第8話:奪われたお風呂と、半裸の男たち
「……ん、ふぁあ……」
どれくらい浸かっていただろう。
体感では一時間。
実際には、そこまで経っていないのかもしれない。
けれど、危うく本当に湯の中で寝落ちしかけて、私ははっと目を開けた。
いけない。
浴槽で寝るのは危ない。
どれほど極楽でも、そこだけは越えてはいけない一線である。
「……名残惜しいけど、出るしかないわね」
肩まで温まった体を起こし、私はゆっくりと浴槽から立ち上がった。
湯上がり特有の火照りが、じんわりと肌に残っている。
先ほどまで氷のようだった指先も、今はちゃんと動く。
頬にも血の気が戻り、鏡があれば、きっと少しは人間らしい顔色に見えただろう。
「あー、極楽だったわ。これで温かいうちにベッドへ潜り込めば、完璧な生活の第一歩ね」
私は持参していた布で体を拭き、清潔な下着と予備のドレスに着替えた。
最後に分厚い外套を羽織り、首元までしっかり留める。
せっかく温まった体を、北国の風に奪われてたまるものか。
石造りのバスルームの中は、まだ白い湯気に満ちていた。
浴槽の底では、こぽ……こぽ……と、温まった湯が静かに流れ込んでいる。
火の魔石を使った自然循環の仕組みは、ひとまず成功。
あとは寝るだけ。
そう、寝るだけだ。
私は満足げに頷き、重い木の扉のカンヌキを外した。
そして、勢いよく外へ押し開ける。
途端に、ヒューオォォッ! と雪混じりの北風が吹き込んできた。
「うっ、寒っ……!」
いくら湯で温まったとはいえ、辺境の冬を舐めてはいけない。
私は外套の前を押さえながら、急いで館へ戻ろうと一歩踏み出した。
「さあ、二度寝、二度寝……って、え?」
その瞬間。
私は、裏庭に広がる異様な光景に完全に言葉を失った。
「お嬢様が出てこられたぞ!!」
「「「うおおおおおおおっ!! ヴィクトリア様、万歳ッ!! 黒曜辺境の聖女様、万歳ッ!!」」」
地鳴りのような歓声が、吹雪を押し返す勢いで響き渡った。
驚いて目を向けると、私が作ったドーム型のバスルームの前に、国境守備隊の兵士や村の男たちがずらりと並んでいた。
防寒具を着込み、毛布を肩に巻き、手には木桶や古い布を抱えている。
列は裏庭だけでは収まらず、兵舎の方まで続いていた。
誰も扉の前には押し寄せていない。
レオンハルトとルークが、きっちり距離を取らせているらしい。
しかし、その目。
その熱量。
吹雪の中だというのに、彼らの瞳は、風呂どころか戦勝式でも始まりそうな勢いで輝いていた。
「な、なんなのよ、この列は……?」
私が呆然と立ち尽くしていると、列の先頭にいたレオンハルトが、雪を踏みしめながら歩み寄ってきた。
そして、私の前で勢いよく片膝をつく。
「ヴィクトリア様! お疲れ様でございました!」
「は?」
「我々兵士のために、ご自身の身をもって最初の安全確認を行ってくださったこと、黒曜騎士団を代表して、深く、深く感謝いたします!」
「……安全確認?」
「はい!」
レオンハルトは、凍てつく風にも負けない声で続けた。
「湯の温度、床の熱、湯気の抜け、排水の具合。いずれも問題なしと判断いたしました! 兵士たちにはすでに通達済みです!」
「通達?」
「ヴィクトリア様が我々の命を救うために建造してくださった、この公衆湯治場。まずは、凍傷になりかけている者、傷口を洗う必要がある者、長く水浴びすらできていなかった者を優先して、短時間ずつ利用させます!」
「公衆……湯治場……?」
私の声が、吹雪の中で乾いた音を立てて消えた。
いや、待って。
違う。
違うわよ。
これは私専用のリラックスルームである。
誰にも邪魔されず、静かに温まって、昼寝の準備をするための、私だけのプライベートバスなのだ。
むさい男たちのための公衆浴場ではない。
断じてない。
しかし、私が言葉を失っている間に、兵士たちが次々と雪の上に膝をつき始めた。
