夢見の獣
人里は、相当に苦しい冬を迎えた。
狼達の助けにより、山菜や獣の肉などの恵みの糧は、子供達が過ごす分には何とか成っていた。それでも、その日暮らしがやっとで、冬を耐え忍ぶには備蓄が不足している。蔵に多少の蓄えはあったようだが、大部分は焼失していたらしいと、土地神の彼は報告を受けていた。しかもよりによって、今年の冬は例年に増す寒波に見舞われていた。殆どの家が焼き落ち、少しだけ残った農具小屋で雨風を凌いでいた子供達からすると、生き死に関わる重大な問題となる。
さて……。
どうしたものかと土地神の彼も頭を捻る。手を貸すのは容易い事だ、しかし土地神である自分が余りにも干渉することもまた、理と異なる行為である。神であるが故に、森の者達に対して公平であろうとするが故の悩みに、うんうんと唸っている彼の元に、とある来訪者が訪れた。
「狼の、息災であったか。」
「……北の御仁……。」
それは、ここいら一帯の土地神の元締めとも言える存在であった。見てくれこそ、今は一匹の小さな蛇の姿だが、それは数ある化身の一つでありその存在の真の姿とは異なる。とは言っても、土地神の彼もこの北の御仁と呼ぶ存在の真の姿を知り得ないのだが。
「鳥どもが囀っておってな。狼の山で惨事があったと。」
蛇の姿の北の御仁が、スルスルと洞穴に入ってくる。白狼はそれを姿勢を正して迎え入れる。
「…拙の不徳。いたずらに同胞を失ってしまいました。」
「相変わらず、真面目だなぁ狼の。肩肘を貼り過ぎだ。……ふむ、どうせお前の事だ。生き残りの子供達を特別扱いするのもなんて考え、しかし人間もまた森の同胞。何とか出来んものかと頭を悩ませていたな?」
白狼はうっ、と正に図星を刺され返す言葉もないと頭を下げる。北の御仁はその様子をケラケラと笑いやはり変わらないなとつぶやく。そのまま彼は続けて
「時に狼の、西にある人の都は知っているか?」
「……鳥どもの噂程度ならば、確か幾つかの人里が寄り合い大きな生活圏を成した……と。拙が知るのはその程度ですが……。」
聞いた話ではあるが、と北の御仁は前置きをして白狼を見上げる。
「彼の土地に置いて、土地神は人に祀られ信仰という形で神の懐に身を置いているという。奉仕とも呼ぼうが、しかし人は神との共生関係を強く結び。神もまた、人の奉仕により生まれた余力で、土地の維持管理に注力する。まぁ条件は些か異なるが、狼の。貴様が山の狼を眷属に置くのと同じように人もまた眷属に置き、庇護するのは摂理として一個の手であるぞ?」
青天の霹靂。白狼は思わず唸り、その考え方に納得をしてしまう。人という種が國全体で見た時にかなり勢力を伸ばしている実情を鑑みれば、その種を懐に置くのは合理と思えたからだ。土地神としての責務は存外多忙を極める。狼達にその一端を担わせていたが、確かに知恵のある人ならば助けになるだろう。
だが、
「しかし北の御仁。人は些か知恵を持ち過ぎる余り、御するには相応の負担があるのでは?」
「左様。異なる地では神と人が袂を分かち、恐ろしい戦火を招いたという事もある。……だが、曲がりなりにも神を名乗る我らが、その威光を持ってしても守るべく同胞に刃を向けられるならば、それは神として不足の証左である。貴様にこの話をしているのは、十分な神としての器を貴様が持つと確信しているからだ。」
その言葉には間違いなく信頼が宿っていた。そして同時に、白狼はその言葉の端々から読み取れてしまった。
「北の御仁……もしや貴方は……。」
その先を口にするのを躊躇う。白狼の瞳に隠し切れない動揺が溢れた。その様をまた蛇の姿の北の御仁はケラケラと笑う。
「人の言葉だが、諸行無常というモノだ。天蓋を渡る大鴉に夜を見守る兎ならいざ知らず、地に根を張り時の中を揺蕩う我らはまた循環し、時を流れる血のようなもの。終わりはいつか等しく訪れる。なら、先立って後継を定めるのも先達の役目であろうな。」
白狼は返す言葉を見失ってしまった。湯水のように沸き上がる記憶、思い出が。北の御仁から受け取った言葉の数々が白狼の心を満たしていく。
そんな様子の白狼を見て、北の御仁はまたケラケラと笑う。
「そんな様子では困るぞ狼の。他の者らはまだ若すぎるので、貴様には確りとして欲しい。……まずは、貴様の守る土地の同胞を貴様なりに救ってみせなさい。続きの話はそれからだ。」
