飢えたる獣
飢えたる獣
痩せ細り、見窄らしく血肉に汚れた醜い白い狼。その蒼穹を思わせる蒼い眼は憤怒と憎悪と、羨望に満ちて浅ましく全てを欲し、しかし満たさせる事のない飢餓の獣。
喰らいつくし満たされず、嚥下するも満たされず、やがて遍く悉くに牙を立て呑み込むも満たされず。虚しくアギトは空に吼え、荒れ果て貧しい荒野の只中に木霊する。
荒野の空を揺蕩う黒い翼。嘲笑い、愉悦に歪み大鴉。
醜い白狼の咆哮に呼応し、耳障りな金属音にも似た声をがなり立てる。空を羽ばたき。荒涼とし枯れ果て終わった大地を駆けずり回るその様を笑い、満たされぬ慟哭を嗤い、血肉に醜く汚れゆくその様を嘲笑う。
古くは何か、曰くを持つ獣だったやも知れぬが、最早その獣が何者であったかなど、誰も知る由もない。きっと何もかもを食い尽くしてしまったから。故に名も無い獣は、下賤で浅ましく、醜く汚らわしい獣は、唯一その牙の届かない大鴉に向かい吼えるのだ。
拙を見るべからず、拙を知るべからず。違えばその全てを喰い破り、喰らい尽くし、その悉く虚無たる口腔へ迎え入れん
大鴉もまた、がなり笑って応える。
あぁ浅ましき獣、その歯牙は私には届きますまい。汚れ穢れた醜き獣、その蒼穹たる眼光で私を覗くも、その呪詛は私に届きますまい。矮小で脆弱な虚無の狼よ、その悉くを葬る牙を持って世界を喰らい尽くしなさいな。そうすればきっと、アナタの呪詛も牙も願いも望みも私の元へと届きましょう。
突き抜けるような蒼穹を、大鴉は笑い飛ぶ。狼はその影追い縋り、空を自由に舞う唯一の存在へ絶叫のような、悲痛の雄叫びを上げた。
この國では、神々が共に在った。人を含んだ生き物達は神々の庇護の元、または災いに晒されながらも日々を生きている。
白狼は、とある山の奥でその一帯を守る土地神として崇められていた。白い毛皮は日の光を浴びて時折銀色に輝き、快晴の空を思わせる瞳には気品と美しさを携えていた。山の土地神の例に漏れずあまり人々とは関わらなかったが、彼の縄張りの内には小さな集落があった。狩猟民族でありつつ、小さな田畑を営み日々を自然と共に暮らす人々であった。
彼は狼故に匂いと音に敏感だった。天蓋を飛ぶ大鴉が隠れ月の光も差さない静かな夜に、彼は焔の燃える音と人々の悲鳴。そして夥しい血の匂いに気が付いた。彼は寝床としている洞穴から体を出すと人里の辺りから火の手が上がるのを見付けた。山の森にまで燃え移っては厄介かと彼は駆け出す。その様こそは、正に流星が如くに彼の身は山肌を駆け下りる。
道中で、山の鳥達が語っている。
「山の人が、外の人に殺されている。」
「同じ人とは思えない。」
「人間は恐ろしい、同胞にあんな惨いことを。」
状況を理解した狼は、更に加速した。山の外れで生活しているとしても、同じ山に住まい恵みを共とする同胞の危機ならば、山の主たる土地神がその脅威を撃退する役目を持つ。
有り体に言えば、賊による襲撃。彼が到達した頃には、里の人々の大半が賊の手に掛かっていた。そして何よりも彼の逆鱗に触れたのは、余興のつもりだろうか子供の前で親に火を点けるその所業である。
彼の遠吠えは、山に木霊し地を揺らし天に響いた。それは彼の報復の狼煙であり、もう決して許さない事を告げる宣告である。爪が牙が、同胞への悪虐を尽くした者共へと振りかかる。先に記した通り、この世界の人々は神と共に在るのだ。加護、庇護、恩恵。そして災禍と共に。
やがて月の兎は姿を隠し、天蓋の大鴉が東の空より眩い光と共に羽ばたく。
