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第9話:公衆治癒院のルールと、男たちの涙

「……ちょっと待ちなさい!」


館へ戻ろうと雪の中を歩き出していた私は、はっと我に返って踵を返した。


このまま彼らを勢いだけで浴槽へ突撃させれば、せっかくの湯が一瞬で泥水の沼になる。


しかも相手は、魔物と泥と血にまみれた国境守備隊である。


元・土木エンジニアとして。


そして、元・現場監督として。


この悲劇的な未来だけは、絶対に見過ごせなかった。


私は外套の前を押さえながら、雪の中で整列する兵士たちに向かって声を張り上げた。


「いいですか! この施設を利用するにあたって、絶対に守るべきルールを定めます!」


「ははっ! なんなりと!」


レオンハルトが直立不動で敬礼する。


その後ろでは、木桶を抱えたルークが、なぜかすでに泣きそうな顔で頷いていた。


「まず第一に、掛け湯の徹底!」


私は杖の先で、浴室の入口近くに作った洗い場を指した。


「浴槽に入る前に、必ず手桶で湯をすくい、体についた泥や汚れを落とすこと。特に靴底、足、手、髪、傷の周り。浴槽の中で体を洗うのは禁止です」


「はっ!」


「第二に、深い傷がある者は浴槽に入ってはいけません。傷口は、別に汲み出した湯で洗いなさい。血が出ている者、膿んでいる者、包帯が必要な者は、まず治療係に見せること」


