第59話:アーサー、王都へ戻り強硬策を考える
王都へ戻る道中、アーサーの機嫌は最悪だった。
馬車は、凍りついた轍に車輪を取られ、何度も大きく跳ねた。
窓の隙間からは冷たい風が入り込み、足元の毛布を何枚重ねても、黒曜辺境伯領の客室で感じたあの柔らかな温もりには遠く及ばない。
「……揺れるな」
アーサーは、低く吐き捨てた。
御者が外から怯えた声で答える。
「も、申し訳ございません、殿下! 王都側の街道が凍りついておりまして……!」
「言い訳をするな」
アーサーは、苛立ちを隠そうともしなかった。
辺境へ向かう時も、この道はひどかった。
だが、あの時はまだ、黒曜辺境伯領も同じか、それ以下だと思っていた。
雪に埋もれた田舎道。
寒い宿舎。
臭い厠。
硬い保存食。
それこそが、辺境にふさわしいと思っていた。
しかし現実は違った。
黒曜辺境伯領の防壁内に入った瞬間、道は整えられ、雪は除かれ、宿舎は温かく、厠は臭わず、食事は王宮の晩餐よりも美味かった。
その記憶が、馬車が揺れるたびに、アーサーの自尊心を削っていく。
隣では、アリシアが毛布にくるまりながら、震える指で硬い保存パンを持っていた。
彼女は何度かパンを齧ろうとしたが、そのたびに小さく顔をしかめていた。
「……アリシア」
「は、はい。アーサー様」
「食べないのか」
「い、いえ……いただきますわ」
アリシアは慌てて保存パンを口へ運んだ。
カリッ、ではない。
ゴリッ、という音がした。
彼女の笑顔が固まる。
黒曜辺境伯領で出された白パンは、手で割れば湯気が立ち、噛めば小麦の甘みが広がった。
だが、今口の中にあるのは、乾ききった小麦の塊である。
「……少し、硬いですわね」
「保存食とはそういうものだ」
アーサーは不機嫌に言った。
だが彼自身も、干し肉を噛みながら、あの温かな肉料理を思い出していた。
柔らかく煮込まれ、香草の香りが立ち上り、パンで肉汁を拭えば、それだけで満足できる料理。
王太子である自分が、それを辺境で食べた。
しかも、食べてしまった。
美味いと思ってしまった。
それが、何より許せなかった。
「……あの女が」
アーサーは、馬車の窓の外を睨んだ。
「王都よりも良い暮らしなど、許されるはずがない」
アリシアは、その言葉を聞いて、すぐに身を乗り出した。
「本当にそうですわ、アーサー様」
彼女の声には、甘さよりも嫉妬が滲んでいた。
「ヴィクトリア様は、辺境で反省しているどころか、王都より贅沢をしていました。あの温かいお部屋も、臭わない厠も、真冬のサラダも……全部、まるで私たちを見下すために用意していたみたいでしたわ」
「見下す、だと」
アーサーの目が細くなる。
「ええ。あの方、言っていたではありませんか」
アリシアは、悔しげに唇を噛んだ。
「『王都よりこっちの方が快適でしょう?』って……。あれはきっと、アーサー様への当てつけですわ。追放されたのに、自分はこんなに豊かに暮らしているのだと、誇っていたのです」
事実、ヴィクトリアにはそんな深い意図はなかった。
ただ、眠そうに、本音を言っただけである。
だが、アーサーとアリシアにとっては、その一言こそが屈辱だった。
王都より辺境が快適。
王太子より追放令嬢が豊か。
その現実を、そのまま突きつけられたのだから。
「……許さん」
アーサーは、拳を握りしめた。
「王家の庇護を受けて育った女が、その才を勝手に辺境で使い、王都を差し置いて富を築くなど、許されるものか」
「そうですわ」
アリシアは、すがるように頷いた。
「ヴィクトリア様は、王太子妃候補だったのですもの。その知識も、技術も、本来はアーサー様のために使うべきだったはずです」
その言葉は、アーサーにとって何より都合がよかった。
敗北を認める必要がなくなる。
自分が捨てたものの価値に気づけなかった愚かさを、直視しなくて済む。
ただ、こう考えればよい。
奪われたのだ、と。
本来、自分のものであるはずの才と富を、ヴィクトリアが勝手に持ち出したのだ、と。
「王都へ戻り次第、会議を開く」
アーサーは冷たく告げた。
「あの辺境に、王家の力を思い知らせてやる」
◆ ◆ ◆
王宮に戻ったアーサーは、休む間もなく諸官を召集した。
王宮の会議室には、重苦しい空気が満ちていた。
長い卓の上には、黒曜辺境伯領に関する報告書が積み上げられている。
王都から派遣された使者団の報告。
アーサー自身の視察記録。
市場での野菜取引価格。
王宮厨房の食材不足。
北方防衛線の冬季費用。
それらすべてが、一つの事実を示していた。
黒曜辺境伯領は、もはや王都が思っていた貧しい辺境ではない。
それどころか、王都のいくつもの機能を上回り始めている。
「まず、財務官」
アーサーは、低い声で命じた。
