第60話:王都からの手紙
「――お嬢様ぁぁぁっ!! 大変ですぜぇぇぇっ!!」
完璧な静寂に包まれた常夏の私室。
ふかふかの羽毛布団の中で、私は温かい紅茶と焼き立ての白パン、そしてハチミツをかけたイチゴを堪能し終え、まさに二度寝の体勢へ入ろうとしていた。
その瞬間。
廊下の向こうから、聞き慣れた、しかし今もっとも聞きたくない男の声が響いてきた。
「……ルーク」
私は枕に顔を埋めたまま、低く唸った。
「マニュアルの第一条を忘れたのかしら。記載済みの事項について、私への報告、相談、確認は禁止。緊急時を除き、私の睡眠を妨げてはならない。そう書いたはずよね」
「そ、それが緊急時なんですってば!」
バンッ、と扉が開いた。
泥だらけの作業着に身を包んだルークが、顔を真っ青にして飛び込んでくる。
その手には、王都の紋章が入った封蝋付きの書状が握られていた。
「王都から、またとんでもねえ紙が届きやした!」
「紙くらいで騒がないでちょうだい」
「噛みつくより厄介なんですよ! なんか、税を増やすだの、技術を差し出せだの、偉そうなことがびっしり書いてあるんです!」
「……税?」
私は、ようやく枕から顔を上げた。
その言葉だけは、少しだけ聞き捨てならなかった。
税が上がる。
つまり、金が減る。
金が減れば、温室の維持や、私の食卓や、私の安眠環境に何らかの悪影響が出る可能性がある。
それは、たしかに緊急時に分類してもよい。
「マーサは?」
「もう読み始めてます。顔が怖すぎて、俺じゃ近づけません」
「そう……」
私は渋々ベッドから這い出し、ガウンを羽織った。
「仕方ないわね。見てあげるわ。三分だけ」
◆ ◆ ◆
領主の館、一階の執務室。
重厚な机の上には、王都から届いた正式な命令書が広げられていた。
その前に立つマーサは、分厚い書類綴りを抱えたまま、銀縁眼鏡の奥の目をひどく冷たく光らせていた。
普段の彼女は、数字に対して異常なほど厳格だが、感情そのものは抑えている。
だが今は違った。
怒っている。
静かに。
深く。
そして、とても恐ろしく。
「お嬢様。王都より、王太子殿下名義の通達が届いております」
マーサは、乾いた声で言った。
「内容は大きく二つです」
彼女は羊皮紙の一枚目を指で押さえた。
「第一に、黒曜辺境伯領の冬季収益に対し、王都復興および王宮運営支援の名目で、新たな特別税を課すこと」
続いて、二枚目。
「第二に、黒曜辺境伯領で確認された特殊な施設、設備、運用手順について、王都への供出を命じること」
「供出?」
私は眉をひそめた。
「つまり、よこせってこと?」
「極めて乱暴に言えば、そうです」
マーサの声が、さらに冷たくなる。
「しかも、提出期限は十日後。遅延した場合、王家への不忠として処罰を検討するとあります」
「十日?」
横で聞いていたルークが、素っ頓狂な声を上げた。
「王都からここまで書状を運ぶだけでも、天候次第じゃ何日もかかるってのに!? それで十日以内に返事しろって、正気ですかい!?」
「正気なら、そもそもこんな書状は出しません」
マーサは淡々と言った。
ちょうどその時、扉が開き、レオンハルトが入ってきた。
相変わらず上半身裸だった。
この男は、王都から無礼な命令書が届いた時でさえ服を着ないらしい。
「ヴィクトリア。王都がまた馬鹿な真似をしたと聞いた」
「ええ。どうやら、私たちの野菜と設備とお金が欲しくて仕方ないみたいね」
「ふむ」
レオンハルトは机上の命令書を一瞥し、太い腕を組んだ。
「ならば、燃やすか」
「物理的に解決しようとしないでください、辺境伯様」
マーサが即座に止めた。
「こういう書類は、燃やす前に不備を記録してから燃やすものです」
「燃やす前提なのね」
私は、少しだけ呆れた。
マーサは、王都からの命令書を一枚ずつめくり始めた。
「まず、税の名目が曖昧です。王都復興支援、王宮運営支援、北方治安安定費と、三つの名目が一つの命令書内で混在しています。どれに対する負担なのか不明です」
「ふうん」
「次に、算定方法が不明です。『冬季収益の相当額』とありますが、何をもって収益とするのか記載がありません。現金収入なのか、備蓄増加分なのか、商会取引の総額なのか、純益なのかすら不明」
「雑ね」
「さらに、税率も不明です。『王都の状況に応じて適宜徴収』とあります。これは、王都の気分次第でいくらでも取り立てるという意味に読めます」
「賊の脅迫状の方が、まだ金額がはっきりしていて親切ね」
「お嬢様の仰る通りです」
マーサは無表情で頷いた。
「そして技術供出命令ですが、こちらも同様に不備だらけです。対象、責任者、補償、事故時の責任、北方防衛への影響、すべて記載がありません」
ルークが首を傾げた。
「対象が書いてねえって、どういうことです?」
「王都側が、ここで何が使われているのか、何を欲しがっているのか、正確に分かっていないということです」