白狼はじっと蛇を見つめると、そっと鼻先を近づける。最大限の親愛の意思表示だった。親とも慕った相手と、後どれ程の時間を共に過ごせるのか。寂しさ、侘しさは拭いきれずともせめて期待には応えたいと、白狼は立ち上がり今一度北の御仁へ視線を投げかける。
「北の御仁、ありがとうございます。未熟な拙ではありますが、全う致します。」
彼はそれを告げて、洞穴を飛び出し山を駆け下りていく。その後ろ姿を蛇は慈しむような、優しい眼差しで見送るのだった。
人里に降り立った白狼を出迎えたのは、あの時の闇夜を思わせる黒髪の少女だった。しかし、あの時より幾文か線が細くなっているように見える。育ち盛りの年の頃にも関わらず明らかに血も肉も足りていない。
「と、土地神様……どうして?」
少女は困惑した様子だった。その表情からは緊張も伺える。それはそうだ、あの日から時間も立ち何度も問題はあった。
意思疎通が十分に行えない狼達との会話。衝突だって2度3度の話ではない。それでも懸命に言葉をかけ、共に歩んである程度の信頼関係を築けたつもりだった。が、彼らが時折土地神への報告のために山に入ったり、遠吠えをしていたのは知っていた。
どんな報告を受けていたのか、もしかしたらいつまで経っても里を建て直せない私達に痺れを切らしたのかもしれないと、少女は最悪な想像ばかりしてしまう。
そんな様子の少女を尻目に里をぐるりと見回す。懸命に耕し直そうとしている畑、少しでも片付けられている燃え落ちた家の残骸。廃材を使ったのだろう。屋根を広くした農具小屋。また、彼女以外の子供達の姿も認める。多少痩せてはいるが、彼女程身を削っている者はいない。
年長者としての責任か、おそらく彼女は自分の分すら年少者に分けているのだと予測するのは容易い。
そして村の外れには多数の墓地。子供達が自分達で土を掘り、焼け焦げた親達を埋めたのだ。その様を想像すると白狼の脳裏にまた、北の御仁が過る。
いつか訪れる別れ。しかし前もって覚悟をする時間を貰えた別れと、子供達の突然脈絡もなく奪われた別れを比較するのは致し方なのない事とは分かっていても、どうしても考えてしまう事だろう。
「童……。」
あの時と、同じ言葉で少女に語りかける白狼。
その声音から、込められたモノが優しさである事に気が付いた少女の瞳から僅かに緊張が抜けた。
「名を聞こう。」
「わ、私は秋穂。父が秋に多くの実りを授かり、食に困ることのないようにと、名付けてくれました。」
少女、秋穂が名乗りは、自信に満ちていて。その名に誇りを持っていることを明確に告げている。白狼は彼女にゆっくりと頷き、
「ならば秋穂。拙は土地神として、この土地に住まう者共も守る責を担う者として命ずる。拙の巫女となり、この里に住まう者共と共に拙に奉公せよ。さすれば相応しい対価と繁栄を、この土地神、白銀守之神の名において約束しよう。」
白狼、白銀守之神の宣言は彼のあり様すら変えるものだった。土地神はその土地を守り、維持し、襲い来る災禍に立ち向かう者であるが、彼が宣言したのはそれ以上の保護者としての宣言。土地の神から土地と人の神への変容を意味していた。
「まずは秋穂よ、拙の巫女を務めるには健全である必要がある。それには些か身体が弱り過ぎているな……。少し手を貸してやろう。」
彼は踵を帰して、畑に向かう。秋穂や子供達、そして五匹の狼達がその様子を見守っていると、彼の周囲が淡く緑色に輝く。その輝きは大地に流れ込み、優しい風を伴って里を吹き抜ける。
するとどうだろう。子供達が日々少しづつでも耕し直していた畑から芽が生えグングンと芋やカボチャ等の実りが溢れていく。子供達はその様に歓声を上げ、飛び上がり喜ぶ。が、彼はそれを一つ吠えて制する。彼は振り返り村に残った子供達と狼に向かい厳しくもどこか優しい眼差しを向け諭すように語る。
「これは、君らの不幸への施しだ。しかしおいそれと行えるものではない。摂理に反した神の御業である。この冬はこれで越し、巫女たる秋穂は相応しい身体を取り戻せ。……春から、君らには沢山働いて貰うからな。」
その言葉は、指標となった。終わりの見えない復興に日々を追われて、頼れる大人もいない彼等にとって明確な目的は何よりの追い風となった。毎日毎日をただ生きる糧を得て、差し迫る冬を恐れていた子供達にとって、勇ましいその土地神の姿に、自然と尊敬と畏怖を抱いたのだ。
「土地神様、いえ白銀様!ありがとうございます!」
