第7話:扉の外の狂信者たち
木枯らしは、いつの間にか雪を連れてきていた。
黒曜辺境伯領の裏庭には、細かな雪が横殴りに吹きつけている。
北風が石壁を叩き、納屋の屋根を軋ませ、吐く息はすぐに白く凍った。
だが、その寒さの中に建つ石造りの小さなドームだけは、周囲とまるで様子が違っていた。
「……信じられん」
分厚い木の扉を背にして立っていた辺境伯レオンハルトは、革手袋に包まれた手を、扉の脇の石壁にそっと当てた。
「この吹雪の中で、石が冷えきっていない。内側から、じわりと熱が伝わっているのか……」
隣で見張りに立っていたルークも、鼻の頭を真っ赤にしながら首を傾げた。
「本当ですね、辺境伯様。石の建物なのに、なんだか周りだけ寒さがやわらかい気がしやす。それに、上の穴から出てるの……煙じゃねえですね」
ルークの言葉に、レオンハルトは鋭い視線を上へ向けた。
ドームの頂近くに開けられた細い抜け道から、白いものがふわふわと立ち上っている。
黒い煤を含んだ煙ではない。
湯気だ。
中で温められた空気と湿気が、少しずつ外へ逃げているのだろう。
「薪を燃やしている匂いがしない」
レオンハルトは低く呟いた。
「なのに、この熱量か」
「火の魔石ですよね? お嬢様が、クズ石で十分だって言ってやした」
「ああ。だが問題は、そこではない」
レオンハルトは、扉を守る姿勢を崩さないまま、ルークへ問いかけた。
「ルーク。お前は先ほど、ヴィクトリア様から自然循環式とやらの説明を聞いていたな」
「へ、へい。温かい水は上へ行って、冷たい水は下へ戻るってやつでさぁ」
「では聞く。あの仕組みは、たった一人の令嬢が一度の湯浴みを楽しむためだけに作るものだったか?」
静かな問いだった。
しかし、その声には国境の兵を率いる者の重みがあった。
ルークははっと目を見開く。
先ほど見た光景が、頭の中に次々と蘇った。
地面の下へ通された石管。
浴槽の横に作られた加熱室。
飲み水用とは分けられた入浴用の水路。
汚れた水を逃がす排水口。
湯気を外へ逃がす抜け道。
床下に少し回された戻り管。
ただの風呂にしては、あまりに整いすぎている。
「……違いやす」
ルークの声が震えた。
「あれは、ただ湯を張るだけの桶じゃねえ。水を引いて、温めて、巡らせて、汚れた水を逃がすところまで考えられた……ちゃんとした施設でさぁ」
「そうだ」
レオンハルトは、雪の向こうにある兵舎の方角を見た。
「魔法で一時的に湯を出したのではない。あの方は、魔力を使えない者でも扱える形にしてくださった。火の魔石を補充し、水路を保てば、同じ仕組みを何度でも使える」
「まさか……」
ルークの喉が、ごくりと鳴った。
「お嬢様は最初から、ご自分のためじゃなく……?」
「おそらくな」
レオンハルトの声に、熱がこもり始める。
「考えてもみろ。王都で贅沢の限りを尽くしてきた公爵令嬢が、本当に自分の湯浴みだけを望むなら、薪を燃やせと命じれば済む話だ。だがヴィクトリア様はそうしなかった。村の薪が命綱だと知るや、真っ先に別の熱源を探された」
「火の魔石のクズ石……!」
「そうだ。誰も見向きもしなかったものを使い、兵にも村人にも応用できる仕組みに変えた。あの方は『自分のため』とおっしゃるが、その裏には、我々の暮らしと命を守る意図が隠されている」
「お、おお……!」
ルークの目に、みるみる涙が溜まっていく。
だが、レオンハルトは止まらなかった。
吹きつける雪の中で、彼は拳を握りしめる。
「我々国境の兵は、魔物と戦えば泥と血にまみれる。傷口を洗う水も足りず、冬場は体を拭くことすら命がけだ。凍えた手足を温める場所もなく、汚れた包帯を巻いたまま、ただ耐えるしかなかった」
その声に、少し離れた場所で待機していた兵士たちが顔を上げた。
「傷が腐って死んだ者がいる。凍傷で指を失った者がいる。戦場では生き残ったのに、帰ってから寒さと汚れに殺された者もいる」
吹雪の中に、重い沈黙が落ちた。
レオンハルトは、目の前の石造りのドームを見つめる。
「だが、この施設は違う。川の水から泥と臭いを落とし、火の魔石で湯に変え、清潔な場所で体を温められる。完璧な治療院ではない。だが、傷を洗い、凍えた体を戻すだけでも、救える命は確実に増える」
「公衆湯治場……!」
ルークが震える声で呟いた。
「お嬢様は、兵士たちと村の者を助けるために、その原型を一瞬で作ってくださったんだ……!」
「そうだ」
レオンハルトの目が、燃えるように輝いた。
「あの方は、ご自身の功績を誇らない。『これは私の風呂だ、覗くな』と突き放すことで、我々に恩を着せまいとしておられるのだろう。……なんという方だ」
「なんという……!」
ルークはその場に膝をついた。
「なんという、お優しい御方なんでさぁ……!」
「ヴィクトリア様は、王都で我々のような辺境の者たちを見下していた連中とは違う」
レオンハルトは、ついに声を張り上げた。
「泥水を清め、凍える体に湯を与え、捨てられていた魔石に価値を見出された! これは奇跡ではない。知恵だ。慈悲だ。そして、辺境を生かすための力だ!」
その叫びは、吹雪の音を押し返すように裏庭へ響いた。
集まっていた兵士たちと村の男たちが、ざわりと揺れる。
「そうだったのか……。お嬢様は、俺たちのために……!」
「王都の貴族どもは、俺たちを使い捨ての盾としか見てなかった。だが、あの御方は違う!」
「クズ石で湯を作るなんて、誰が考える!? あの人は、俺たちの命まで拾い上げてくださったんだ!」
最初は数人だった。
それが、声を聞きつけた兵士たちを呼び、村の男たちを呼び、気づけば石造りのドームの周囲には、防寒具を着込んだ男たちがずらりと集まっていた。
誰も扉には近づかない。
レオンハルトとルークが、命を懸けて守っているからだ。
それでも彼らは、雪の上に片膝をつき、分厚い扉へ向かって深く頭を垂れた。
「俺は……俺は一生、お嬢様の味方だ!」
「おらが村の聖女様、万歳!」
「ヴィクトリア様、万歳ッ!」
「黒曜辺境の恩人に、忠義を!」
猛烈な吹雪の中、屈強な男たちの声が次々と重なっていく。
それは祈りのようであり、誓いのようでもあった。
彼らはもはや、ヴィクトリアをただの追放された公爵令嬢として見ていなかった。
泥水を清め、湯を生み、凍えた辺境に温もりをもたらした救い主として見始めていたのだ。
もちろん、当のヴィクトリアは何も知らない。
扉の向こうの温かい湯の中で、
「あぁ……出たくない……。誰か、私をこのまま布団まで運んで……」
などと、完全にだらけきった声を漏らしているだけである。
外で凍える男たちの間で、辺境全土を巻き込む壮大な勘違いの炎が、いま盛大に燃え上がったのだった。
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