第10話:追放令嬢は、最悪の寝室で新たなインフラ革命を誓う
「……まあ、いいわ。体が芯まで温まったのは事実だし」
私は雪が降りしきる裏庭を後にして、領主の館の薄暗い廊下を足早に歩いていた。
背後からは、屈強な男たちが歓喜の涙を流しながらお湯に浸かる「うおおおっ!」という野太い雄叫びが微かに聞こえてくる。
私専用のプライベートバスが、わずか一時間でむさい男たちの公衆浴場――しかも『公衆治癒院』などという重すぎる名前付き――に変わってしまったのは誤算だった。
しかし、前世の社畜時代から培ってきた「期待値を下げる」という自己防衛本能が、私の心を巧みに保護していた。
(お湯は自然循環で無限に湧き続けるし、ろ過システムもある。彼らの入浴が終わった深夜にでも、こっそり入り直せばいいだけのこと。それに今は、このポカポカの状態を保ったままベッドに潜り込んで、心ゆくまで爆睡するという至上のミッションが残っているわ)
私は自分の思考をポジティブな方向へねじ曲げ、鼻歌交じりに館の二階へと続く階段を上った。
お風呂の40度の熱は、まだ私の体の芯にしっかりと残っている。血の巡りが良くなったことで、足取りも驚くほど軽い。
このまま部屋に戻り、ふかふかのベッドへダイブする。
そして、泥のように眠るのだ。
「さあ、私の完璧なスローライフ、二度寝の部を……開始するわ……って、え?」
しかし。
私室の重い木製扉を開け、一歩部屋に足を踏み入れた瞬間。
私を待ち受けていたのは、天国のような休息などではなかった。
「……さっむ!! なにこれ、さっむ!!」
部屋に入った途端、思わず悲鳴が漏れた。
石造りの古い館の私室は、窓の立て付けが悪く、壁や床の至る所に隙間が空いている。
そこから容赦なく北風が吹き込み、部屋の中はもはや巨大な冷蔵庫――いや、冷凍庫と化していたのだ。
吐く息は真っ白に染まり、鼻の頭は一瞬で氷のように冷たくなる。
(な、なんなのよこの異常な寒さは……!)
お風呂でポカポカになっていたはずの私の体温は、この『極寒の室温』によって急速に奪われ始めていた。
毛穴が開いて熱を放出している状態の肌に、マイナスを下回る冷気が直接叩きつけられる。
いわゆる、最悪の『湯冷め』である。
「うぅ……寒っ……とにかくベッドに……毛布に包まれば……!」
私はガチガチと激しく歯の根を鳴らしながら、震える手で分厚い外套を引き寄せ、這うようにしてベッドへと潜り込んだ。
しかし、長い間無慈悲な冷気に晒されていたシーツと毛布は、まるで冷凍庫の底に敷かれた氷の板のように冷え切っていた。
「ひゃっ……! 冷たっ……!!」
毛布を被った瞬間、布地が奪っていた冷気が一気に肌へ伝わり、全身に強烈な鳥肌が立った。
温かいはずのベッドが、完全に冷気の貯蔵庫と化している。
自分の体温で毛布の冷気を中和しようと身を縮めるが、隙間風が顔を撫でるたびに熱が奪われ、手足の先から再びあの嫌な『感覚の麻痺』が忍び寄ってくるのがわかった。
「無理。絶対に眠れない。こんなの、拷問よ……!」
芋虫のように毛布の中で丸まりながら、私はギリッと奥歯を噛み締めた。
どれだけ完璧な給湯システムを作り、どれだけ綺麗なお湯で体を温めても、上がった後の部屋が極寒であれば、快適な睡眠など絶対に不可能だ。
せっかくの最高のお風呂が、この最悪の寝室のせいで台無しになっている。
完璧なインフラと劣悪な環境の巨大なギャップが、私の脳内で強烈なバグを引き起こした。
このままでは風邪を引くどころか、本気で凍死してしまう。
「……許せない」
暗い毛布の中で、私の声が低く震えた。
「私の安らかな二度寝を妨害するこの劣悪な室温……絶対に許さない……!!」
過労死した元・土木エンジニアのプライドと、公爵令嬢としての矜持。
そして何よりも、『絶対に働かずに快適なニート生活を送る』という血の滲むような執念が、私の魂の奥底で爆発的に発火した。
頭の片隅で、王都の魔術師たちが言う『防寒の魔法陣』や、暖炉の火を大きくするといった一時しのぎの案が浮かぶ。
だが、そんなものは却下だ。
暖炉で大量の薪や魔石を燃やせば、煙で空気が汚れ、一酸化炭素中毒の危険がある。
換気のために窓を開ければ、せっかくの熱が逃げてしまう。
「必要なのは、部屋全体を均一に、そして安全に温め続ける恒久的なシステム……」
暗闇の中で、私の脳内に一つの壮大な設計図が展開し始めた。
古代ローマ人が生み出し、現代の床暖房のルーツともなった究極の空調システム。
床下をくり抜き、地下で燃やした熱風を循環させ、石の床全体を巨大な湯たんぽに変える魔法のインフラ。
「フェーズ3へ移行するわ。……ただちに、私室の『完全空調設備』を施工する!」
私は毛布を蹴り飛ばし、氷のような床の上に仁王立ちになった。
もはや寒さなど気にならない。
私の心は、次なる建設プロジェクトへの前のめりな熱狂で煮えたぎっていた。
「明日の朝一番で、この部屋の床をすべて引っぺがしてやる。配管のルートは地下のボイラー室から直結させ、排煙パイプは壁の中に通す……。完璧よ、これで一切の空気を汚さずに、この部屋を常夏のパラダイスに変えてみせるわ!」
拳を握りしめ、窓の外で猛威を振るう吹雪を鋭く睨みつける。
この理不尽な自然環境に、完全に勝利してみせる。
そして、誰にも邪魔されない、極上の室温とふかふかのベッドを、私のこの手で創り出してやるのだ。
過労死の果てにたどり着いた最果ての地で、元社畜の公爵令嬢は次なる『インフラ革命』に向けて、静かに、しかし絶対の自信を持って動き出そうとしていた。