「治療係! 治療係を呼べ!」


レオンハルトが即座に兵へ命じた。


「第三に、凍傷がひどい者は、いきなり熱い湯を浴びてはいけません。ぬるめの湯から、ゆっくり温めること。手足を強く擦るのも禁止です。皮膚を傷つけます」


「ぬるめから……強く擦らない……!」


ルークが慌てて木板に書きつける。


「第四に、一度に入れる人数は制限します。入浴時間も短く。のぼせた者は即刻外へ。使い終わった湯は必要に応じて抜き、浴槽と洗い場を洗うこと」


「承知しました!」


「第五に」


私は、ぎろりと兵士たちを見渡した。


「このルールを破った者は、理由を問わず出入り禁止です」


その瞬間、屈強な兵士たちが一斉に息を呑んだ。


吹雪の音すら、一瞬遠のいたように感じる。


「出入り……禁止……」


「なんと厳しい……!」


「神聖な湯を汚した者は、泉から追放されるということか……!」


「お嬢様の戒律だ……! 絶対に破るな!」


……いや、ただお風呂を泥だらけにされたくないだけなんだけど。


兵士たちは勝手に震え上がり、勝手に感動し、勝手に頷き合っている。


私は突っ込む気力を失い、外套の襟を引き寄せた。


「じゃあ、あとはレオンハルト様とルークで管理してください。私は寝ます」


「はっ! このレオンハルト、命に代えてもヴィクトリア様の御施設を守り抜きます!」


「俺も入浴順を記録しやす! 一滴の湯も無駄にしやせん!」


「……普通に管理してくれればいいわ」


私はそれだけ言い残し、今度こそ館へと逃げ帰った。


◆ ◆ ◆


分厚い木の扉の向こう側。


石造りのドーム建築の中へ足を踏み入れた第一陣の兵士たちは、その空気に圧倒され、しばらく言葉を失っていた。


「……すげぇ」


誰かが、ぽつりと呟く。


外では雪混じりの風が荒れている。


だが、浴室の中は別世界だった。


ドーム状の天井には白い湯気がゆるやかに広がり、細い抜け道から少しずつ外へ逃げている。


床下を通る戻り管の余熱で、黒い石の床はほんのり温かい。


裸足で立っても、氷の上にいるような痛みはない。


「本当に、外の寒さが嘘みてえだ……」


第一陣に選ばれたのは、長く前線に出ていた古参兵たちだった。


魔物の返り血を浴び、泥の中を這い、鎧の下には汗と埃がこびりついている。


手足の先は霜焼けで赤く腫れ、指の感覚が鈍くなっている者もいた。


ただし、深い傷のある者や、皮膚の色が悪すぎる者は、ヴィクトリアの言いつけ通り、浴槽には入れない。


治療係が入口の脇で状態を見て、洗い場で湯を使わせる者と、浴槽へ入れる者を分けていた。


「お嬢様の教えの通りだ。まずは掛け湯で汚れを落とす」


顔に大きな傷跡のある古参の小隊長が、震える手で木桶を掴んだ。


浴槽から汲むのではない。


洗い場用の槽に流された湯をすくう。


透明な湯が、木桶の中で揺れていた。


泥臭さはほとんどない。


彼は息を呑み、まずは足元へゆっくり湯をかけた。


ざばぁっ。


「――っ、ぐ……!」


小隊長の肩が跳ねる。


凍えきった足先に、じん、と強い痺れが走った。


痛みに近い。


だが、それは生きている痛みだった。


「……あったけぇ」


小隊長の声が、低く震えた。


「熱が……戻ってくる……」


彼は慌てて頭から湯をかぶろうとして、すぐに手を止めた。


「いかん。ぬるめから、ゆっくりだ。お嬢様の戒律を破るところだった」


「隊長、落ち着いてください!」


「お前もだ! いきなり浴槽に入るな! まず泥を落とせ!」


「はっ!」


兵士たちは、泣きそうな顔で、しかし驚くほど真剣に掛け湯を始めた。


肩に。


腕に。


背中に。


膝に。


泥が溶け、乾いた血がゆるみ、足元の排水溝へ黒い水となって流れていく。


「見ろ……! 鎧の下にこびりついてた泥が落ちていくぞ!」


「俺の腕、こんな色だったのか……!」


「馬鹿野郎、泣くな! いや、俺も泣いてるが!」


「お嬢様……お嬢様ぁ……!」


石鹸はまだない。


香油もない。


王都の浴場のような贅沢とは程遠い。


それでも、温かい湯で体の汚れを落とせるというだけで、彼らには奇跡だった。


汚れを落とし終えた者から、治療係の確認を受ける。


問題なしとされた兵士たちは、いよいよ湯気の立つ浴槽へ向かった。


「入るぞ……」


「おう……」


「押すなよ。神聖な湯だぞ」


「分かってる。分かってるが、足が勝手に……!」


古参の小隊長が、まず右足を湯へ沈めた。


「――っ」


目を見開く。


膝まで。


腰まで。


そして、肩まで。


彼が湯に身を沈めた瞬間、喉の奥から、獣の唸り声のような吐息が漏れた。


「……おおおおおお…………」


それを合図に、他の兵士たちも次々と湯へ身を沈めていく。


「「「うおおおおおおおおおお…………ッ」」」


ドームの中に、数人分の野太い声が重なった。


叫びではない。


歓声でもない。


魂の底から絞り出された、深く、重い安堵の声だった。


「あぁ……たまんねぇ……」


「骨まで温まる……」


「俺、生きてる……ちゃんと生きてるぞ……!」


歴戦の猛者たちが、子供のように顔をくしゃくしゃにして泣いていた。


極度の緊張。


いつ魔物に殺されるかわからない恐怖。


傷の痛み。


冷え。


汚れ。


眠れぬ夜。


それら全部が、温かな湯の中で少しずつ緩んでいく。


「俺……三ヶ月ぶりだ」


若い兵士が、両手で顔を覆った。


「温かい湯なんて、もう一生浴びられねえと思ってた……」


その言葉に、周囲の兵士たちの目からも涙がこぼれた。


「お嬢様は……俺たちみたいな泥まみれの兵のために、こんな場所を作ってくださったんだ……」


「『まず傷のある者を見ろ』っておっしゃったんだろ? 俺たちを、ちゃんと人間として扱ってくださってるんだ……」


「俺、あの方のためなら、もう一度前線に立てる」


「俺もだ」


「この命、ヴィクトリア様に拾われたようなもんだ……!」


温かな湯に抱かれながら、兵士たちはそれぞれの胸に、ヴィクトリアへの忠義を深く刻み込んでいった。


もちろん、ヴィクトリア本人はそんなつもりではない。


湯を泥だらけにされたくなかった。


傷口から妙な感染を広げられても困る。


凍傷の手足を雑に温めて悪化させられても面倒だ。


ただ、それだけである。


だが、辺境の兵士たちは知らない。


彼女が自分の快眠と清潔な生活のために、必要最低限の衛生ルールを並べただけだということを。


この日。


黒曜辺境伯領に、小さな公衆衛生の変化が生まれた。


ヴィクトリアが己の欲望のためだけに作り上げた給湯設備は、結果として国境守備隊の暮らしを少しずつ変えていくことになる。


傷を洗う。


体を温める。


汚れを落とす。


のぼせる前に上がる。


湯を入れ替え、浴槽を洗う。


そんな当たり前の積み重ねが、やがて感染症や凍傷で倒れる兵を減らし、辺境の士気を大きく支えていく。


後に兵士たちは、この石造りの湯屋をこう呼んだ。


辺境の命をつなぐ、奇跡の公衆湯治場、と。


その生みの親であるヴィクトリア本人は、今まさに自分の部屋のあまりの寒さに絶望し、


「……待って。私の部屋、浴室より寒いんだけど……?」


と、ガチガチ歯を鳴らしていることなど、湯の中で歓喜の涙を流す男たちは知る由もなかった。

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― 新着の感想 ―
ヴィクトリアの「働きたくない」「快適に暮らしたい」という、ブラックな環境を経験しているからこその切実すぎる動機が、周囲にはどんどん聖女の奇跡や深謀遠慮として受け取られていく、完全勘違い系な流れがとても…
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