「黒曜辺境伯領の野菜取引は、王都にどれほど影響を与えている」
財務官は青ざめた顔で羊皮紙をめくった。
「は、はい。黒曜辺境伯領産の冬野菜は、現在、王都の上級貴族層を中心に非常に高値で取引されております。取引量はまだ限られておりますが、利益率が異常に高く、商会の金の流れが黒曜辺境伯領へ向かい始めております」
「それは問題か」
「問題でもあり、恩恵でもあります」
財務官は、恐る恐る答えた。
「王都の食卓事情は、正直に申し上げて悪化しております。冬季の新鮮な食材不足は深刻です。黒曜辺境伯領からの供給を止めれば、貴族街の不満は一気に高まります」
「つまり、取引を続けたいと?」
「はい。むしろ正式な取引路を整え、税を適切に課し、王都との協調関係を築くべきかと……」
「協調?」
アーサーの声が冷たくなった。
財務官は、びくりと肩を震わせた。
「は、はい。少なくとも、現時点で敵対するのは得策ではございません」
アーサーは、不快そうに顔を背けた。
「軍務官」
今度は軍務官が進み出た。
「黒曜辺境伯領の防衛力はどう見る」
軍務官は、使者団の報告書を手に取った。
「極めて異常です。魔物の群れを兵の損耗なしに退ける防壁と水堀。さらに、黒曜騎士団の士気と体力は非常に高いと報告されています。食糧事情の改善により、兵の健康状態も良好。通常の辺境兵とは比較になりません」
「王都軍で制圧できるか」
会議室の空気が、わずかに凍った。
軍務官は、慎重に言葉を選んだ。
「正面から攻めるなら、損害は大きいでしょう。そもそも北方の魔物防衛を担う黒曜辺境伯領を弱体化させれば、その穴を王都軍が埋めねばなりません」
「だから?」
「敵対は避けるべきです」
軍務官は、はっきりと言った。
「少なくとも、黒曜辺境伯領の防衛機構を奪う、または解体するような命令は、北方防衛そのものを危険に晒します」
「臆したか」
アーサーが吐き捨てる。
軍務官は唇を引き結んだ。
「臆しているのではありません。現実を申し上げております」
その言葉に、アーサー派の若い貴族が、鼻で笑った。
「現実とは何だ。辺境伯など、王家の臣下に過ぎぬ」
別の貴族も同調する。
「その通りです。黒曜辺境伯領が富を蓄えているのなら、王家に供出させればよい」
「冬野菜の技術も、防壁の仕組みも、下水や温室の手順も、すべて王都へ差し出させるべきです」
「そもそも、ヴィクトリア嬢は元は王太子妃候補。彼女の才は、王家に仕えるためのものだったはず」
「辺境で勝手に使わせておく方がおかしい」
会議室の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
それは知恵の熱ではなかった。
嫉妬と欲に炙られた、浅ましい熱だった。
アーサーは、その声を心地よく聞いていた。
自分だけではない。
他の貴族たちも、黒曜辺境伯領の豊かさを許せないのだ。
ならば、自分の怒りは正しい。
そう思い込むには十分だった。
だが、その時、会議室の奥から、静かな声が落ちた。
「殿下。恐れながら、今の議論は危うございます」
老宰相だった。
彼は白い髭を撫でながら、ゆっくりと立ち上がった。
「黒曜辺境伯領は、すでに単なる辺境の一領地ではありません。食糧、防衛、衛生、財政。そのすべてにおいて、独自に回る仕組みを持ち始めております」
「だからこそ、王家の管理下に置くべきなのだ」
アーサーは即座に言い返した。
老宰相は首を横に振った。
「命令で従わせる段階は、すでに過ぎております」
会議室が静まり返る。
アーサーの眉が跳ね上がった。
「何だと」
「黒曜辺境伯領は、王都からの物資に頼り切ってはおりません。むしろ、王都の方がその産物を求め始めております。さらに、北方防衛の要でもある。強引な接収や増税は、彼らを従わせるどころか、王都への不信を決定的なものにするでしょう」
「宰相」
アーサーの声が低くなる。
「貴様は、辺境の肩を持つのか」
「王国全体の安定を考えております」
老宰相は、怯まなかった。
「今必要なのは、融和です。正式な使節を送り、これまでの追放処分の扱いも含め、黒曜辺境伯領との関係を立て直すべきです。ヴィクトリア様に対しても、まずは謝意と礼を示すべきでしょう」
「謝意?」
アーサーの口元が、歪んだ。
「私が、あの女に礼を言えと?」
「そう申し上げております」
老宰相は静かに言った。
「殿下。ヴィクトリア様を軽んじ、遠ざけた結果、王都の運営はすでにあちこちで綻び始めております。ここでさらに誤れば、王都は自ら北方の盾を敵に回すことになります」
「黙れ」
アーサーの声が、会議室を打った。
老宰相は目を伏せた。
アーサーは椅子から立ち上がり、卓上の報告書を睨みつける。