子供達の一人、あの夜黒焦げになった親の亡骸の上で泣いていた子供が声を上げる。その頬にはその時付いたのだろう、痛々しい火傷の後がのこっている。しかし、心に大きな傷を受けたであろうその子が、今率先して感謝を伝えてくれるまでに心を確り保っていたるのは、きっと秋穂が率先して子供達を導いたからだ。その苦労は推し量るには余りあるだろう。
その晩は、村の子達も五匹の狼も共にたらふくと腹を満たす。白銀守之神はその様を焚き火に照らされて見守っている。
「白銀様……。」
と、そんな静かな様子の彼に声をかけたのは秋穂だった。久しぶり満足のいく食事に有りつけたハズの彼女だが、その表情はどこか暗く。後ろめたさを滲ませていた。
「すみませんでした……結局お手を煩わせる結果になってしまって。」
彼女は深々と頭を下げる。
「私達は…結局何も。折角狼の皆さんの力も借りたのに…。」
彼女は悔しそうに唇を噛み締めて呟く。が、それを遮るように白銀守之神もまた口を開いた。
「あの日、鳥どもが囀っていた。」
秋穂は、はっと顔を上げる。彼の表情は相変わらず子供達とそして共にある五匹の狼に向けられていた。
「狼が、人なんかと共にいられる訳がない。いつか子供達は、狼に食われるだろう。牙も爪もなく、脆い人の世話に狼がいつまで耐えられるか。なんて言う風にな。」
その言葉に秋穂は思わず唾を飲む。いや当然の推察だと彼女も納得してしまう。だが実際は違った。
「秋穂。お前の村は、そんな小鳥共の邪推とは違う結果を勝ち取った。それは君等が狼の者達と対等になろうと日々を過ごしたからだ。……狼は言葉を持たないからな、匂いと表情で見るしかないがよく分かる。奴らは今、君等と共にある事を誇りに感じている。…だから何も等と言ってやるな。奴らの思いを踏みにじる事になる。」
秋穂は、その言葉をゆっくりと噛み砕きじっくりと飲み込んだ。するとポロポロと、大粒の涙が滴り出す。あの惨事の夜から、何度涙を堪えただろう。何度嗚咽を飲み込んだだろう。白銀守之神は、そんな彼女の様子を見て寝ていた身体を起こし、鼻面で彼女を抱き寄せる。彼の胸元の温かい毛皮が秋穂を包み、その嗚咽を喧騒に届かせないようにして。
「赦す。そこならばどんなに声を上げても子供達の邪魔はしない。」
それだけ告げて、また子供達と狼達の楽しむ様を見守るのだった。
私はふむと、その書を閉じる。
狼が、ただの土地神でいられるなくなった日の記憶。
6柱いる姉の誰かが記した記録。彼女達は、この軌跡を記した時に、この獣の変化をどう評価したのだろう。神格の昇華?それとも人の世に触れたことによる堕転?
私は少なくとも、神の意味合いが変わろうとも変質はないと評価する。元よりこの獣が生来持つ性質はなんら変わっていないからだ。ただ視座が少し変わったのみであると考えた。
が、それであるならばだ。この獣にこんなにも注力する意味には到底足り得ない。何か他にもある筈だと私は再び筆を手に取って、その姿を記す。私の役目は『今』を記す事なのだから。
咆哮が、乾いた大地を揺らす。虚無に蝕まれ色も匂いも灰色に沈む狼の咆哮は、溢れ出す憤怒が火山の如く吹き上がり山体を吹き飛ばすような勢いすらある。
天蓋の大鴉はその様を嗤いがなり、羽ばたく。
何をそこまで泣くのですか虚無たる狼よ、貴方が、貴方ガタが抗い得たその様を、この荒野を思い泣くのですか?しかし貴方も知っているでしょう?循環は戻ることは無いのだと。さぁ進みなさいな。その朽ちかけたような細枝のような四肢を動かしなさい。
大鴉の謳うような言葉に、まるで応えるために獣はユラユラと歩みを進める。その一歩一歩に怨嗟、憤怒を踏みしめて獣の巡礼は続く。
が、不意に胸元に温かい響きが蘇る。涙の冷たさと、嗚咽の響きが獣の汚れきった胸元にあった気がする。当然だが、何もそこにいたりはしない。ただ何か温かいモノが在ったという記憶とも言えないようなあやふやな感覚だけが、狼の歩みを今止めた。
怨嗟も憤怒も、一瞬消え去った。不思議と痛みも遠のき、四肢に力が戻った。
祈り、願い。
狼の脳裏を過る言葉。意味を理解する事は出来ない。そんな知恵はとうの昔に飲み込んだから。それでも不思議と、身体を引きずるのではなく、彼の足取りは地に確りと踏みしめた物に変わっていた。
その歩みの先を、大鴉は飛びすぎる。西へ西へと。その地平線に沈み行く大鴉を、狼はただ目指し一歩一歩歩むのだ。