マーサは冷たく言った。
「ただ噂を聞き、何か便利なものがあるらしい、何か儲かる仕組みがあるらしい、ならば全部差し出せ、と言っているだけです」
「うわぁ……」
ルークが心底嫌そうな顔をした。
「現場を見ずに、道具の名前も知らずに、全部よこせって言ってるんですかい」
「ええ」
マーサは、書類綴りを閉じた。
「つまり、王都は何も理解していません。理解していないものを接収しようとしている。これは、極めて危険です」
ルークは真剣な顔になった。
「お嬢様。俺から見ても、この命令は無茶です。あいつらが温室の真似をしようとしても、地中の熱の通し方も、水の落とし方も、土の湿り具合も分からねえ。下手すりゃ作物を腐らせるか、配管を詰まらせるか、炉の煙を逆流させて死人が出ます」
「でしょうね」
私は小さくあくびをした。
「ロックフィル防壁だって、見た目だけ土手を作ればいいわけじゃないです。粘土の芯を外したら水が染みるし、砂利を間違えれば中の土が流れるし、斜面の角度を間違えれば崩れます。王都の連中が見よう見まねでやったら、たぶん最初の大雨で壊れますぜ」
「でしょうね」
「下水だって同じです。水の封を知らずに穴だけ繋げたら、臭いも虫も全部戻ってきます」
「でしょうね」
私は、三度同じ返事をした。
だって、どうでもよかった。
王都が勝手に失敗するのは、王都の問題である。
私の部屋が臭くならず、寒くならず、食卓のサラダが減らなければ、それでいい。
レオンハルトが、低い声で言った。
「王都は、北方防衛への影響を理解していないのか」
マーサは頷く。
「理解していません。黒曜辺境伯領が冬の魔物を食い止めていることは、王都でも知っているはずです。しかし、この命令書には、防衛力低下時の補償も、兵力派遣も、備蓄支援も、一切ありません」
「つまり、税を上げ、技術を持っていき、こちらの体力を削った上で、北方の盾として働けと言っているわけか」
レオンハルトの声が、さらに低くなった。
部屋の空気が重くなる。
だが、私はそこで、ぱん、と手を叩いた。
「結論」
三人が、私を見る。
私は、王都からの命令書を指差し、眠そうに言った。
「こんなの、聞く必要ないわ」
「……え?」
ルークが瞬きをした。
マーサも、わずかに目を見開く。
レオンハルトだけが、ふっと口元を緩めた。
私は椅子に座り直し、肘をついて頬を支えた。
「だって、内容が雑すぎるもの。何を、いくら、どの根拠で、どう補償して、誰が責任を取るのか。何一つまともに書かれていない。そんなものに従ったら、こっちが馬鹿みたいじゃない」
「お嬢様……!」
マーサの目が、じわりと潤んだ。
「しかも、私は追放された身よ。王都は私に『帰ってくるな』と言ったし、私の帳簿も仕事もいらないと言った。なのに、今になって『便利そうだから寄越せ』なんて、虫がよすぎるでしょう」
私はあくびを噛み殺しながら続けた。
「それに、王都が欲しがっているものは、私一人の頭の中にある魔法の呪文じゃないわ。ルークたちが現場で積み上げた手順、マーサが整えた帳簿、レオンハルトたちが守っている防衛線、トマスたちが世話をしている温室。それら全部が噛み合って動いている仕組みよ」
私は命令書を指で弾いた。
「紙一枚で奪えるようなものじゃないわ」
三人は、言葉を失っていた。
私は、マーサへ視線を向ける。
「マーサ」
「はい」
「いつものように処理して」
マーサの瞳が、鋭く光った。
「承知いたしました。王都の命令書に対する正式な返答を作成します」
「長くしなくていいわよ。私を巻き込まないでね」
「短く、しかし逃げ道を一切残さず、完璧に突き返します」
「怖いわね」
マーサは、書類綴りを開き、ものすごい速度で羊皮紙に文字を書き始めた。
「まず、当該命令書について、税目、算定根拠、徴収範囲、補償条項、管理責任、北方防衛義務への影響が不明確であるため、現時点では受理不能」
「いいわね」
「次に、特殊設備等の供出について、具体的対象および王都側の受入責任者が未記載であるため、移管協議の前提を欠く」
「続けて」
「さらに、黒曜辺境伯領は北方防衛義務を負うため、領内設備、備蓄、収益、人的資源は防衛維持のための基盤であり、補償なき接収は王国北方の安定を損なう恐れがある」
「完璧」
「最後に、正式な再照会が必要な場合は、王印、担当責任者名、補償内容、実施範囲、期限を明記した上で、改めて文書を提出されたし」
マーサは筆を止めた。
「以上です」
「よろしいわ」
私は立ち上がった。
「じゃあ、私は寝るわね」
「えっ、もうですかい!?」
ルークが慌てる。
「王都からの命令ですぜ!? もっとこう、怒ったり、作戦会議したりしなくていいんですか?」
「怒る価値もないわ」
私は心底面倒くさそうに言った。
「こんな雑な紙切れのために、私の時間を削る方が損失よ」