「ヴィクトリア様……! 俺は三ヶ月、まともに体を洗えていませんでした。これでようやく、傷口の泥を落とせます!」
「昨日まで足の指の感覚がなかったんです! 温かい湯に入れるなんて、夢みてえだ……!」
「俺たちは、王都から見捨てられたと思っていました。けれど、あなた様は違った!」
「聖女様ぁぁっ! この御恩、一生忘れません!」
大粒の涙を流し、霜焼けで赤く腫れた手を合わせる屈強な男たち。
中には、感極まって雪に額を擦りつけている者までいる。
いや、やめなさい。
そこまでしなくていい。
むしろ立って。
凍えるから。
「お嬢様!」
今度はルークが、木桶を抱えたまま涙声で叫んだ。
「俺、俺……! お嬢様がご自分のためだって言いながら、本当はみんなのために作ってくださったんだって、ちゃんと分かってやすから!」
「分かってないわ」
「ご謙遜を!」
「本当に分かってないわ」
だが、ルークはまったく聞いていなかった。
その後ろでは、兵士たちが拳を振り上げている。
「聖女様、万歳!」
「黒曜辺境の恩人に、忠義を!」
「この湯を一滴たりとも無駄にするな!」
「汚した奴は俺が洗う!」
「いや、洗う前にまず入浴順を守れ!」
なぜか規律まで生まれ始めている。
恐ろしい。
辺境の男たち、風呂への執念が強すぎる。
喉の奥まで出かかった否定の言葉を、私はすんでのところで飲み込んだ。
言えるわけがない。
目の前で泣きながら感謝している男たちに向かって、
「これは私の風呂だから帰れ」
などと言い放つほどの強心臓を、私は持ち合わせていなかった。
前世の社畜時代に骨の髄まで染み込んだ、悲しい習性。
職場の空気を読む。
上司に無茶振りをされた時。
クライアントに理不尽な要求をされた時。
場の空気を壊さないよう、愛想笑いでやり過ごしてきたあの習慣が、ここで勝手に発動してしまった。
「え、ええ……そうよ。皆さんの疲れを癒やすために作ったのだから……存分に使ってちょうだい……」
言った。
言ってしまった。
引きつった笑顔でそう告げた瞬間、裏庭は割れんばかりの歓声に包まれた。
「「「ははぁーっ!! 仰せのままに!!」」」
「聞いたか野郎ども! ヴィクトリア様の湯だ! 順番を守れ!」
「凍傷の奴と傷のある奴が先だ!」
「湯は汚しすぎるな! まず外で泥を落とせ!」
「使い終わったら湯を抜いて、浴槽を洗え! お嬢様の設備を汚すんじゃねえ!」
待ちなさい。
なぜ運用ルールまで勝手に整っているの。
いや、でも正しい。
そこは正しい。
衛生管理としては、むしろ褒めたい。
悔しいけれど、褒めたい。
男たちは怒涛の勢いで、しかし意外なほど秩序正しく、私の――私専用だったはずの――夢のドーム型バスルームへと向かっていった。
もちろん、一度に全員が入れるわけではない。
レオンハルトが厳しく人数を区切り、ルークが木板に順番を書きつけている。
扉の向こうから、
「あったけぇぇぇ!」
「生きててよかったぁぁ!」
「俺、足の指が動く! 動くぞぉぉ!」
という野太い歓声とむせび泣きが響いてくる。
私は吹雪の中で一人、呆然と立ち尽くした。
ああ。
私のお風呂。
私の癒やし空間。
完璧な生活は、開始早々、見知らぬ男たちの歓喜の涙に飲み込まれてしまった。
「……まあ、いいわ」
私は自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「火の魔石を足して、水を入れ替えて、掃除さえすれば……また入れるもの。たぶん。きっと。私の番も、また回ってくるわ……」
涙は出なかった。
湯上がりの頬が冷えていくのだけが、やけにはっきり分かった。
私は肩を落とし、失われたプライベート空間への哀愁を外套の中に押し込みながら、自分の部屋で二度寝をするため、トボトボと領主の館へ歩き出した。
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