賊の悉くは白狼という災禍に呑まれた。しかし、だからといって失ったモノが戻るわけではない。黒焦げになった肉の上で、泣き叫ぶ子供の親が生き返る訳では無いのだ。踏み潰された田畑も、燃やされた家も、失った家族も例え土地神と言えど、太陽の化身である大鴉であっても取り戻すことは叶わない。
働ける大人や、知恵のある老人はもう生き残っていない。このままではいずれこの人里は滅ぶだろう。狼が少し逡巡していると生き残りの年長なのだろうか、一人の闇夜を思わせる黒髪の少女が、涙の跡を残した顔で、しかし揺るぎない決意を秘めた瞳で狼を見つめ口を開いた。
「土地神様!助けて頂いてありがとうございます。でも、このままじゃぁ私達は食べていく事ができません……だから、だからどうか。私達を手伝って下さい!!」
少女はガバリと頭を下げて、狼に懇願した。余りにも純粋な他力本願であり、むしろ清々しいまである。その姿勢を彼は、心の何処かで慈しむような笑みで見つめていた。失意に飲まれ、諦めるには十分すぎる夜に晒されながらも、彼女は生きる為に考え行動しようとする。生きる者であった。
人もまた、同じ山の恵みを糧とする同胞か。
狼は一瞬の逡巡の後に、大きく遠吠えを上げる。直ぐに数多の声が答えた。そして、数分と経たぬうちに五匹の若く、立派な狼が集まった。生き残りの子供達はそれを怯えた様子で見ているが、少女だけは物怖じせずに白狼を見上げる。
「土地神様……。」
しかし、その声はまだ年相応に怯えが混ざる。
この村の子供達は良く聞かされていた。山に住む狼は、土地神様の眷属だから無闇に近づいてはいけない。彼らは賢く、そしてとても恐ろしいのだと。
少女は生き残りの子供達と土地神。そして山から姿を現した狼を交互に見る。子供達に動かないように指示を出しながら、意図を理解しようと必死になっていた。
「童。」
土地神は、少女に向かい口を開いた。彼女にも分かる言葉で。少女は目を見開き、心底驚いた様な目で白狼を見上げる。
「災難だったな、間に合わなくて済まなかった。」
想像だにしない言葉に、彼女は目を白黒させ白狼をじっと見上げる。だが、白狼は彼女から視線を外し五匹の狼へ視線を向けて、一息鼻息を吐くと直ぐに五匹が白狼の元へと集まり、じっと見上げる。まるで一語一句聞き逃さないとするような真剣な表情と耳の動きを見せる。
幾拍かの沈黙が、少女には無限のようにも感じる。人には意味を受け取れない言葉ではない意思疎通が、彼と狼達の間で行われていた。
「……山は生き物だ。山に住まう数多の生き物が共存し、共栄しそして食う食われるを繰り返す循環の地。山の外の者達の暴虐で、その一端が壊死するのは土地を守る拙としても忍びない。」
少女は彼の言葉のどれ程を理解できているのだろうか。まだ幼く、生き死にを漠然としか飲み込めない彼女にとって、彼の語る死生観を理解するには彼女自身の人生の厚みが、まだ及ばない。
それでも、ただ理解できないと投げ出すではなく、彼女は彼女なりに彼の言葉を必死に噛み砕いている。飲み込めずとも、少女は少女なりの価値観で彼の言葉に向き合っていた。
「ここに呼んだ彼らは、君達と生活を共にする為に来た。狩りを教え、恵みへ導くのが役目だ。だが、人の技は人しか知らぬ。獣と同じように狩りと恵みに生きるか、自ら恵みを育てる術を学ぶかは君達のこれからに委ねる。拙はその行く末、彼らを通して見守るとしよう。」