ルークは、ぽかんと口を開けた。
「お嬢様……すげえ……。王太子の命令を、紙切れ扱い……」
「紙切れでしょう。中身が空っぽなんだから」
レオンハルトが、低く笑った。
「ヴィクトリアの言う通りだ。王都の命令であろうと、筋の通らぬものに従う義理はない」
「辺境伯様」
マーサが顔を上げる。
「返書には、レオンハルト様の署名も必要です」
「ああ。いくらでも書こう」
「では、こちらへ」
「うむ」
レオンハルトは、差し出された羊皮紙に豪快な字で署名した。
マーサはそれを確認し、冷静に封を施す。
「ルーク殿」
「へい」
「王都への返書を、正式記録付きで発送してください。受け渡し時には、相手の受領者名、時刻、立会人を記録。写しは三部作成。一部は財務室、一部は領主執務室、一部はお嬢様の安眠妨害防止記録へ」
「最後の記録、必要ですかい?」
「最重要です」
「承知しやした」
ルークは、王都への返書を受け取ると、胸を張って部屋を出ていった。
私は、それを見届けることもなく、すでに半分眠りかけていた。
「……まったく。税を上げたいなら、せめて読める書類を作ってから来なさいよ」
そう呟き、私は自室へ戻った。
◆ ◆ ◆
数日後。
王都の王宮。
アーサーは、黒曜辺境伯領から届いた返書を前に、顔を真っ赤にして震えていた。
会議室には、財務官、軍務官、書記官、そしてアリシアが揃っている。
老宰相だけが、深く沈んだ目で黙っていた。
「……受理不能、だと?」
アーサーの声が震える。
「王太子である私の命令を、受理不能だと?」
書記官が、青ざめた顔で答えた。
「そ、そのように記されております。税目、算定根拠、徴収範囲、補償条項、管理責任が不明確であるため、現時点では従えない、と……」
「従えない?」
アーサーは、羊皮紙を握り潰しかけた。
「辺境伯ごときが、私に条件を突きつけるというのか!」
アリシアが、涙ぐんだ声で言った。
「ひどいですわ……。アーサー様は王国全体のためを思って命じられたのに、ヴィクトリア様はまた、理屈を並べて逆らって……」
「そうだ」
アーサーは歯を食いしばった。
「あの女はいつもそうだった。細かい理屈を並べて、私の言葉に水を差す」
老宰相が、静かに口を開いた。
「殿下。返書の内容は、理屈としては極めて正当です」
「黙れ!」
アーサーが怒鳴る。
「王太子の命令に、正当も不当もあるか!」
「ございます」
老宰相は、静かに答えた。
「特に、黒曜辺境伯領は北方防衛の要です。そこから一方的に富や設備を取り上げるのであれば、相応の根拠と補償を示す必要があります」
「補償、補償と……!」
アーサーは、机を拳で叩いた。
「なぜ私が、あの女に気を遣わねばならんのだ!」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
誰も答えなかった。
答えられる者はいなかった。
本当は、誰もが薄々分かっていた。
黒曜辺境伯領は、すでに王都が命令一つで動かせる相手ではない。
だが、それを認めることは、王都の失策を認めることでもあった。
アーサー自身が、ヴィクトリアを追放した過ちを認めることでもあった。
だから彼は、認めなかった。
「ぐ……ぬぬ……!」
アーサーは、悔しさに喉を詰まらせた。
返書には、罵倒も挑発もない。
ただ、淡々と不備が並べられている。
だからこそ、余計に腹立たしかった。
怒鳴り返すには、相手の方が筋が通りすぎている。
力で押し潰すには、辺境はすでに強くなりすぎている。
それでも、アーサーは何も言えなかった。
言い返せない。
命令を押し通せない。
認めることもできない。
ただ、王太子としての面子だけが、静まり返った会議室の中で、音もなく崩れていく。
アリシアは不安げにアーサーの袖を掴んだ。
「アーサー様……?」
「……下がれ」
アーサーは、押し殺した声で言った。
「全員、下がれ」
財務官も、軍務官も、書記官も、老宰相も、静かに頭を下げて退出していく。
誰も余計な言葉を発しなかった。
残されたアーサーは、くしゃりと歪んだ返書を睨みつけたまま、ただ肩を震わせていた。
「ヴィクトリア……」
その名を呼ぶ声には、反省も悔悟もない。
ただ、認めたくない現実への苛立ちだけが滲んでいた。
王都の命令は、黒曜辺境伯領に届いた。
そして、何一つ奪うことなく、ただ形式の不備を突きつけられて戻ってきた。
王太子アーサーは、その場で初めて理解した。
黒曜辺境伯領は、もはや王都の雑な命令で膝をつくような、貧しい辺境ではないのだと。
だが、それでも彼は、まだ認められない。
「ぐ……ぬぬぬぬ……!」
王宮の会議室に、王太子の悔しげな呻きだけが、虚しく響いた。
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