にも関わらず、とても良くやっていた。
冬を越すと、子供達が世話になった他の里の農家が様子を見に来てくれた。最初は狼と共にあるというのを怖がった様子だったが、秋穂がその客人達と面と向かい、知識、知恵を授けてくれたことへの惜しみない感謝と狼達は欠け替えのない家族であるという紹介は、客人達の緊張を解くには十分な効果があったようだった。
その様を白銀はなんとも嬉しく、そして愛おしく見守っていたのは、本人は自覚していないことである。
喜ばしい事に客人達は、ただ子供達を心配してやって来てくれたのではなかった。なんと、秋穂達にに路銀を稼ぐ手段までもたらしてくれたのだ。言ってしまえば山の恵や、作物を村の外に売りに行く為の知恵だ。さらには山に出れず、畑仕事とまだ難しい年少の子供達には、草鞋の編み方までも彼等は伝え教えてくれた。
それで路銀が溜まれば、ボロボロになった着物を買い替える事ができる。
秋穂も勿論、ただ施しを受けるだけではなかった。山の恵みであった川魚の燻した保存食等々を彼等に土産として手渡した。最初こそ、受け取りを辞退しようとしていたが、
「私達が皆様から頂いた知識には、品物では比較にならない価値があります。ただの返礼では足りないかもしれませんが、私達もこれから里として…誇り高い狼と共にあります。なので、……せめてただ施しを受けだけではならないのです。見栄は張らせて下さい。」
彼女は、少し恥ずかしそうにそう笑った。
恩を受けたのは勿論だが、せめて対等でいさせて下さいと、彼女なりの筋の通し方だった。そうも言われれば客人達も致し方ないと、破顔してその土産を快く受け取ってくれたのだった。
誰かの笑顔が、脳裏を過った。
ノイズまみれの記憶に、見覚えのある誰かの笑顔。
決して、呑み込みたくない記憶。
キオク?記憶。
ずしりと、乾いた荒野に爪が食い込む。空が茜色に染まり、天蓋の大鴉も遥か西の彼方に羽ばたきの影を見せるばかりだ。
間もなくすれば、空は暗い闇と痛いほどの光の粒に覆われ、かつて闇夜を癒した兎の成れの果て、残骸が空を揺蕩う時間となる。
ミシリミシリ
身体のあらゆる所が軋む。
否、身体ではない。心が魂がいまだ悲鳴を上げていた。
何もかも呑み込んだのに、自らを呑み込むことの出来ない、哀れな虚ろの口腔。
獣は、バタリとその場に倒れ伏す。眠りのいらない筈のその身体が、気を失うように深い深い眠りの底へと沈み行く。
夢、幻想。
大切な、喰ってはいけない何か。
牙を立てるべきではないそれらが、流れて行ってしまうようで。流す涙は、もう随分も前に枯れ果てた。
私は筆を置いた。狼が眠ったのならば今現在他に書くべきこともないからだ。夢の中なんていうのはそれこそ門外漢、微睡みの世界を見守る物好きで、酔狂な三柱目の姉に任せれば良い。
しかしと、これまで記してきた狼の今を振り返る。夥しい量こそあるが、このほとんどが食らい尽くした狼の歩みで満たされている。記すものが沢山あった時代などもう随分と昔の話だ。
完全に停滞しきったこの世界を、何故母はまだ見守っているのだろうか。その羽ばたきのまま、新しい世界を照らせば良いのにと考える。
がしかし、『今』『現在』を観る私は、些か即物的な側面がどうしてもある。ゆえに母達のこの選択には私には計り知れない何かがあると信じて記し続けるしかないのだろう。
それにしたって、長いこと書き続けすぎたがと、一人愚痴るくらいは許して欲しい。私が書いた『今』を纏めて『過去』にしてくれた姉の書を開く。
懐かしい景色がそこに広がっていた。命に溢れ書くべきものが多すぎたその時代を、本の中に眺めた。
もう書くべき『今』に不足した私が触れられるのは過ぎ去り過去となった今だけなのだ。