彼はそれだけ告げると、少女から視線を外して山へと踵を返す。少女は手伝って欲しいと願ったが、彼は手伝うのではなく指導者を用意してくれたのだと、少女はようやく理解できた。つまりあの五匹の狼こそが、自分達に山での生き方を教えてくれる先生なのだと。
理解できれば彼女は慌てた様子で、山へと戻っていく彼へ向かって声を張り上げる。
「土地神様!頑張ります、頑張りますから!私達を助けてくれて、ありがとうございます!!」
少女の宣誓と感謝を聞きながら、彼は森へと帰っていった。道中、鳥達が囁く。
「気高い狼が、人なんかと共にいられる訳がない。」
「そのうち、我慢ならずにあの子達は、狼に食われるかもよ。」
「鈍くて、のろまで、牙も爪も脆弱な人の世話に、狼がいつまで耐えられるかな?」
鳥達はケラケラと嗤いながら囁く。空を自由に飛び、地を歩く者達を見下ろす彼ららしい言葉であるだろう。
だが。
土地神である彼は、山中にある大岩から残した人里を振り返る。五匹の狼を前に、懸命に何かを伝える少女の姿を目にする。狼達も彼女を前に整列している様子に確かな歩み寄りを認めた。関わる事のなかった両者の反応。それが山にどのような結果を齎すのか。彼は土地神として見届けようと決意した。
古い、古い夢を見ていた気がする。
何か忘れ難い時代の夢。それでも忘却の虚ろに、堕ちしまった思い出。力の入らない足が、もう立てないと泣き言を言おうとも、彼は気絶するように倒れていた荒涼とした大地に爪を立てて体を起こす。
空からは、兎の残骸が既に流れ果て。東の淡く輝き出した天蓋から忌々しき羽ばたきが世界に響き渡る。
彼はその空に向かい、その見窄らし体躯には決して似合わない。不釣り合いな絶叫にも似た遠吠えを上げる。
天蓋を渡る大鴉の、がなり響き渡る嗤い声が、この終わった世界に未だ巡る『朝』を告げたのだ。
私ははたりと、筆を止める。そしてふと考えるのだ。何故母はこの狼に委ねているのだろうかと。虚無であるも虚無になり切れず、このまま真の終焉に辿り着けるかも怪しい、最早一介の獣にまで堕ちた彼の『未来』に何を見ているのだろうか……。私にはどうしても推し量る事が出来ない。今もこの獣は、走ることすら出来なくなった体を、枯れ果て干からびた大地に引き摺って追い縋るだけの浅ましい彼に、何が出来るのだろうか?
時の巡りを見る姉ならば結末を知っているかもだが、彼女は決して教えてはくれないだろう。今の巡りを記す私の役割を冒すような事を聡明な姉たちがする筈もないのだから。ならば、私の役目は変わらずこのまま『今』を見届けよう。
筆を今一度走らせる。
狼は、天蓋の大鴉に導かれるまま、西へ西へと止まらず進む。何度も倒れ、それでも再び立ち上がり進む。
彼はそうしてずっと過ごしてきた。世界が終わった後。終わらせてしまった後、彼はずっとずっと狂ったまま西への歩みを終わらせる事が出来ない。彼の牛歩のような歩みですら何周も星を巡っているのに、その旅路に終わりはない。だが、そんな彼が足を止める時がある。その瞬間、彼は辺りを何度も見回す。まるで何かを探すように。彼の怒りと怨恨で狂った青い瞳が、その瞬間にだけは異なる光を宿す。しかし、直ぐにまた天蓋の大鴉のがなり声を聞いて、また狂った色を宿して歩みを始めるのだ。
この瞬間、彼は何を探しているのだろう。天蓋の大鴉にもそれは知り得ない。彼だけが、それを見た狼だけがその残滓を知っている。もしくは、彼の旅の終着こそはその幻にあるのかもしれない。
虚ろな彼が、ありもしない虚像を探す時の瞳の色は、あれはきっと贖罪に濡れた哀愁の色だったと思う。