そこに書かれているのは、黒曜辺境伯領の発展。
王都より清潔な街。
王宮より豊かな食事。
魔物を戦わず退ける防壁。
冬野菜の輸出で潤う金庫。
異常なほど領主とヴィクトリアに忠誠を示す住民たち。
そのすべてが、アーサーには称賛ではなく、侮辱に見えた。
王都が負けている。
王太子である自分が、追放した女に負けている。
その現実を認めるくらいなら、力でねじ伏せる方が、彼にはよほど楽だった。
「黒曜辺境伯領には、冬季特別負担税を課す」
アーサーは冷たく言った。
財務官が、ぎょっとして顔を上げる。
「殿下、それは……!」
「王都の冬季運営が苦しいのは、辺境が富を抱え込んでいるからだ。ならば、その富を王都へ戻させるのは当然だろう」
「しかし、名目が……」
「名目など作ればよい」
アーサーは、若い貴族たちへ視線を向けた。
「北方防衛支援金。王家特別管理税。何でもよい。とにかく、黒曜辺境伯領の収益の一部を王都へ納めさせろ」
アーサー派の貴族たちが、満足げに頷いた。
「さらに」
アーサーは続けた。
「黒曜辺境伯領で用いられている技術について、王都への供出命令を作成する」
軍務官が顔色を変えた。
「殿下、技術を強制的に奪えば、彼らは反発します」
「奪うのではない。王家のために差し出させるのだ」
アーサーは当然のように言った。
「温室、下水、床暖房、防壁。それらは王国全体のために使われるべきだ。辺境だけが独占するなど、許されない」
老宰相が、深い溜息をついた。
「殿下。その命令に、彼らが従わなかった場合は?」
「従わせる」
「どうやって」
「王太子の命令だ」
あまりにも単純な答えだった。
老宰相は、静かに目を閉じた。
王太子は、まだ理解していない。
黒曜辺境伯領は、すでに命令一つで膝をつく相手ではない。
むしろ、命令が強ければ強いほど、彼らは固く結束するだろう。
特に、ヴィクトリアを守るためならば。
しかし、アーサーには届かない。
「アリシア」
アーサーが声をかけると、会議室の脇に控えていたアリシアが、ぱっと顔を上げた。
「はい、アーサー様」
「お前も見ただろう。あの女は、辺境で王都を見下していた」
「はい……。とても悲しかったですわ」
アリシアは、胸に手を当て、潤んだ目を作った。
「ヴィクトリア様は、きっと殿下のお優しさに甘えているのです。だからこそ、少し厳しくお導きにならなければ……」
「そうだ」
アーサーは頷いた。
「これは罰ではない。王家の秩序を取り戻すための措置だ」
老宰相は、心の中で呟いた。
違う。
それは秩序ではない。
敗北を認められない若者の、ただの癇癪だ。
だが、その癇癪が王太子の名で発せられる時、国そのものを揺るがす災いになる。
「書記官」
アーサーは命じた。
「すぐに文案を作れ。黒曜辺境伯領に対し、冬季特別負担税を課す。加えて、領内で使用されている特殊設備と技術の詳細な供出を命じる」
「は、はい……」
書記官の手が震える。
「期限は?」
「十日だ」
会議室がざわめいた。
財務官が慌てて言う。
「殿下、十日はあまりにも短すぎます。辺境との距離を考えれば、文書が届くだけでも……」
「短いからよいのだ」
アーサーは、苛立たしげに言った。
「あの女とレオンハルトに、王家の命令を待たせる権利などない」
軍務官が、低く呟く。
「……これは、挑発です」
アーサーは聞こえないふりをした。
老宰相は、静かに杖を握りしめた。
財務官は青ざめ、軍務官は眉間に深い皺を刻み、書記官は震える手で羊皮紙に筆を走らせる。
一方で、アーサー派の貴族たちは満足そうに笑っていた。
黒曜辺境伯領の富が、王都へ流れ込む。
冬の野菜も、温かな設備も、臭わない下水も、戦わず勝つ防壁も、すべて王都のものになる。
彼らはそう信じていた。
その技術を動かしている現場の知恵も。
運用を支える手順書も。
住民の異常な忠誠も。
ヴィクトリアの安眠を守るという、辺境全体に染み込んだ奇妙な信仰も。
何一つ理解しないまま。
「黒曜辺境伯領へ通達を出す」
アーサーは、高らかに宣言した。
「王家の名において、富を納めさせ、技術を差し出させる。従わぬなら、それ相応の処置を取る」
誰も拍手しなかった。
ただ、会議室の空気だけが、冷たく重く沈んでいく。
王都と黒曜辺境伯領。
これまでかろうじて保たれていた細い糸が、今、アーサー自身の手によって、乱暴に引き裂かれようとしていた。
そして、その命令書が北へ向けて発送された時。
王都の傲慢と、辺境の自立は、ついに真正面から衝突することになる。
最後まで読んで頂いてありがとうございます!
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