第8話:奪われたお風呂と、半裸の男たち
「……ん、ふぁあ……」
たっぷり一時間。
完璧な温度のお湯で芯まで温まった私は、心地よい気だるさと共に目を覚ました。
湯上がり特有の火照りを感じながら、ゆっくりと浴槽から立ち上がる。
軟水のおかげで、指先から足の先まで肌は滑らかになり、血の巡りが良くなったことで頬は健康的な桜色に染まっていた。
「あー、極楽だったわ。これでポカポカのままベッドに潜り込めば、完璧な生活の第一歩ね」
私は持参していた清潔な衣服――予備のドレスと分厚い外套――に手早く着替え、鼻歌交じりに石造りのバスルームの扉へと向かった。
重い木の扉のカンヌキを外し、勢いよく外へ押し開ける。
途端に、ヒューオォォ! という猛吹雪の北風が容赦なく吹き込んできた。
しかし、40度の熱をたっぷりと蓄えた今の私には、吹き付ける冷たい風すらも、火照った肌を冷ます心地よい微風にしか感じられない。
「さあ、急いで館に戻って二度寝を……って、え?」
一歩外に踏み出した私は、裏庭に広がる異様な光景に完全に言葉を失った。
「お、お嬢様が出てこられたぞ!!」
「「「うおおおおおおおっ!! 聖女様、万歳ッ!! 公爵令嬢様、万歳ッ!!」」」
猛吹雪の中で、地鳴りのような歓声が上がった。
驚いて目を向けると、私が作ったドーム型のバスルームの前に、数百人規模の屈強な男たち――国境守備隊の兵士や村の農夫たち――が、腰に薄い布切れを一枚巻いただけの半裸姿で、整然と長蛇の列を作っていたのである。
極寒の雪の中だというのに、彼らの目は異常なほどの熱気に満ちており、それぞれの手には木桶や使い古した布切れが固く握りしめられている。
「な、なんなのよこの列は……?」
私が呆然と立ち尽くしていると、列の先頭にいた辺境伯様が、吹雪をものともせずにズカズカと歩み寄り、私の前で勢いよく片膝をついた。
「お嬢様! お疲れ様でございました。我々兵士のために、ご自身で毒見……いや、最初の安全確認を行っていただいたこと、黒曜騎士団を代表して深く、深く感謝いたします!」
「……安全、確認?」
「はい! 兵士たちにはすでに通達済みです。お嬢様が我々の命を救うために建造してくださった、この『公衆治癒院(大浴場)』。まずは重傷者と、凍傷になりかけている者を優先的に第一陣として並ばせました!」
辺境伯様の言葉に呼応するように、半裸の男たちが次々とその場にひれ伏し、雪に膝をついて私に向かって熱烈に手を合わせ始めた。
「お嬢様……! 俺は三ヶ月間、まともに体を洗えていませんでした。これでようやく、傷口の泥を落とせます!」
「死ぬ前に、もう一度温かいお湯に浸かれるなんて……! おらが村の女神様ぁぁっ!」
「公爵令嬢様……俺たちの冷え切った命を救ってくださり、本当にありがとうございます!」
大粒の涙を流し、霜焼けで赤く腫れた手を合わせる屈強な男たち。
(……ちょっと待って。違う。違うわよ!)
私は内心で絶叫した。
これは『私専用』のリラックスルームなのだ。
誰にも邪魔されず、静かに温まって昼寝の準備をするための、私だけのプライベートバスなのだ。
むさい男たちのための公衆浴場なんかではない!
喉の奥まで出かかったその否定の言葉を、しかし私は、すんでのところで必死に飲み込んだ。
言えるわけがない。
目の前で泣きながら感謝を捧げる数百人の男たち。
彼らの「命を救われた」という純粋すぎる信仰の眼差しを前にして、「これは私の風呂だからお前らは帰れ」などと言い放つ強心臓を、私は持ち合わせていなかったのだ。
前世の社畜時代に骨の髄まで染み込んだ悲しい習性――「職場の空気を読む」という処世術が、ここで致命的に発動してしまったのである。
上司に無茶振りをされた時。
クライアントに理不尽な要求をされた時。
職場の空気を壊さないよう、愛想笑いでやり過ごしてきたあの習慣が、私の口を勝手に動かした。
「え、ええ……そうよ。皆さんの激務を癒やすために作ったのだから……存分に使ってちょうだい……」
引き攣った笑顔でそう告げると、裏庭は吹雪を吹き飛ばすほどの割れんばかりの歓声に包まれた。
「「「ははぁーっ!! 仰せのままに!!」」」
「聞いたか野郎ども! 聖女様が作ってくださった神聖な泉だ、一滴たりとも汚すんじゃねえぞ!」
「さあ、傷ついた奴から先に入れ!」
男たちが怒涛の勢いで、私の――私専用だったはずの――夢のドーム型バスルームへと次々に吸い込まれていく。
扉の向こうから「あったけぇぇぇ!」「生きててよかったぁぁ!」という野太い歓声とむせび泣きが響き渡るのを聞きながら、私は吹雪の中で一人、呆然と立ち尽くしていた。
(ああ……私のお風呂……私の癒やし空間が……)
完璧な生活は、開始わずか一時間で脆くも崩れ去った。
自分を納得させるように、「お湯は自然循環で無限に湧き続けるんだから、また空いた時に入ればいいわ……」と心の中で言い訳をするしかない。
私は肩を落とし、失われたプライベート空間への哀愁を漂わせながら、自分の部屋で二度寝をするために、トボトボと領主の館へと歩き出したのである。




