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第9話:公衆治癒院のルールと、男たちの涙

「……ちょっと待ちなさい!」


館へ戻ろうと雪の中を歩き出していた私は、ハッと我に返って踵を返した。


このまま彼らを野放しにして浴槽へ突撃させれば、いくら緩速ろ過システムがあるとはいえ、一瞬で私のお風呂が「泥水の沼」と化してしまう。


元・土木エンジニアとしての現場管理の血が、その悲劇的なビジョンを許さなかった。


猛吹雪の中で整列する半裸の男たちに向かって、私は厳格な現場監督の顔で声を張り上げた。


「いいですか! この施設を利用するにあたって、絶対に守るべきルールを定めます!」


「ははっ! なんなりと!」


辺境伯様が直立不動で敬礼する。


「まず第一に『掛け湯』の徹底! 浴槽に入る前に、必ず手桶でお湯をすくい、体についた泥や汚れ、血糊を完全に外で洗い流すこと。


第二に、浴槽の中で体を擦ったり、汚れを落としたりするのは厳禁です。お湯はあくまで『温まるため』だけに使いなさい。このルールを破った者は、いかなる理由があろうとも即刻『出入禁止』とします!」


私がビシッと杖を突きつけて宣言すると、屈強な兵士たちは「おおおっ!」と感嘆の声を上げた。


「なんと……神聖な泉を汚さぬための、厳格なる戒律!」


「身を清め、心を鎮めた者だけが浸かることを許されるのですね! 承知いたしました、お嬢様!」


……いや、ただ単にお風呂を泥だらけにされたくないだけなんだけど。


彼らの重すぎる解釈にツッコミを入れる気力もなく、私は「じゃあ、あとはよろしく……」と言い残し、今度こそ館へと逃げ帰ったのだった。


◆ ◆ ◆


分厚い木の扉の向こう側。


石造りのドーム建築の中へと足を踏み入れた第一陣の兵士たちは、その異様な光景と空気に圧倒され、息を呑んで立ち尽くしていた。


「……すげぇ。本当に、外の吹雪が嘘みたいに暖かいぞ……」


天井には乳白色の濃厚な湯気が立ち込め、床下を通る熱水パイプのおかげで、足裏からじんわりとした温もりが伝わってくる。


彼らは魔物との最前線で戦う、黒曜騎士団の古参兵たちだ。


その体には無数の刀傷が刻まれ、肌は数ヶ月分の泥と魔物の返り血、そして自らの汗が混ざり合った頑固な汚れで、黒ずんだ鎧のように硬くこわばっていた。


手足の指先は重度の凍傷でどす黒く変色し、感覚すら失われている者も多い。


「お嬢様の教えの通りだ。まずは『掛け湯』で汚れを落とすんだな」


顔に大きな傷跡のある古参の小隊長が、震える手で木桶を掴み、こんこんと湧き出る熱湯をすくい上げた。


桶の中で揺れるお湯は、信じられないほど透明だ。


泥臭さなど微塵もなく、ただ純粋な熱だけを内包している。


彼は意を決し、その熱湯を自身の肩からザバァッと浴びた。


「――ッ!! ぐ、おおおおぉぉぉぉッ!?」


小隊長は一瞬ビクンと体を跳ねさせ、野太い叫び声を上げた。


マイナスを下回る極寒に晒され、凍りついていた皮膚と毛細血管。


そこに突如として「40度の熱」が叩きつけられたのだ。


それは初め、焼かれるような激痛となって全身を駆け巡った。


しかし次の瞬間、その痛みが、爆発的な『快感』と『解放』へと裏返る。


「あ、ああ……あったけぇ……! 熱が、血が巡っていく……!」


麻痺していた指先にドクン、ドクンと脈打つ感覚が蘇る。


小隊長は涙と鼻水を流しながら、何度も何度もお湯をすくっては頭からかぶり続けた。


こびりついていた黒い泥が、乾いた血糊が、柔らかな軟水に溶かされてボロボロと足元へ崩れ落ちていく。


「すげぇ……傷口に詰まってた泥が、全部綺麗に落ちていくぞ!」


「俺もだ! 手の指が動く……! 黒く腐りかけてた指の感覚が戻ってきたんだ!」


他の兵士たちも狂ったようにお湯をかぶり、互いの背中の泥を洗い流し始めた。


石鹸などなくとも、軟水と熱だけで十分だった。


ただ汚れが落ちていくという物理的な現象が、彼らにとっては「死の淵からの生還」と同義だったのだ。


体の汚れを完全に洗い流した男たちは、いよいよ湯気が立ち上るメインの浴槽へと足を踏み入れた。


「「「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ…………ッ」」」


肩までお湯に浸かった瞬間、ドームの中に、数十人の男たちの魂の底から絞り出されたような、重く深い溜息が響き渡った。


「あぁ……たまんねぇ……」


「骨の髄まで、熱が染み込んでくる……」


歴戦の猛者たちが、まるで子供のようにお湯の中で顔をくしゃくしゃにして泣いていた。


極度の緊張と、いつ魔物に殺されるかわからない恐怖。


そして常に付き纏う凍死の危機。


そのすべてのストレスが、40度の優しいお湯の中でドロドロに溶け出し、消え去っていく。


「……俺、三ヶ月ぶりの風呂だ。最後に温かいお湯を浴びたのがいつだったか、もう思い出せねえくらいだ……」


一人の若い兵士が、両手で顔を覆いながら嗚咽を漏らした。


その言葉に、周囲の屈強な男たちの目からも次々と大粒の涙がこぼれ落ち、透明なお湯の中へと溶けていく。


「お嬢様は……公爵令嬢様は、俺たちみたいな泥虫のために、こんな奇跡を作ってくださったんだ……」


「絶対に死なせねえって、言ってくださってるんだ。俺たちの命は、あの方のものだ……!」


温かなお湯に抱かれながら、兵士たちはヴィクトリアへの絶対的な忠誠と信仰を心に深く刻み込んでいた。


この日。


黒曜辺境伯領において、歴史的な『公衆衛生の革命』が起きた。


ヴィクトリアが己の欲望のためだけに作り上げたこの給湯システムは、結果として国境守備隊の衛生状態を劇的に引き上げることになる。


傷口からの感染症による死亡率は激減し、凍傷による手足の切断患者は皆無となった。


何より、兵士たちの士気と疲労回復の速度は、王都の精鋭騎士団すら凌駕するほどに跳ね上がっていた。


辺境の致死率を劇的に下げた『奇跡の公衆治癒院』。


その生みの親であるヴィクトリア本人は、今まさに自分の部屋のあまりの寒さに絶望し、ガチガチと歯の根を鳴らしていることなど、お湯の中で歓喜の涙を流す男たちは知る由もなかった。

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― 新着の感想 ―
ヴィクトリアの「働きたくない」「快適に暮らしたい」という、ブラックな環境を経験しているからこその切実すぎる動機が、周囲にはどんどん聖女の奇跡や深謀遠慮として受け取られていく、完全勘違い系な流れがとても…
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