第5話:泥だらけの令嬢と、極上の軟水
「いいですか。私が『よし』と言うまで、絶対にこの扉を開けないでください。もし覗いたら、即刻このお風呂は土魔法で埋め立てますからね」
「はっ! このレオンハルト、黒曜騎士団の誇りにかけて、ヴィクトリア様の入浴中はアリ一匹たりとも通しません!」
「俺も扉の前で背中を向けて立ってやす! ごゆっくりどうぞ、お嬢様!」
辺境伯様とルークを外へ追い出し、私は石造りのバスルームに入った。
最後に納屋から外させた分厚い木の扉を閉め、内側から重いカンヌキを下ろす。
「……ふぅ」
ようやく、一人きりになれた。
外では木枯らしが壁を叩き、隙間を探すように低く唸っている。
けれど、魔法で厚く固めた石壁が、その冷気をしっかり受け止めていた。
ドーム状の天井には白い湯気が立ち込めている。
さらに、冷めた湯を加熱室へ戻すための石管を床下に少し回しておいたおかげで、敷き詰めた黒い石の床もほんのり温かい。
靴越しでも分かる、その優しい熱。
これだけで、私はもう泣きそうだった。
私は小さく息を吐き、自分の体を見下ろす。
王都を出発してから二週間。
まともな湯浴みもできず、馬車に揺られ続けた旅用のドレス。
そこへ先ほどの土木工事が加わり、裾は泥水と砂をたっぷり吸い込んで、見る影もなく固まっていた。
本来の重さの三倍はある気がする。
かじかんだ指先で、背中のホックを一つずつ外していく。
泥と汗が乾いて張り付いた布地を肌から剥がすたび、前世の記憶が嫌でもよみがえった。
何日も風呂に入れないまま、現場のプレハブ小屋で仮眠を取っていた、あの泥と埃の匂い。
あれだけは、二度と味わいたくない。
重いドレスが、どさりと石の床に落ちる。
下着もすべて脱ぎ捨てた。
裸になった瞬間、湯気で温まりつつあった空気の中に、まだわずかに残る北国の冷たさが素肌を刺した。
「――っ、さむ……!」
全身に鳥肌が立つ。
足先から体温が逃げていくようで、肩がびくりと震えた。
一刻も早く、一秒でも早く、温かいものに包まれたい。
その一心で、私は浴槽へ歩み寄り、傍らに置いてあった小さな木桶を手に取った。
こぽ……こぽぽ……。
浴槽の底に開いた石管の口から、温まった湯が静かに流れ込んでいる。
火の魔石で熱せられた水が上へ向かい、浴槽の底の冷めた水が下へ戻る。
さっき組んだ自然循環の仕組みは、どうやら無事に働いているらしい。
私は、たっぷりと満たされた湯を木桶ですくい上げた。
「…………」
その中を見て、思わず息を呑む。
透明だった。
王都の高価な浴場のように香油が浮いているわけでも、温泉のように色づいているわけでもない。
けれど、あの川の泥水だったとは思えないほど澄んでいる。
鼻を近づけてみる。
土臭さは、ほとんどない。
川底の腐ったような匂いもない。
前世の癖でつい塩素の匂いまで探してしまったが、もちろんそんなものもなかった。
川沿いに作った沈殿池で泥を落とし、砂と木炭の層で臭いを抜く。
まだ作ったばかりの簡易設備だ。
完璧な浄水とは言えない。
それでも、この辺境で手に入る水としては、奇跡みたいにきれいだった。
湯温は、手で確かめる限り四十度前後。
熱すぎず、ぬるすぎない。
冷え切った体を戻すには、ちょうどいい。
「まずは、掛け湯から……」
私は震える両手で木桶を持ち上げ、泥と埃にまみれた右足のつま先へ、ゆっくりと湯を傾けた。
ざばぁっ。
「――あぁぁっ……!」
湯が肌に触れた瞬間。
凍りついて感覚を失いかけていた足の指先に、じん、と強い痺れが走った。
痛い。
けれど、嫌な痛みではない。
縮こまっていた体の奥へ、熱が一気に染み込んでいく。
「あ、あぁ……」
続けて左足、膝、太ももへ。
木桶ですくった湯を、何度も何度も肌にかける。
泥が溶け、砂が流れ落ち、冷え固まっていた筋肉が少しずつ緩んでいく。
体の奥にこびりついていた寒さまで、湯と一緒に洗い流されていくようだった。
柔らかい。
湯が、肌にしっとりと馴染む。
ただの掛け湯。
ただ湯を体にかけているだけ。
それなのに、自分がようやく人間に戻っていくような感覚が、胸の奥から込み上げてくる。
「……さあ」
全身の泥をざっと洗い流し、湯の温度に体を慣らした私は、濡れた髪をかき上げた。
目の前には、白い湯気を立てて私を待つ、石造りの浴槽。
たっぷりの湯が、静かに揺れている。
「いよいよ、メインディッシュね……」
私は思わず笑みをこぼしながら、その至福の泉へ向かって、ゆっくりと右足を踏み出した。
最後まで読んで頂いてありがとうございます!
ブクマ・評価・リアクションを押して頂けると嬉しいです!(◍•ᴗ•◍)




