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第6話:追放令嬢、至福の湯に沈む

掛け湯で体の汚れと表面の冷気を落とした私は、石造りの浴槽の縁に手をかけ、ゆっくりと右足を踏み入れた。


「……っ、あ……」


足先から膝、太もも、そして腰へ。


ガラスのように透き通った熱湯の層を突き破って、私の体がゆっくりと沈み込んでいく。


最後に、肩のラインまで深くお湯に身を委ねた瞬間。


「……ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………ッ」


私の口から、魂の底から絞り出されたような、深く、長く、甘い吐息が漏れた。


40度に設定された、完璧な温度。


冷え切っていた体の芯に向かって、圧倒的な熱が優しく、しかし確実に浸透してくる。


こわばっていた筋肉の繊維が一本一本ドロドロに溶け出し、重力から解放されたように体がふわりと軽くなった。


「最高……。これよ、これ……」


私は浴槽の滑らかな石の縁に後頭部を預け、ゆっくりと天井を見上げた。


ドーム状の石天井には、乳白色の湯気が濃密に立ち込めている。


透明なお湯の中では、私の体がゆらゆらと揺らめいていた。


王城の侍女たちが毎日丹念に手入れをしていたプラチナブロンドの長い髪は、濡れないように頭の高い位置で無造作に束ねている。


しかし、こぼれ落ちた数筋の後れ毛が、汗と湯気を吸って白く細いうなじに張り付いていた。


(……生き返るわ)


ふと自分の体を見下ろすと、連日の馬車移動と極寒の環境で青白く血の気を失っていた肌が、お湯の熱に当てられて、じんわりと桜色へと染まり始めていた。


くっきりと浮き出た鎖骨のくぼみに、透明な水滴が溜まっては、胸元へと滑り落ちていく。


公爵令嬢として常にコルセットで締め付けられ、他者の前で完璧な姿勢を強要されていた私の肉体は、今このお湯の中だけで、すべての緊張と武装を解除し、ただの一人の人間へと還っていた。


チャプ……、とお湯を手ですくって腕にかける。


軟水特有の、とろりとした滑らかな手触りが肌に吸い付く。


硫黄の匂いも、カビの臭いもない。


ただ、温かい水の匂いと、自分の肌から立ち上る微かな石鹸の残り香だけが鼻腔をくすぐった。


(……思えば、前世の最後の日も、ものすごく寒い夜だったわね)


目を閉じると、不意に前世の記憶が蘇ってきた。


終わらない工期。


削られる予算。


そして、連日の徹夜。


雪が降る建設現場のプレハブ小屋で、暖房も効かない冷たいパイプ椅子の上で丸まりながら、ぬるくなった缶コーヒーを握りしめていたあの夜。


『あぁ、温かいお風呂に入って、ふかふかの布団で泥のように眠りたい』


それが、過労で心臓が止まる直前に抱いた、私の最後の願いだった。


転生して公爵令嬢になっても、現実は変わらなかった。


無能な王太子の尻拭いとして、毎日膨大な国家予算の計算とインフラ整備の書類に追われ、精神をすり減らす日々。


私は前世でも今世でも、ただ国や権力というシステムを回すための「便利な道具」にすぎなかった。


――でも、今は違う。


「……あぁ、幸せ」


私はお湯の中で両足を伸ばし、指先をパァッと開いた。


指の先まで、熱い血液がドクン、ドクンと巡っているのがわかる。


私が計算し、私が魔法で構築した、この完璧な給湯システム。


これは誰のためでもない、私自身を癒やすためだけに作られた場所だ。


体温が上昇するにつれて、激しい眠気が甘い痺れのように脳の奥を麻痺させていく。


地下のボイラー室から響く「コポコポ……」というお湯の湧き上がる音が、まるで胎内にいるような規則正しい子守唄となって耳に届く。


「……私の静かな生活は……ここから始まるのよ……」


まぶたが、鉛のように重い。


王都で被っていた冷徹な仮面も、張り詰めていた神経も、すべてこの40度のお湯の中に溶けて消えていく。


私は浴槽の縁に頬をすり寄せ、微かに口角を上げたまま、深く、静かな微睡まどろみの世界へと落ちていった。


猛吹雪の最果ての地で、たった一人。


私はついに、誰にも邪魔されない安らぎを手に入れたのだった。

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